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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第十三章
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無力な者たちの夜

眉間の皺に指を這わせる。


そこには長年の捜査と苦悩で刻まれた、深い溝がある。


指先でその凸凹をなぞっても、何の慰めにもならないことは分かっていた。


ただそうしていなければ、目の前の重すぎる現実に押しつぶされそうだった。


病院の地下にある霊安室。


ひんやりとした冷気が、コンクリートの床から這い上がってくる。


鼻をつくのは消毒液と線香、そして死の臭いが混じり合った独特の空気だ。


ステンレスの台の上には、白い布に覆われた遺体が安置されている。


須田優司。


つい数時間前まであの不敵な笑みで俺たちを翻弄していた男は、今は物言わぬ肉塊となってそこにいた。


布を捲ればその顔には恐らく、最期の瞬間まで崩れなかったあの穏やかな微笑みが張り付いているのだろう。


そう思うと、顔を確認する気にはなれなかった。


部屋には、俺と高津弁護士の二人だけ。


重苦しい沈黙が、空気の密度を高めているようだった。


高津先生はパイプ椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆っている。


その肩は小刻みに震え、彼がどれほどの絶望の淵にいるかを物語っていた。


無理もない。


世間から『予告殺人鬼の弁護人』と罵られ、誹謗中傷を浴びる。


それでも彼は誰よりも真摯に須田と向き合い、その更生を信じて奔走していたのだから。


その結末がこれだ。


我々警察の失態による、最悪の幕切れ。


しばらくして、俺は乾いた唇を開いた。


「高津先生」


俺の声は、地下室の冷たい壁に反響して虚しく響いた。


「須田の護送中に起きた事態について……心からお詫び申し上げます。我々の不手際で、このような結果になってしまい、誠に申し訳ありません」


深々と頭を下げる。


どんな言葉も、今の彼には届かないだろう。


それでも、言わずにはいられなかった。


高津先生は顔を覆ったまま、力なく首を横に振った。


「……もう、いいんです」


掠れた声。


「全て、終わってしまったのですから」


彼はゆっくりと顔を上げた。


その目は赤く充血し、深い疲労と悲しみが滲んでいた。


憔悴しきっている。


俺はスーツの内ポケットに手を入れ、一通の茶封筒を取り出した。


A4サイズの、何の変哲もない封筒。


だがその中には、この事件の根幹を揺るがす『真実』が入っている。


「高津先生、これをお渡ししなければなりません」


俺は封筒を差し出した。


「事件の真相に繋がる物です、中身について説明させてください」


高津先生は虚ろな目で封筒を一瞥し、拒絶するように手を上げた。


「結構です」


その声には、断固たる拒絶の意志があった。


「もう聞きたくありません、今はただ……須田さんとここにいたいのです」


「ですが、先生」


俺は食い下がった。


「これは本来、あなたの切り札となるべきものだったんです。須田にも関わる、極めて重要な情報なんです」


「切り札……」


高津先生は自嘲気味に笑った。


「勝負はもう終わったんですよ、十河さん」


その言葉が胸に刺さる。


だが、ここで引くわけにはいかない。


これは俺の罪滅ぼしであり、須田への手向けでもある。


「お願いします、どうか受け取ってください。これは間違い無く、あなたが持っているべきものです」


俺の必死さに、彼は深いため息をついた。


根負けしたように、震える手で封筒を受け取る。


「……わかりました、受け取ります」


「中身は、皆原誠の……」


「説明は、結構です」


彼は俺の言葉を遮った。


「後で一人で確認させていただきます……今はそっとしておいてください」


これ以上は酷だろう。


受け取ってもらえただけでも、よしとしなければならない。


「ありがとうございます。……では、私はこれで失礼します」


一礼して背を向ける。


高津先生はもう、俺を見てなどいなかった。


彼の視線は、白い布の下にある須田の遺体に釘付けになっていた。


霊安室を後にした俺は、重い足取りで地上へと戻った。

夜風が生温かい。


ここからが、俺の本当の仕事だ。


本当に嫌な、気が滅入る仕事が残っている。


警視庁に戻ると、喧騒から離れた一角にある取調室の前で足を止めた。


無機質な鉄のドア。


その向こうに、彼女がいる。


俺は深呼吸をして、肺の中の空気をすべて入れ替えた。


覚悟を決めろ。


上司として、そして一人の刑事として。


自分に言い聞かせ、ノックをした。


「どうぞ」


聞き慣れた、しかしどこか余所余所しい声。


ドアを開け、部屋に足を踏み入れる。


殺風景な部屋の中央、パイプ椅子に座っていたのは瀬戸清香だった。


手錠はかけられていないが、その姿は完全に『被疑者』のそれだった。


彼女は顔を上げ、俺を見た。


その表情は普段より険しく、そして硬い。


だがその瞳には、全てを受け入れたような静かな決意の色が宿っていた。


俺はまず、事実だけを告げた。


「……須田は、死んだよ」


瀬戸の表情筋が、ピクリと動く。


彼女は微かに、寂しげに微笑んだ。


「そうですか」


静かな肯定。


自分が心臓を撃ち抜いたのだから、その結果は分かっていただろう。


やけに重たいパイプ椅子を引いて、黙って瀬戸の向かいに腰掛ける。


重苦しい沈黙が流れる。


蛍光灯のジーッという音だけが、耳障りに響く。


やがて、瀬戸が口を開いた。


「聞きたいことは色々あるでしょうが……まずは私の父、皆原誠の話から始めましょうか」


いきなり、思考が停止した。


今、何と言った?


「……皆原が、お前の父親だって?」


驚きと困惑が、そのまま声に出た。


座ろうとした腰が浮き、椅子がガタッと音を立てる。


頭の中で、これまでの捜査情報が激しく回転する。


皆原誠、被害者。


須田優司の義父。


それが、瀬戸の父親?


「一体、どういうことだ?」


瀬戸は静かに頷き、淡々と語り始めた。


「はい、実は皆原は私の実の父親なんです」


彼女の告白は、あまりにも衝撃的だった。


「皆原は碌でもない男でした。私と母、瀬戸静香を捨てて……須田沙良のところへ走ったんです」


瀬戸の声は冷めていた。


「それから母は精神に異常をきたすようになり、私は壊れていく母を見ながら育ちました」


「待て」


俺は混乱する頭を整理しようと手を挙げた。


「だとしたら戸籍や住民票からわかるはずだ、俺だって身辺調査をしたんだぞ」


「皆原と母は、事実婚でしたから」


瀬戸は俺の疑問を先取りした。


「戸籍にも住民票にも、私たちの関係を示す記録はありません」


「しかし、認知していれば出生届から……」


「あの人が認知なんて、するわけないじゃないですか」


瀬戸は自嘲気味に笑った。


「私を娘だなんて思っていなかったんですから」


言葉を失った。


目の前にいる部下が、全く知らない他人のように思えた。


「本当に……最低な男ですよね」


瀬戸は遠くを見る目をした。


「高校の時に須田君から皆原が家にいると聞いて、会いに行きました。その後も定期的に会うようになりましたが……私が成人すると、あの人は『連絡が取れないと不便だ』と言い出しました」


「金か?」


「ええ、借金の申し込みです。携帯電話の契約が代金未払いでブラックリスト入りしてできないと言うので、私は彼に昔使っていた古いスマホとデータ通信用のSIMを契約して与えました」


点と点が繋がる。


「そうか……だから、皆原名義の携帯契約が見つからなかったんだな」


「はい」


「でもなぜ、音声契約にしなかったんだ?」


「お金を借りるのには連絡先電話番号が必要ですから。データSIMでも番号は割り振られますが、通話できなければ金融業者の審査は通りにくい。借金癖のあるあの人への、せめてもの抑止力でした」


瀬戸は皮肉な笑みを浮かべた。


「それからは度々連絡を取っていました。母が危篤になった時、私は皆原を呼びました。数年ぶりに母と再会した彼は、涙ながらに全てを詫びました」


「……」


「母は安堵して、そのまま亡くなりました。その後も皆原は須田君と暮らしていました、それが私の望んだことでもありましたから」


そこまでは、まだ理解できる。


複雑な家庭環境。


肉親への愛憎。


だがそれがなぜ、今回の事件に繋がる?


「そんな生活が続いていたある日、皆原のスマホから電話がありました。でも、出たら相手は須田君でした」


瀬戸の声が、ここで初めて震えた。


「彼は荒い息を殺しながらこう言ったんです、『皆原誠を殺した』と」


俺は息を呑んだ。


「冗談はやめてよ、と私は言いました。でも彼は、『僕が冗談でこんなこと言うと思う?』と……」


「それで、お前は……」


「はい、私が契約したスマホをこのまま置いておくと言われて……それで回収しに行ったんです」


家宅捜索の日。


大家が開けた鍵。


『鍵が開いています』という言葉に、瀬戸が見せた強張った表情。


「あぁそれで……家宅捜索の時、特に中に入る時にお前の様子がおかしかったのはそういうことか」


「はい」


瀬戸は俯いた。


「あの時もし大家さんや近所の人が私が先に来ていたことを覚えていたらと思うと、気が気ではありませんでした。少しでも早くあの家を離れたくて、須田君に話を聞きに戻ろうとかバイト先に行こうとか言っていたのを覚えていますか?」


俺は瀬戸をじっと見つめた。


話の辻褄は合っている。


だが刑事としての勘が、何かが足りないと告げている。


ただスマホを回収しに行っただけで、あそこまで怯えるだろうか?


俺は身を乗り出し、彼女の目を覗き込んだ。


「瀬戸……お前、まだ話していないことがあるんじゃないか?」


瀬戸の肩が、ビクリと跳ねた。


「須田の家には……スマホの回収に行っただけか?」


瀬戸は一瞬目を逸らしたが、すぐに観念したように俺を見つめ返した。


「……十河さん、私が何をしたと疑っているんですか?」


声が震えている。


「ただの勘かもしれない、だが長年刑事をやってきて何かがおかしいと感じるんだ」


俺は脳裏に焼き付いている現場写真を思い出した。


「須田は久留島には恨みがあった、だが皆原の死体を滅多刺しにする理由は無いと思う」


部屋の空気が凍りつく。


「それに何より、ただ部屋に忍び込んでスマホを回収しただけならお前は俺に相談できたはずだ。それをしなかったということは……お前には、隠さなければならない『決定的な何か』があったんじゃないか?」


瀬戸の顔から、血の気が引いていくのがわかった。


彼女の唇がわなないている。


その表情が、真実をありのままに語っていた。

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