汚れた手と矜持
「……なんですか、その自信」
瀬戸の顔から血の気が引いていく。
彼女は震える手で顔を覆った。
指の隙間から、壊れそうな声が漏れる。
「でも……十河さんはやっぱり……すごいですね」
「瀬戸……」
自分の声に、悲しみが滲むのが自分でもわかった。
瀬戸は深く息を吐き、覚悟を決めたように顔を上げた。
その瞳は潤んでいたが、もう逃げる様子はなかった。
「あの家に行って皆原の死体を見た時は、驚くほど冷静だったんです」
彼女は独白を始めた。
「スマホを回収した時、画面が開いたままでした。そこに未送信のメールがあって……」
「それを読んだのか?」
「はい」
瀬戸の視線が宙を彷徨う。
「読んだ瞬間、頭が真っ白になりました。怒りとか、悲しみとか、そんな単純な言葉じゃ片付けられない感情が爆発して……」
彼女は膝の上で拳を握りしめた。
「気がついたら、あの人は滅多刺しになっていて……私の手には、あの人が須田君に殺された時に使われた包丁が握られていました」
俺は言葉を失った。
想像していた以上の深淵が、そこにはあった。
ずっとこんな暗い秘密を抱えて、何食わぬ顔で俺と捜査をしていたのか?
いやそうじゃない。
きっと俺が、何も見えていなかっただけだ。
「捜査中も、気が気じゃなかったんですよ」
瀬戸は困ったように、弱々しく微笑んだ。
「何度も相談しようと思いました、でもそれには私の罪を全て告白しなければいけない」
「……」
「怖かったんです、警察官でいられなくなるかもしれない。十河さんと働けなくなるかもしれない、見放されてしまうんじゃないかって……」
彼女の声が震え、涙が頬を伝う。
「……馬鹿野郎」
俺は唸るように言った。
部下の苦悩にまるで気づかず、優秀な刑事気取りで現場を走り回っていた自分への怒り。
「すみません……」
瀬戸は深く項垂れた。
俺は天井を仰ぎ、大きく息を吐き出した。
やってしまったことは取り返しがつかない。
だが、ここで終わらせるわけにはいかない。
「わかった」
俺は瀬戸をじっと見据えた。
「それでは、須田を撃った時の話を聞かせてくれ」
瀬戸は諦めたように頷き、ポツリポツリと話し始めた。
墓地で須田と対峙した時の、張り詰めた空気。
彼の一言が、どのように彼女の理性の引き金を引いたのか。
皆原への煮えたぎるような憎悪や亡き母への思慕、そして智成と交わした最期の約束……。
彼女は時折言葉を詰まらせながら、胸の内に澱んでいた感情を一つずつ吐き出していった。
それらが複雑に絡み合い、殺意の引き金を引かせたこと。
「でも、十河さん……私にもわからないんです。本当に私は須田君を殺そうと思ったのか、それとも……」
「無理もない」
俺は短く答えた。
それだけの背景があれば、冷静でいられるはずがない。
「十河さん」
瀬戸はポケットから、証拠品袋に入ったスマートフォンを取り出すとテーブルの上に差し出した。
「あの人が使っていたスマホです。……私の動機が、この中にあります」
俺はそのスマホを見つめた。
ビニール越しの冷たい感触。
俺はそれを懐にしまった。
「わかった、……報告してくる」
立ち上がり、部屋を出ようとする俺の背中に瀬戸の視線が刺さる。
俺は振り返らずに部屋を出た。
重い足取りで、捜査一課長のデスクへ向かう。
課長は俺の顔を見るなり、眉をひそめた。
「どうした十河、酷い顔だぞ」
俺は周囲に聞こえないよう声を潜め、状況を説明した。
瀬戸の告白。
死体損壊の事実。
そして、須田射殺の経緯。
課長の顔色がみるみる変わっていく。
「……瀬戸を死体損壊で逮捕し、須田の射殺については更なる捜査を進めるよう進言します」
俺が言い切るなり課長は深いため息をつき、頭を抱えた。
「どういうことになるか、わかってて言っているんだよな?」
課長の視線が鋭くなる。
「法のもとに権力を行使する我々が、法を無視することはあってはなりません」
俺は譲らなかった。
「言うまでもない事だと思うが、瀬戸の懲戒免職は免れないぞ。刑事告訴されれば実刑もあり得る」
言葉が胸に刺さる。
だが隠蔽すれば、瀬戸は一生自分の罪と嘘に怯えて生きることになる。
それは、死ぬことよりも辛いことかもしれない。
「……そうならないように、全力を尽くします」
我ながら馬鹿な事を言ったものだ。
「全力を尽くす? どうやって?」
課長は失笑した。
「そうですね」
俺は懐に手を入れ、あるカードを切ることにした。
「部下の不始末を見抜けなかった事に、責任を感じております」
懐から顔を覗かせた白い封筒を見て、課長の声色が変わる。
「おい待て」
俺は構わず続けた。
「副総監には目をかけていただいたのに申し訳ないと、十河が言っていたとお伝えください」
自分で言うのもなんだが、俺は副総監に気に入られている。
そもそも瀬戸の教育係を押し付けられたのも、あの方の鶴の一声だった。
今回の件、あの方にも責任の一端はある。
こんな時くらい、その名前を使わせてもらっても罰は当たるまい。
「……わかった、わかったよ!」
課長は慌てて俺を止めた。
「瀬戸を逮捕したうえで、できるだけ穏便に済ませられるよう掛け合う! 情状酌量の余地はあるはずだ」
「よろしくお願いします」
俺は深々と頭を下げた。
「そもそも逮捕しなけりゃ話は早いだろ」
課長がぼやいた。
確かにそうだ。
誰も見ていないし、証拠もない。
だが。
「そうかもしれません、でもうまく言葉にできませんが……それじゃあ駄目だと思うんです」
そうでないと、瀬戸は本当の意味で前に進めない気がしたのだ。
罪を償い、日の当たる場所に戻ってきてほしい。
「全く……ただ事が事だ、絶対にうまくいくとは言えん。良くて五分五分だぞ」
「その時は、実家の定食屋でも継ぎますよ」
「そりゃいいな、瀬戸も誘ってやれ」
課長は苦笑いで答えた。
「……瀬戸は、俺を許さないでしょう」
ふと漏れた本音。
俺が彼女を逮捕するよう進言したこと。
それを知れば、彼女は俺を恨むかもしれない。
「そうかな? 俺はそうは思わんがな」
課長はニヤリと笑い、すぐに真顔に戻った。
「まぁお前が実家に戻らなくて良いよう努力はするよ、だが検察にはどう説明したもんかなぁ?」
わざと聞こえるように言ってくる。
警視庁内はともかく、検察――特にあの女については何とかしろと言いたいらしい。
俺は表情を引き締めた。
「私が直接、白浜検事に説明に行きます」
「そうか、頼むぞ」
東京地方検察庁に向かう車の中。
俺は何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した。
白浜検事との対話は、簡単ではない。
だが、こちらも引くわけにはいかない。
検察庁に到着し、白浜の執務室の前に立つ。
深呼吸をして心を落ち着かせ、ノックをした。
「どうぞ」
白浜の声が聞こえ、俺は部屋に入った。
彼女はデスクワークの手を止め、眼鏡の奥から俺を見た。
「十河警視、話があると伺いましたがどうされました?」
俺は真っ直ぐに白浜を見つめ、切り出した。
「重要な報告があります」
瀬戸の件について、包み隠さず説明した。
白浜の表情は、話が進むにつれて厳しくなっていった。
説明を終えると、俺は付け加えた。
「こちらで適切に対応します」
しかし白浜は眉間に深いしわを寄せ、冷ややかに言った。
「十河警視、これは大変な問題です。検察と警察の威信にも関わる。ここは私がうまく処理できるよう、動いてもいいかしら?」
俺は眉をひそめた。
「白浜検事、威信のために法を曲げては筋が通りません」
「あなたたちだけの問題じゃないのよ」
白浜は諭すように言った。
「もっと大きな影響を考えなきゃいけないの、警察の不祥事は司法への信頼を揺るがすわ」
それはこの事件の関係者の苦悩を無視し、組織の論理を優先する発言だった。
警視庁の面談室で、全てを吐き出して俯く瀬戸の姿が脳裏に浮かぶ。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「ふざけんな!」
バン!
俺は机を思い切り叩き、怒鳴りつけた。
「そんなクソみたいな隠蔽工作、誰が手を貸すか!」
言ってしまった。
だがもうどうでもいい。
腹の底からの言葉だった。
「てめぇらみたいなふざけた連中が、よく正義面していられんな! 威信だ? 体面だ? そんなもん、どこぞの穴に突っ込んでろ!」
怒号が部屋中に響き渡る。
白浜は唖然として、口を開けたまま俺を見ていた。
「不正してまで勝ちてぇのか!? 何が検事だ、吐き気がする!」
俺は止まらなかった。
「それだけじゃない! 科捜研に圧力をかけてたのはわかっている! 証拠も証言も掴んでんだよ! 威信に傷付くようなことしてんのは、どっちだ!」
この言葉に、白浜の表情が一変した。
驚愕。
そして、恐怖。
彼女の顔から血の気が引いていく。
「……!」
部屋に重苦しい沈黙が流れる。
俺と白浜は無言のまま、互いを見つめ合った。
自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
やがて俺は深く息を吐き、乱れた襟元を正した。
「……非礼をお詫びします」
静かに、しかし力強く言った。
「ですが科捜研の件は、このままで終わらせるつもりはありません」
白浜はしばらく黙っていたが、やがて開き直ったように薄く冷たい笑みを浮かべた。
「お好きにどうぞ」
余裕だ、とでも言うのだろうか。
冗談じゃない。
絶対に、償わせてやる。
俺は無言で一礼し、踵を返した。
ドアノブに手をかけたところで、思い出したように振り返る。
最後に、これだけは言っておきたかった。
「もう一つだけ」
俺は白浜を真っ直ぐに見据えた。
「正直、私はあなたが苦手です。それでも仕事はしっかりとこなす方だ、そう思っていました」
白浜が怪訝そうにこちらを見る。
「未だに捜査報告書にしっかりと目を通して頂けていないようで、……それでは」
俺は今度こそ部屋を後にした。
廊下に出ると、背中にじっとりと汗をかいているのがわかった。




