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第十九章

カルテを閉じ、ボサボサになってしまった頭を掻きむしる。


青木修二、それが私の名前だ。


午前の診察が終わり、昼休憩の時間。


窓の外では、初冬の弱い日差しが街路樹を照らしている。


デスクに置かれたマグカップのコーヒーを一口啜るが、もう冷めていて、その味はよく分からなかった。


ここ数日、いや、あの日からずっと、須田優司君の裁判のことが頭から離れない。


私が証言台で語ったこと、そして語らなかったこと…。


ふと、数年前の記憶が蘇る。


全ての始まりは、旧知の仲である探偵、樋口久美子君がこの診察室を訪ねてきたことからだった。


「先生、お願いがあるんです。」


いつもの快活さの裏に、深刻な色を浮かべて彼女は言った。


「…ある親子を見ていただきたくて、 須田沙良さんと、その息子の優司君です。沙良さんは今、精神的に非常に不安定で…優司君への虐待の恐れがあります。」


思わず眉をひそめた。


虐待のケースは精神科医として何度も関わってきたが、探偵からの依頼というのは異例だ。


「詳しい事情を伺っても?」


久美子君は頷き、声を潜めて続けた。


「優司君と、沙良さんの元夫である五十島謙さんのDNA鑑定が行われ、親子関係がないという結果が出たそうです。それが引き金で離婚し、沙良さんは精神のバランスを崩してしまったようで…。でも、先生。」


彼女は私の目を真っ直ぐに見据えた。


「沙良さんの日記を読みました。妊娠時期や当時の状況を考えると、私にはどうしても、優司君が五十島さんの子ではないとは信じられないんです。」


彼女の言葉には、強い確信がこもっていた。


その真剣な眼差しに、私はただならぬものを感じ、依頼を引き受けることにした。


そして始まった、沙良さんと優司君のカウンセリング。


それは困難を極めた。


「先生、私は優司を愛しているはずなんです。あの子は私の全てだったのに…!」


沙良さんは涙ながらにそう訴える一方で、自身の感情をコントロールできない苦しみを吐露した。


「でも、抑えられないんです! あの鑑定結果を見た時から…! あの結果のせいで、私は謙さんと別れなければならなくなったんだって、そう思ってしまう! あんな結果が出なければ…! ああ、でも、あの子は、優司は何も悪くないのに…!」


彼女の混乱と苦悩は深く、母親としての愛情と、裏切られたと彼女が感じている現実への怒り、そして息子への罪悪感が、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。


一方で優司君は、実に穏やかだった。


穏やかだが、しかし感情の読めない笑顔。


「優司君、最近高校ではどうですか?」


問いかけると、彼は少し考えてから答えた。


「楽しいです、友達も担任の里村先生も優しくしてくれます。」


言葉だけを聞けば、何の問題もない。


だが、その笑顔が、母親の感情の嵐から身を守るための鎧であることは、私には痛いほどわかっていた。


カルテに『解離性障害の兆候』『慢性的なストレス』と記入しながら、私は深い無力感を覚えていた。


特に優司君とのカウンセリングで、忘れられないやり取りがいくつかある。


彼のあの『笑顔』の理由を、一度だけ垣間見た気がした時のことだ。


「優司君、最近お母さんとはどうかな?」


そう尋ねると彼はいつもの笑顔で答える。


「特に問題ありませんよ?僕が笑っていれば、母さんは昔の優しい母さんのままですから。」


僕が笑っていれば。


まるで、それが彼が見つけ出した唯一の生存戦略であるかのように、淡々と。


いやそれが問題なんだよ、とは思ったが言えなかった。


その言葉に彼の笑顔がどれほど重く、そして悲しい鎧であるかを改めて思い知らされた。


また別の時には、彼を唯一引き取ってくれた叔母の紗季さんのことを尋ねた。


「叔母さんは、優司君にとってどんな人でしたか?」


すると彼はその時、いつもの貼り付けたような笑顔とは違う、どこか照れたような温かい、本物の笑顔を見せたのだ。


「紗季さんですか? うーん…知識が豊富で、色んなことを教えてくれるんですけど、ちょっとお節介です、以外とおっちょこちょいだし。あと結構人の話、聞かないんですよね。」


彼はくすくすと、本当に楽しそうに笑いながらそう言った。


紗季さんのことを語るその僅かな時間にだけ彼が心を許し、偽りのない親愛の情のようなものを見せることに、私は一縷の望みを感じたものだ。


しかし、その紗季さんの最期について話が及んだ時、彼の表情は再び読み取れなくなった。


「震災の時僕を庇って、崩れてきた壁の下敷きになって。僕なんかのために死ぬなんて、本当に、馬鹿な人ですよ。」


その声は感情が押し殺されていたが、その奥にある深い悲しみと、あるいは『自分のせいで死なせてしまった』というような自責の念が透けて見えるようだった。


私は思わず、


「優司君、泣かせてしまってごめんね。無理はしないで。」


そう声をかけた。


だが彼が顔を上げた時、そこには涙はなくただいつもの、あの完璧な笑顔だけがあった。


「え? 泣いてませんよ?」


と彼は不思議そうに首を傾げた。


――ああ本当に根が深い、その時私は彼の心の傷の想像以上の深さ。


そして感情を表に出すことを自ら禁じてしまったかのようなその有り様に、医師として戦慄したのを覚えている。


この親子に必要なのは、カウンセリングだけではない、もっと根本的なものだ。


沙良さんが亡くなった後、再び久美子君と話す機会があった。


彼女は憔悴しきっていたが、その目にはまだ探偵としての光が宿っていた。


「生前沙良さんから頂いたんです、沙良さんの日記。先生も一度ご覧になりませんか? 何か、分かることがあるかもしれません。」


彼女がそう言って差し出したのは、使い古された一冊のノートだった。


私は頷き、それを受け取った。


その夜、私は一人、この診察室で日記を読み進めた。


そこには、久美子君が言った通り、沙良さんの奔放だった若い頃の記述があった。


子持ちの既婚者との不倫、裕福な政治家の息子の愛人…異性関係にだらしなかった日々。


しかし、五十島謙氏と出会い、彼女は変わった。


彼を深く愛し、過去の関係を清算したこと。


そして、彼との子を望みながらも、過去の妊娠リスクを考慮し、絶対に他の男性の子を妊娠していないと確信するまで、避妊を徹底していたこと。


やがて双子を妊娠し、謙氏と二人で涙して喜んだこと。


しかし、あの地震。転倒し、お腹を打ち、双子の片割れを失ってしまった悲しみ…。


そこまで読んで、私は思わず手を止めた。


双子…片方が胎内で死亡…そして、残った子のDNA鑑定で父子関係が否定される…? まさか…。


ある可能性が頭をよぎる。


もし優司君がそれならば、採取した細胞によっては、父親とのDNAが一致しない結果が出る可能性は十分にある。


確かめなければ…!


私の内側で、医師として、科学者としての探求心が燃え上がった。


すぐに久美子君に連絡を取った。


「樋口君、須田優司君のDNAについて、特殊な鑑定が必要かもしれない。私の診療所の設備では不可能だ。大学病院の施設を使いたい。」


「大学病院? でも、本人の同意は…。」


当然の懸念だった。


私は声を潜めて言った。


「あてがある。少し、厄介な相手だがね。」


そして私は、屈辱を覚悟で、かつて私を陥れ、大学病院を追いやった元部下の元へと足を運んだのだ。


研究室の主となった彼は、私の訪問を心底愉快そうに迎えた。


「これはこれは、青木先生。一体どういったご用件で? まさか、私に頭を下げに来られたとか?」


私は感情を殺し、事情を説明し、協力を要請した。彼は嘲笑を隠さなかった。


「…惨めですね、自分を陥れた相手に慈悲を乞うとは。実に気分がいい。いいでしょう、協力して差し上げますよ。せいぜい私の役に立ってください。」


握りしめた拳が震えた。


だが自分の仮説を証明したいという欲求の前には、プライドなど無力だった。


後日、鑑定結果が出た。


私の予想通り、優司君は染色体キメラだった。


極めて稀だが、二卵性双生児の胚が早期に融合した場合、一つの個体の中に二つの異なる遺伝子情報を持つ細胞が混在することがある。


これは染色体キメラの中でも四配偶子キメラと呼ばれるものだ。


――今思えば。


優司君は地震で叔母を失い、己が片割れを失い、ある意味父と妹と弟も、見方によっては母親からの真っ直ぐな愛情すら失ったのだな。


地震に翻弄されたと言って過言では無い。


久美子君に結果を伝えると、彼女はただ一言、


「…ありがとう、先生。」


とだけ言って、深く頭を下げて去っていった。


その背中には安堵と、それ以上の感情が滲んでいたように見えた。


そして、さらに後日。


久美子君から短い連絡があった。


「先生、例の元部下さん、大学病院を解雇されたそうです。」


「…なぜだね?」


驚いて尋ねる私に、彼女は電話の向こうで悪戯っぽく笑った。


「さあ? ただ…私は意外と、仲間思いなんですよ、先生。」


その言葉に、私は背筋が寒くなるのを覚えた。


彼女もまた、己の正義のためなら手段を選ばない人間だった。


私と彼女の間には、また一つ、共有された「秘密」が生まれた。


…そして今、その全てを知った上で私はあの法廷に立ち、そしてこの診察室にいる。


あの時証明された『真実』は、結局誰にも伝えられることなく、さらなる悲劇を生んだ。


これでよかったのか?


私の行動は正しかったのか?


答えの出ない問いが、冷めたコーヒーのように苦く、澱のように心に溜まっていく。


電話の着信音が思考を中断させる。


すぐに受話器を取ると、


「先生、五十島信護さんと名乗る方が、先生に直接お話があるとお待ちですが…。」


受付からの内線だった。


やはり来たか。


裁判での私の証言、そして優司君の反応。


疑問を持つ者も現れるだろうとは思っていた。


「わかった、こちらへ通してください。」


短い休憩時間に感じた胸のざわめきが、再び大きくなるのを感じた。


私はゆっくりと立ち上がり、ドアへと向かった。


これから始まる対話が、新たな波紋を呼ぶ予感がした。


短い休憩時間に感じた胸のざわめきが、再び大きくなるのを感じた。


ドアが開き、青年が入ってきた。


高校生くらいだろうか、少し強張った表情をしているが、その目には強い意志の色が見える。


彼が五十島信護君か。


その真っ直ぐな眼差しは…。


「どうぞ、お掛けください。」


彼を促し、私も向かいの椅子に腰を下ろす。


「それで、五十島信護さん。須田優司さんの件で、私にどのようなご用件でしょうか?」


私は努めて平静を装い、問いかけた。


信護君はゴクリと唾を飲み込み、単刀直入に切り出した。


「先生、先日の須田優司の裁判、傍聴していました。」


やはりそうか。


「法廷での、先生と高津弁護士、そして兄…須田優司の、DNA鑑定に関するやり取りを聞いて、どうしても納得できないことがあって、今日伺いました。」


彼は続けた。


その声には、若者らしい率直さと、隠せない緊張が滲んでいる。


「兄は…須田優司は、本当に父…五十島謙と血が繋がっていなかったんでしょうか?あの時の鑑定結果は、本当に間違いなかったんでしょうか?」


私は内心ため息をついた。


核心を突いてくる。


「裁判でも申し上げましたが、患者さんのプライバシーに関わること、特に遺伝情報については、たとえご家族であってもお話しすることは原則としてできません。ご理解ください。」


守秘義務を盾にするしかない。


だが彼の目は少しも揺らいでいなかった。


食い下がってくるだろう。


予想通り、彼は諦めなかった。


それどころか、鞄から何かを取り出した。


「先生、俺は本気なんです。」


そう言って、彼は二つの小さなビニール袋を、私の診察机の上に置いた。


中には、数本の髪の毛。


まさか…!


「これは兄の…須田優司の毛髪です。父さんたちが引き取って、荼毘に付す前に貰いました。こちらは父の。」


驚きで言葉を失った。


そこまでしていたとは。


遺体からサンプルを採取するとは、並々ならぬ覚悟だ。


「俺はもう一度調べてほしいんです、本当のことを知りたいんです。」


彼の真っ直ぐな視線が、私に突き刺さる。


…参ったな。


この青年の決意は固い。


ただ規則ですからと突っぱねても、彼は諦めないだろう。


別の鑑定機関に持ち込むかもしれない。


そうなれば、事態はさらにややこしくなる。


久美子君にも累が及ぶ可能性がある。


…仕方ない、私は腹を括った。


ここで鑑定を引き受ける。


ただ、全てを明らかにすることはできない。


「わかりました、五十島さん。あなたの真実を知りたいという強い意志は理解しました。」


私はゆっくりと頷いた。


「ですが、これは非常にデリケートな問題です。それでも、というのであれば…。」


私は言葉を選び、念を押した。


「通常この診療所で手配するDNA鑑定では、1〜2週間程度お時間を頂くことになります。それでもよろしいですか?」


この言い方なら嘘にはならない。


この診療所で扱っている鑑定では、キメラの可能性までは特定できないのだから。


信護君の顔に、ぱっと安堵の色が広がった。


聡明な子ではあるが、やはりまだ子供だ。


「はい!お願いします!ありがとうございます、先生!」


彼は深く頭を下げた。


その疑いのない感謝の言葉が、私の胸に罪悪感として突き刺さる。


「結果が出るまで少し時間がかかります。また連絡しますので、今日はこれでお帰りください。」


そう言って彼を促すと、彼は何度も礼を言いながら診察室を出て行った。


一人になった診察室で、私は再び深いため息をついた。


机の上の毛髪サンプルが、重い現実を突きつけてくる。


これでよかったのだろうか…?


自問するが、答えは出ない。


仕方がないことだ。


それに今更真実が明らかになったところで、誰も幸せにはなれないだろう…。


そう自分に言い聞かせる。


だが、心に残る後味の悪さは消えなかった。


…全く、汚い大人になったものだ。


そもそも今回の対応だって、そんな汚い大人の姑息な一手に過ぎないのかもしれないのだ。


自嘲気味に呟く。


窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。


それなら、それでもいいじゃないか。


ふと信護君の真っ直ぐな目を思い出す、あの強い光を。


…負けてほしくない、心のどこかでそう願っている自分もいた。


こんな汚い大人に負けずに、いつか真実に辿り着いてほしい。


矛盾した感情を抱えながら、私は重い腰を上げた。


そろそろ今日の仕事を終えなければならない。

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