表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第十四章
28/40

手数料

伸びてきた前髪をかき上げる。


指に絡まる髪には黒いものが無い、真っ白だった。


私、白浜沙織は捜査報告書の『被害者』の項目を読み終える。


それを重厚なマホガニーの机の上に置いた。


窓の外はすでに夜の帳が下りている。


ガラスに映るのは、疲れ切った検事の顔ではない。


遠い過去を彷徨う一人の女の顔だった。


視界のピントがずれていく。


意識は今ここにある執務室を離れ、あの日々へと逆流していく。




それは私がまだ、正義感に燃える一介の弁護士だった頃のこと。


「生まれましたよ、おめでとうございます!」


産婦人科の分娩室。


医師の明るい声が、世界を祝福の色に染め上げた。


全身を駆け巡る、心地よい疲労感と圧倒的な達成感。


隣にいた夫と手を握り合い、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見合わせた。


初めて腕に抱いた我が子の重み。


壊れそうなほど小さく、しかし確かに脈打つ命の温もり。


それは奇跡そのものだった。


「沙織……ありがとう」


夫が震える声で言った。


その瞳からこぼれ落ちた涙が、赤ちゃんの頬を濡らす。


名前は、二人で何度も話し合って決めていた。


友希ともき


友達に囲まれて、希望に溢れた人生を歩んでほしい。


そんな願いを込めた名前だった。


友希との時間は、私の人生における黄金時代だった。


この子を中心に、世界が回っていた。


公園の芝生の上で、よちよち歩きの手を引いて散歩した日々。


初めて補助輪なしで自転車に乗れた時の、誇らしげなドヤ顔。


夏休みに家族で海へ出かけ、波打ち際ではしゃいだ時の甲高い笑い声。


「お母さん!」


そう呼んで駆け寄り、私の足に抱きついてくる小さな体温。


その温もりが仕事の疲れも、社会の理不尽さもすべて溶かしてくれた。


夫もまた、この子を溺愛していた。


休日の午後。


縁側で友希と並んで座る夫の背中を見ながら、『私は今、本当に幸せだ』と心から思った。


この幸せが、永遠に続くと信じていた。


しかし、永遠などなかった。


あの日――一本の電話が鳴った瞬間、私の時間は停止した。


警察からの電話。


受話器の向こうの言葉が、日本語として理解できなかった。


友希が……死んだ?


交通事故?


何を言っているの?


半狂乱になりながら、夫と共に警察署へ駆けつけた。


通されたのは、ひんやりとした空気が漂う霊安室だった。


「……ご遺族の方ですね」


警察官の沈痛な面持ちと『遺族』と言う言葉、全身に嫌悪感が走ったのを覚えている。


「ご遺体には触れずに、どうかお気持ちを強く持ってください」


「何故ですか!? 早く友希に会わせてください!」


夫が警察官に詰め寄る。


私たちは、部屋の中央にあるストレッチャーへと案内された。


そこには、白い毛布を掛けられた小さな膨らみがあった。


震える手で、毛布をめくる。


友希だった。


少し顔色は悪いけれど、まるで遊び疲れて眠っているかのような安らかな顔。


「……友希?」


私は名前を呼んだ。


返事はない。


実感など、微塵も湧かなかった。


だって、ここにいる。


顔もきれいだ。


ただ寝ているだけにしか見えない。


「起きて、友希。帰ろう?」


私は友希を抱き上げようとした。


その瞬間。


「ひっ……」


隣で夫が息を呑み、腰を抜かして崩れ落ちた。


私もまた、自分の腕の中の違和感に凍りついた。


軽い。


あまりにも、軽すぎる。


私が抱き上げたのは、友希の上半身だけだった。


毛布の中に、下半身が残されている。


切断面から垂れ下がる、無残な何か。


その光景は脳裏に焼き付き、今も悪夢となって私を苛む。


「……あ」


警察官が、苦渋に満ちた声で説明する。


「車と電柱に挟まれた際に……圧断されました」


職業柄身につけてしまった医学知識が、残酷な冷静さで分析を始めてしまう。


腹部での切断。


脳や心臓に直接的な損傷は見られない。


即ち、即死ではなかった可能性が高い。


「……お、母さん……」


体を切断された激痛と恐怖の中。


この子が喉から声を絞り出して、私を呼ぶ声が聞こえる。


ただ冷たい絶望だけが私を包み込んだ。


「ああああああぁぁぁっ!」


言葉にならない絶叫が、喉を引き裂いてほとばしった。


獣のような咆哮。


駆けつけた三木君もただ立ち尽くし、涙を流すことしかできなかった。


夫と抱き合い、床に転げ回って泣いたあの日。


あの日、私の中の『幸せな沙織』は死んだ。




通夜の日。


加害者である七條しちじょう家の秘書と名乗る男が訪れた。


慇懃な態度で、分厚い香典袋を差し出してきた。



「この度は誠にご愁傷さまです、謹んでお悔やみ申し上げます。……つきましては、今後の示談についてですが」


その言葉の端々に、金で解決しようという冷たい計算が見え透いていた。


友希の命を、事務処理の一つとして片付けようとしている。


私は香典袋を叩き落とした。


「ふざけるな! 帰れ!」


「奥様、落ち着いて……」


「話すことなんてありません! 友希の命を金で買えると思うな! 絶対に、絶対に償わせてやる!」


怒髪天を衝く勢いで怒鳴りつけた私に秘書は一瞬怯んだが、すぐに冷ややかな目を向けて帰っていった。


私は戦うことを決意した。


友希の命を冒涜した人殺しに、相応の罰を与えること。


それが私の生きる意味になった。


しかし、現実は非情だった。


法廷で対面した加害者の男。


彼は、反省などしていなかった。


高級スーツに身を包み、退屈そうに貧乏揺すりをしている。


その目は私たちを見下し、人の命など路傍の石ころ程度にしか思っていない目だった。


絶対に許せない。


せめて最大限の刑を。


一生、罪を償わせる。


検察と共に戦った。


あらゆる証拠を揃え、情状酌量の余地がないことを訴えた。


だが判決は、『執行猶予付き』。


百戦錬磨の強力な弁護団による裏工作と、有力議員である親の権力。


そんな化け物共を相手にしていたのだ。


今にして思えば善戦したと言えるのかもしれない、少なくとも『有罪』にはできたのだから。


だがあの頃はそんなもの、何の慰みにもならなかった。


「……そんな」


最後の望みであった検察も、最終的には控訴を断念した。


もはや、法的にこの判決を覆す術は残されていなかった。


「沙織……もう、いいよ」


夫が力なく呟いた。


「もう、休もう」


私はその場で泣き崩れた。


悔しさと無力感で、脳の血管が切れて憤死しそうだった。


家に戻ってからは、抜け殻のように過ごした。


食事も喉を通らず、ただ友希の遺影を見つめて過ごす日々。


夫との会話もなくなった。


家の中には重苦しい沈黙と、死の気配だけが漂っていた。


そんなある日、市役所から一通の封筒が届いた。


何かの手続きの書類だろうか。


何の感情もなく封を開けると、中には一枚の納付書が入っていた。


『死体検案手数料 納入通知書兼領収書』


そこには数万円の金額と振込先、支払い期限だけが無機質なゴシック体で印字されていた。


『死体検案手数料』。


その文字列を見た瞬間、私の内側で何かが爆発した。


息子の死が。


あんなにも愛おしく、理不尽に奪われた命が。


行政にとっては単なる『処理すべき手続き』でしかない。


「……ふざけるな」


悲しみに打ちひしがれる遺族に対してこのシステム、この国はどこまで無神経でいられるのか。


司法だけではない。


この社会全体が被害者の痛みに対してあまりにも鈍感で、冷酷なのではないか。


私は請求書を握りしめ、わななく手でそれをくしゃくしゃに丸めた。


破り捨てたい。


火をつけて燃やしたい。


だが、それすらも虚しい。


私の怒りも絶望も、この冷たい紙切れ一枚の前では何の意味も持たないのだと思い知らされた。


この国の司法が憎い。


この国の行政が憎い。


そして何より、のうのうと生きているあの男が憎い。


そのどす黒い怒りだけが、私を突き動かした。


「こんな司法制度では、人殺しは裁けない」


私は丸めた紙を投げ捨て、誓った。


「だったら私が裁く、私が検察官になって……人殺しを、殺す」


それは正義感ではない。


私怨と復讐心に彩られた、修羅の道への第一歩だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ