女神の堕落
それからの私は、何かに取り憑かれたように勉強に没頭した。
司法試験の参考書と六法全書、判例集。
それらが私の新しい家族であり、恋人だった。
食事の時間を惜しみ、睡眠時間も削った。
ただひたすらに知識を頭に詰め込む。
夫との会話は完全に消滅した。
彼は最初こそ私を気遣っていた。
だがやがてその目には諦めと、恐怖の色が宿るようになった。
ある深夜。
私が机に向かっていると、夫が背後から声をかけてきた。
「なぁ沙織……もう、やめないか?」
その声は疲れ切っていた。
「根を詰めすぎると体を壊すよ、そんな姿を見たら……友希だって悲しむ」
ペンを走らせる手が止まる。
カツン
ペン先が机を叩く音が、静寂を切り裂いた。
それだけは、聞き捨てならなかった。
私はゆっくりと振り返り、夫を睨みつけた。
「……今、なんて言ったの?」
「沙織……」
「私が、友希の気持ちをわかっていないとでも言うの?」
私は椅子を蹴って立ち上がり、夫に詰め寄った。
「あの子は殺されたのよ! 理不尽に、無意味に! その無念を晴らそうとすることが、なぜ悲しむことになるの!?」
「復讐のために生きるなんて、友希は望んでいない!」
「わかるの!?」
私は絶叫した。
「あんたに、あの子の痛みがわかるの!? 体がちぎれる痛みが! 助けを呼んでも届かなかった絶望が! あの子の無念が、あんたなんかにわかるはずがない!」
夫は息を呑み、たじろいだ。
私と彼の間には、決定的な断絶があった。
私は『背負い続けよう』とした。
だがきっと彼は、『乗り越えよう』としたんだと思う。
私たちはもう、同じ方向を見ていなかった。
夫は深いため息をつき、悲しげに目を伏せた。
「……沙織、お前変わったな」
その言葉を聞いた瞬間。
ああ、私はこの人をも失うのだとはっきりと悟った。
そして、それでも構わないとそう思った。
友希のいない未来に、夫婦の幸せなど存在しないのだから。
数日後に突きつけられた離婚届に、私は迷わずサインをした。
涙は一滴も出なかった。
私の涙はあの日、友希の前ですべて枯れ果てていた。
数年後。
私は検事となり、法廷に立っていた。
かつての『被害者遺族』としての経験は、私に冷徹な刃を与えた。
被告人の生い立ちや反省の弁、弁護人の求める情状酌量。
そんなものは一切必要ない。
見るのは『結果』のみ。
奪われた命の重さだけを天秤にかけ、極刑を求刑し続ける。
いつしか私は『法廷の死神』と呼ばれるようになっていた。
その不名誉な異名さえ、私にとっては勲章だった。
死神で結構。
人殺しに引導を渡すのが私の役目なら、喜んでその鎌を振るおう。
いくつもの死刑判決を勝ち取った。
だが、いつまで経っても心は一向に満たされなかった。
どれだけ裁いても、友希は帰ってこない。
胸に空いた風穴は広がるばかり。
私はその虚無を埋めるために、さらなる『悪』を求めた。
そして、あの日。
須田優司という男が現れた。
弁解録取手続きの為に入った部屋。
パイプ椅子に座るその男は手錠をかけられているにも関わらず、まるでカフェでくつろいでいるかのようなリラックスした様子だった。
「はい、私が殺しました」
あっさりと犯行を認めるその口元には、薄気味悪い笑みが張り付いていた。
反省の色はおろか、罪悪感の欠片もない。
二人を殺した男。
「動機は?」
「そうしたかったからです」
ふざけている。
私の脳裏にあの日法廷で見た、友希を殺した男の姿が重なる。
命を何とも思っていない、傲慢で空虚な魂。
こいつも同じだ。
姿形は違えど、中身はあの時の『悪魔』と同じだ。
そう、『同じ』だ。
あの時理解できなかったあの男。
得られなかった『答え』を、この男に求めたのかもしれない。
いつもであれば絶対にしない質問を、私は込み上げる嫌悪感を抑え尋ねた。
「あなたが殺した二人は……あなたにとって、どんな人だったの?」
その時。
須田の表情から、すっと感情が消えた。
笑顔が剥がれ落ち、能面のような真顔になる。
時が止まったような静寂。
彼の瞳の奥に、底知れない闇が見えた気がした。
だが、それは一瞬のこと。
すぐにまた、あの仮面のような笑顔が戻る。
「さぁ……興味ありませんね」
彼はそう言って、肩をすくめた。
プツン。
私の中で、理性の糸が切れる音がした。
興味がない?
奪った命に、興味がないだと?
友希もそうだったのか。
あの男にとって我が子の命は、『興味のない』路傍の石だったのか。
許せない。
絶対に、許さない。
こいつは死ぬべきだ。
法の裁きなどどうでもいい。
私が、この手で地獄へ送ってやる。
私はその時、検事としての矜持を捨てた。
そして復讐者としての仮面を被り直した。
しかし、捜査は難航した。
知人である科捜研の職員から極秘裏にもたらされた報告は、私のシナリオを根底から覆すものだった。
『皆原誠の遺体ですが……防御創が全くありません。それに、致命傷の角度や深さから見て、他殺ではなく自殺の可能性が高いです』
自殺?
そんな馬鹿な。
自殺なら、須田の殺害供述と矛盾する。
もし自殺だと認定されれば、須田が殺したのは一人だけになる。
わが国の司法の慣例上、一人殺しでは死刑は難しい。
「なんですって!?」
私は電話口で怒鳴った。
「そんな結果……認められるわけがないでしょう!」
『しかし、科学的な所見としては……』
「黙りなさい!」
私はその職員の弱みを握っていた。
彼が過去に犯した、小さな横領の事実。
「そんなふざけた鑑定結果を表に出してみなさい。あんたの人生、終わらせてやるわよ!」
私は脅迫した。
法を守るべき検事が、証拠の捏造を強要したのだ。
自分でも異常だとわかっていた。
狂っていると自覚していた。
だが、止まれなかった。
須田を生かしておけば、友希の無念が晴らせない気がした。
正義のためなら、多少の犠牲は構わない。
そう自分に言い聞かせ、私は悪魔に魂を売った。
そして今。
執務室の窓ガラスに映る自分を見つめる。
私は勝ったはずだった。
証拠を固め証言を誘導し、須田を追い詰めた。
だが、判決は無期懲役。
そして須田は死んだ。
私の手ではなく、他人の手によって。
私のやったことは、何だったのか。
ただ法を犯し、人を脅して自分の手を汚しただけ。
虚しい。
あまりにも虚しい結末。
首から下げたロケットペンダントを手に取る。
蓋を開けると、そこには幸せだった頃の私たち――友希と元夫と、そして笑っている私がいた。
「友希……」
指で息子の写真をなぞる。
「お母さん、なんにもわかってなかった」
正義だの断罪だのと息巻いて、結局は自分の鬱憤を晴らしたかっただけなのかもしれない。
怪物を退治するために、私自身が怪物になってしまった。
「馬鹿なお母さんで……ごめんね」
ロケットを握りしめ、目を閉じる。
コン、コン。
規則正しい、遠慮のないノックの音が響いた。
このリズムは、彼だ。
「どうぞ」
袖で顔を拭い、声を整えて答える。
ドアが開き、三木事務官が顔を覗かせた。
「失礼します」
彼は私の顔色を伺うように、静かに部屋に入ってきた。
手には、数枚の書類を持っている。
「あなたは……気づいていたの?」
私は机の上に放置されていた捜査報告書――十河警視が突きつけていった『真実』――を指差した。
三木君は視線を落とし、重々しく言った。
「……申し訳ありません」
それが答えだった。
彼は知っていたのだ。
この事実を。
それでも、黙って従っていた。
「いいのよ」
私は自嘲気味に笑った。
「公判前でも、公判中でも……こんな事に気付いていたら、私はきっと正気でいられなかったわ」
三木君は落ち着かない様子で、身じろぎをした。
要件があるはずだ。
「どうしたの?」
「……科捜研の彼ですが」
三木君は慎重に言葉を選んだ。
「職務停止で謹慎になったとの事です、内部告発があったようで」
十河警視か。
仕事が早いわね。
私は深いため息をついた。
「そう……すぐに吐くでしょうね、彼からしたら私には恨みしかないでしょうし」
脅迫され、不正に加担させられた被害者。
彼が口を開けば、私の検事生命は終わる。
逮捕されるかもしれない。
「終わりは、近いわね」
それは諦めであり、同時に安らぎでもあった。
肩の荷が下りるような感覚。
「あなたは私の指示に従っただけ、手配するから他の検事のところで頑張りなさい。あなたならどこでもやっていけるわ」
私は彼を解放することにした。
泥舟に、道連れにするわけにはいかない。
しかし、三木君は即答した。
「それは、お断りします」
驚いて顔を上げる。
彼は真っ直ぐに私を見ていた。
「なんだかんだ言っても……あなたの隣は、居心地がいいんです」
「……物好きね」
と私は小さく笑った。
こんな転落寸前の女の隣がいいだなんて。
三木君は一歩前に進み出た。
「白浜検事、あなたは……多くの人を救ってきました」
その声には、熱がこもっていた。
「あなたは忘れてしまったかもしれませんが……私は覚えています」
彼は、私が担当してきた事件を語り始めた。
「五年前のOL殺人事件。あなたは被害者の無念を晴らすため『鬼畜の所業』と厳しく断罪し、死刑判決を勝ち取りましたね。公判で、ご両親が涙ながらにあなたに感謝していた姿を」
「三年前の連続強盗殺人事件。一審無罪を覆し、再度の精神鑑定で責任能力を立証した時のあなたの執念。被害者の方が『あなたのおかげで前を向ける』と言ってくれた言葉を」
「そして一昨年の一家惨殺事件。少年法の壁を打ち破り、死刑を勝ち取った時のあの震えるような正義を」
三木君は私の目をまっすぐに見つめ、言葉を継いだ。
「あなたは常に結果責任を問い、被害者遺族の視点から事件を見て常に最善を尽くしてきた。それは決して、簡単なことではありません」
三木君は力強く言った。
「あなたは必要とされていた、それは紛れもない事実です。今回は方法を間違えてしまったかもしれない、それでも……あなたの考え方は、決して間違っていなかったと私は確信しています」
私は何も言えず、ただ頷いた。
喉が熱い。
この男は私の罪も業も、すべてひっくるめて肯定してくれている。
「ただ」
三木君は少し躊躇いながら、懐かしむように言った。
「あなたは弁護士だった頃のほうが……生き生きしていましたよ」
その言葉に、私はハッとした。
弁護士だった頃。
友希が生きていて夫がいて、毎日が輝いていたあの日々。
「……そうね」
私は窓の外を見た。
夜景が滲んで見える。
「じゃあ……弁護士に戻ったら、また私の隣にいてくれる?」
あり得ない仮定。
法曹界を追放されれば、弁護士資格も失うだろう。
それでも、口に出さずにはいられなかった。
三木君は破顔した。
「もちろんです、白浜先生」
「……随分、気が早いわね」
そう軽く笑った。
二人で笑い合う、束の間の平穏。
破滅の足音はもうそこまで迫っている。
けれど今だけはこの忠実な部下と共に、あり得ない未来の夢を見ていたかった。
机の上に置かれたロケットペンダントの中で、友希が楽しそうに笑っていた。




