第一章
眉間の皺をなぞる、また深くなっている気がする。
俺は十河信二、警視庁捜査一課の警視だ。
取調室の蛍光灯が須田優司の笑顔を不気味に照らしていた。
蛍光灯の光が自分の眉間の皺だけでなく、心の隅に溜まった澱までも照らし出すようだ。
逮捕から3日目、検察の勾留請求は認められ奴の取り調べは続く。
「須田、もう一度聞く。お前は殺意を持って久留島秀一さんを暴行し、死亡させた。間違いないな?」
俺はできるだけ低い声で尋ねたが、疲れは出てしまっているかもしれない。
須田は変わらず口角を上げたまま答えた。
「はい、私が殺しました。」
その異様な態度にさらに怒りがこみ上げ、奥歯を噛みしめる。
「なぜ久留島さんを殺害したんだ?」
感情を抑えつつ俺は続けた。
須田は首を傾げ、まるで当たり前のことを聞かれたかのように答える。
「行動理由なんて、そうしたかったから以外にないでしょう?ご飯を食べたくなったからご飯を食べる、友達に会いたくなったから会う、出かけたくなったから出かける、それだけの事じゃないですか?」
怒りと同時に、理解不能なものへの底知れぬ空恐ろしさが背筋を這い上がった。
思わず椅子から立ち上がり、須田に詰め寄る。
体が震えるのを感じながら、必死に冷静さを保とうとした。
「殺したくなったから殺したとでも言うつもりか?人の命を何だと思ってる!」
須田は少しも動じず、笑顔のまま答えた。
「でも本当にそれだけなんです、他に何が必要なんですか?」
顔が熱くなっていくのがわかる。
「ふざけるな!人を殺しておいて、よくそんな態度が取れたな!」
瞬間、拳を机に叩きつける。
「本当のことを言え!」
しかし須田の笑顔は崩れない、むしろその笑みはさらに深くなったように見えた。
本当に気味の悪い男だ。
荒い息を吐き席に戻った。
「十河さん、少し休憩しましょう。」
同席していた取調官補が声をかけてくる。
一瞬躊躇したが、頷いて立ち上がった。
「須田、隠し通せると思うなよ。」
取調室を出る際、須田の変わらぬ笑顔を目に焼き付けた。
その笑顔が俺の怒りをさらに掻き立てる。
廊下の壁を力任せに殴りつけた。
「あの野郎ふざけやがって!」
「十河さん!落ち着いてください!」
廊下で待っていた瀬戸が慌てて駆け寄って来た。
瀬戸は捜査一課の警部、小柄でスレンダーな20代前半女性。
長めのストレートヘアを後ろで束ね、大きな瞳が印象的だ。
「こんなに取り乱すなんて、十河さんらしくありませんよ。」
瀬戸の言葉に、俺は我に返った。
駄目だな、須田に完全に翻弄されている。
深呼吸をし、普段の冷静さを取り戻そうとした。
「すまない、あいつのペースに乗せられた。」
努めて落ち着いた口調にする。
「地道に調べていくしかない。」
「まだ捜査は始まったばかりです、もっと調べてみましょう。」
瀬戸は考え込むように言った。
「ニヤニヤと何考えてやがる…あのニヤケ面引っ剥がして腹の中全部暴いてやる。」
俺は瀬戸に聞こえないよう呟く。
あの笑顔には人間の感情が宿るべき場所に、ぽっかりと穴が開いているような空虚さがあった。
まるで精巧に作られた仮面を貼り付けたようで、その下の素顔を想像しようとしても、ただ暗い闇しか見えない気がした。
挑発されているのか?
それとも本当に何も感じていないのか?
どちらにしても俺の神経を逆撫でした。
俺たちは捜査一課のオフィスに向かうが、頭からは須田優司の気味の悪い笑顔が離れなかった。
捜査本部の会議室で、俺は部下たちに最新の状況を説明していた。
「現場は旧七條ビル、被害者久留島さんが所有するビルでオーナー店長をしているコンビニの事務所として登記されている、まぁ実態は物置きだな。」
部下たちを見渡す。
「須田は110番通報してから久留島さんを金属バットで暴行、久留島さんは病院に運ばれたが、外傷性ショックによる多臓器不全で亡くなった。」
会議室には緊張感が漂っていた。
「須田の動機はまだ判然としない。自白はしているものの、その理由については『そうしたかったから』とふざけた供述に終始している。我々の役目は、この事件の全容を解明することだ。」
瀬戸も、真剣な面持ちで俺の言葉に耳を傾けていた。
「明日も無論須田の取り調べを行う、観察室に入れるものは同席して意見をもらえると助かる。瀬戸もしっかり見ていてくれ。」
「はい、勉強させていただきます。」
会議後、瀬戸と警視庁を出て、家宅捜索のため須田のアパートに向かった。
車内で瀬戸に状況を確認する。
「須田優司は、母親の内縁の夫だった皆原誠と同居していたんだったな?」
瀬戸は頷く。
「はい。須田が借りている部屋に皆原さんが同居する形です。皆原さんは須田の母親沙良さんの内縁の夫でした。沙良さんの死後も須田と二人で暮らしていました。」
少し考えて、
「複雑な家族関係だな。これも調べる必要がありそうだ。」
そう告げた。
アパート付近で他の捜査員と合流したあとアパートに到着すると既に大家もおり、落ち着かない様子で待っていた。
「遅くなり申し訳ありません、お待たせしました。」
声をかけると、大家はいえいえと応じる。
さっそく捜索令状を示しながら説明する。
「皆原誠さんと須田優司の部屋を捜索させていただきます。」
大家は眉毛を寄せながら首肯する。
俺は部屋に向かいドアの前に立つと、
「まず、皆原さんが在宅かどうか確認していただけますか?」
と声を掛ける。
それを聞き、大家はドアをノックした。
「皆原さん、いらっしゃいますか?」
しばらく待ったが返事はない。
それを見て俺は鍵を開けるよう促す。
大家はすぐに鍵を開けようとしたが、ドアノブに手をかけた瞬間、驚いた表情を浮かべた。
「鍵が…開いています。」
緊張が走る。
「いつも開いているのですか?」
「いえ、皆原さんも優司くんも在宅の時でも必ず鍵を閉めていたと思います。」
大家のこの言葉を聞いた瞬間、瀬戸の表情が変わった。
彼女は怪訝な表情をし、何かを感じ取ったような様子を見せた。
鍵を開けておいたのか偶然か、それとも…。
須田のあの笑顔が脳裏をよぎる。
「よし、入るぞ。」
俺は他の捜査員に指示を出した。
部屋に入りそこで目にしたのは、床に横たわる男性の遺体だった。
顔と胸部は無残にも滅多刺しにされ、血溜まりが広がっている。
手袋をして一応脈と呼吸を確認した。
当然どちらもない。
「検視官を呼んでくれ。」
部下が早速本部に連絡を取る。
なんとか冷静さを保てたものの、眉間の皺がより深くなる。
無残な遺体を前に、怒りよりも先に冷たい諦観のようなものが胸をよぎった。
また一つ、救えなかった命がここにある。
だが感傷に浸っている暇はない。
鼻につく鉄錆のような臭いに顔をしかめながらも、目は冷静に部屋の隅々を捜査していた。
同行していた鑑識官達に指示を出す。
「現場保存を徹底、細心の注意を払って証拠を収集するように。」
彼らはすぐに作業を開始する。
遺体の状態を見た鑑識官の一人が呟いた。
「こりゃ酷い…相当な恨みがあったんでしょうね。」
「皆原誠さんだろうか。」
確認するように言いながら手袋をする。
遺体とその隣に落ちていたカッターナイフについて、鑑識官が慎重に写真撮影と記録作業を進めていた。
これで大丈夫ですという声を確認してから、俺は手袋越しにカッターナイフを手に取る。
「こっちは使っていないらしいな。」
凶器は遺体に刺さったままの包丁だろうか。
俺は部屋を調べていると検視官が到着し検視を行う。
その間に部屋の捜査を進める。
「皆原さんの財布に免許はあったが、スマホを確認したいな。」
俺は鑑識官に目配せした。
「それが見当たりません。」
彼が首を傾げる。
俺は大家に向き直った。
「皆原さんはスマホや携帯を持っていましたか?」
大家は少し考えてから答えた。
「はい、スマホを持っていました。」
持っていたのにここにない、と言うことだ。
「皆原さんの電話番号はご存知ですか?」
大家は申し訳なさそうに口を開く。
「皆原さんとはSNSアプリの『PINE』でしかやり取りしないんです。PINEで無料通話ができるので、電話番号は知らないんですよ。」
また眉間に皺が寄る、厄介だな。
「そうですか、PINEですか...。」
瀬戸に向き直り、
「須田のスマホから皆原さんの連絡先を確認してみよう。一応PINEの運営側にアカウント情報も問い合わせてくれ。」
そう指示すると、瀬戸がメモを取る。
「了解しました。すぐに確認します。」
俺は鑑識官に向かって言った。
「スマホの痕跡を探してくれ。充電器やケースなど、関連する物もだ。それとスマホの特定を急ぐように。」
検視官にも確認をする。
「刺し傷が複数あり、事件性が極めて高いと判断されます。このままでは死因特定は困難です。司法解剖が必要です。」
まぁ見たままだな、俺はすぐに法医学教室へ司法解剖の手配を依頼するよう指示した
現場検証が続く中、俺と瀬戸はアパートの外に出る。
夕暮れの空が赤く染まり始めていた。
腕時計を確認する。
「時間が押しているな。」
他の捜査員に指示を出さなければ。
「近隣の聞き込みをしよう。特に須田と皆原の日常生活や人間関係について、詳しく聞いてくれ」
瀬戸が近づいて来た。
「十河さん、時間がないので手分けしましょう。皆が聞き込みをしている間、私たちは須田に話を聞きに戻るか、須田のバイト先で聞き込みをするか、どちらがいいでしょうか?」
「いや、あいつがまともに取り合うとも思えない。バイト先のコンビニで聞き込みをしよう。」
「それならコンビニに連絡します。」
少し考えてから、
「そうだな、頼んだ。」
そう応じると、瀬戸は機敏に反応した。
「了解です。須田のバイト先なら彼の普段の様子や人間関係について、より具体的な情報が得られるかもしれませんね」
コンビニに連絡後、俺たちは車に乗り込みコンビニへと向かった。
瀬戸は窓の外を見つめながら軽く息を吐く、その表情にはわずかな微笑みが浮かんでいた。
コンビニに到着すると、本部から派遣された店長代理が出迎えた。
中年の男性で疲れた表情を浮かべていたが、我々の訪問に明らかに緊張している。
店長代理は深々と頭を下げた。
「お話はバックヤードにおります府内が承ります。」
軽く会釈を返し、店内に入る。
蛍光灯の明るい光の下、商品が整然と並べられている。
バックヤードから呼ばれた府内は、髪を金に染めてピアスをした20代前半の若い男性だ。
彼の目には不安と緊張が浮かんでおり、制服のシャツの襟元が少し乱れているのが見て取れた。
「府内さん、少し話を聞かせてもらえますか?」
静かに尋ねる。
俺は府内を安心させるよう心掛けた。
府内は、
「はい構いません。」
と答えた。
彼は怯えているようにも見えたが、協力する意思は明確だ。
周囲を見渡し告げる。
「ここでは少し話しづらいですね。警察署まで来ていただくことは可能ですか?」
府内は一瞬躊躇したが、
「大丈夫です。」
と短く答えた。
警察署の取調室で、俺はすぐに本題に入った。
「久留島店長について、教えてください。」
俺は努めて穏やかに府内を見つめる。
府内は少し考えたが、やがて話し始めた。
「久留島さんは…。」
彼は言葉を選びながら続けた。
「バイトやパートにパワハラやセクハラばかりしていました。何人ものスタッフがそれを苦にやめてしまったんです。」
クソ野郎だったみたいだな、府内に先を促す。
「具体的にはどのようなことがあったのですか?」
府内は息を吐くと、
「例えば、女性スタッフに対して、『君は接客業に向いてないね。体を売った方がいいんじゃない?』なんて言うんです。男性スタッフには『お前みたいなのがいるから売上が上がらないんだ』と怒鳴ったり、金属バットで小突いたりして…。」
静かに口を開いた。
「その金属バットとはこれですか?」
凶器の写真を見せる。
「汚れて変形もしていますがそうだと思います、久留島さんのお気に入りでした。」
そのお気に入りで殴られ殺されたということか。
「パワハラやセクハラといった行為に対して、誰かが声を上げることはなかったのですか?」
府内は悲しそうに首を振った。
「みんな怖くて…店長の機嫌を損ねたら、シフトを減らされたり、もっとひどい扱いを受けるんじゃないかって。でも…。」
「でも?」
と尋ねると、府内の表情が少し明るくなった。
「須田さんは皆を庇っていました。自分が店長の標的になることで、他のスタッフを守ろうとしていたんです。」
驚いて俺は質問した。
あの須田が人を庇う?
府内の言葉が俺の中で固まりつつあった須田のイメージに、鋭い楔を打ち込む。
「そんなことまでしていたんですか?」
府内は頷いた。
「はい。例えば女性スタッフがセクハラを受けそうになると、わざと間に入って話題を変えたり、店長の気を引いたりしていました。男性スタッフが怒鳴られそうになると、自分が責任を取るような形で店長の怒りを引き受けていました。」
深く考えながら俺は尋ねる。
「そのせいで須田はより酷い扱いを受けていたということですね。」
府内は悲しそうに答えた。
「そうです、でも須田さんはいつも笑顔を絶やさなかった。『大丈夫、平気だから』って…。」
深いため息をついた。
「最近の須田の様子で、何かおかしなことはありませんでしたか?」
府内は少し考え込んだ。
彼の指が無意識に制服の袖口をいじっている。
「そうですね…。」
彼は言葉を探るように口を開いた。
「実は事件のあった日に」
俺は身を乗り出した。
府内は少し笑みを浮かべながら説明を続けた。
「須田さんが突然、久留島店長のモノマネを始めたんです。他のバイトも集まってきて、みんなで笑っていました。」
注意深く聞き入った。
「そのモノマネの内容は?」
「須田さんは店長の口調をそっくりに真似て声も低くして、『お前ら…仕事中に、へらへら笑うんじゃない。客が、逃げるだろうが…』って、本当にそっくりなんです!」
府内は少し照れくさそうに続けた。
「それに、人を見る時のゴミでも見るような目つきがそっくりで…思わず『須田さん、口調と目つきがそっくりですよ!』って笑っちゃいました。」
あまり参考にはならないか。
「なるほど。皆さんの反応は?」
府内は少し興奮した様子で答えた。
「もう爆笑でしたよ。私も含めて皆、お腹を抱えて笑っていました。須田さんのモノマネがあまりにも上手くて、まるで店長本人がそこにいるみたいでした。」
府内は少し間を置いて続ける。
「そう言ったら、須田さんはにっこりと笑って、さらにモノマネを続けたんです。皆で笑い合って、あの時はすごく楽しかったです。」
他に何か無いだろうか。
「それだけですか?」
府内は肩をすくめた。
「いや、その後がちょっと…」
府内の声のトーンが明らかに落ちる。
「休憩中の須田さんを見かけたんです。普段から明るい人でしたが、その時は特に上機嫌そうでした。鼻歌を歌いながら、何かを空中に投げてキャッチして遊んでいました。」
府内は続けた。
彼の目は、その時の光景を思い出すかのように遠くを見ていた。
「最初は気にも留めませんでした。でもよく見ると…。」
府内は一瞬言葉を詰まらせた。
「それは歯が出たままのカッターだったんです。」
眉をひそめた。
「カッターナイフですか。」
「はい。」
府内は頷いた。
「危ないからやめた方がいいと言うと、須田さんは『あ』と言って止まりました。どうやらカッターの歯を握ってしまったようで…。」
注意深く聞いていた。
「それで?怪我は?」
府内は首を横に振った。
「いいえ。須田さんはゆっくり手を開きましたが、そこに傷はなかったんです。そして、」
変なとこで言い淀んだ。
「そして?」
先を急かすと、府内は言いにくそうに口を開く。
「須田さんは『なんだ、こんなもんか』って呟いたんです。」
府内の声はやや小さくなっていく、そして深く考え込むような表情を見せた。
「モノマネの直後にカッターナイフで遊んでいたと。」
府内は頷いた。
「はい。須田さんってなんだか不思議だけど、本当に優しい人なんです。でも、あの時は正直少し怖かったです。」
「その時のカッターナイフは?」
「店の備品では無かったので、須田さんの所持品かと。」
皆原の近くに落ちていたあれだろう。
静かに息を吐いた。
「わかりました、これで終わりです。お疲れ様でした。」
府内も立ち上がるとほっとしたのか、表情が柔らかくなる。
「お役に立てたでしょうか。」
意図的に口角を上げる。
「ええ、とても参考になりました。」
取調室を出ると、廊下で待機していた瀬戸が俺に近づいてきた。
「十河さん…。」
瀬戸が静かに口を開いた。
まだまだ調べる事がある。
俺と瀬戸は、府内からの聞き取りを終えて捜査一課に向かう。
歩きながら軽く息を吐いた。
「須田の同僚からの証言は、予想とは少し違っていたな。」
瀬戸も同じ意見のようだ。
「須田が他のスタッフを守るため、自ら標的になっていたというのは意外でしたね。」
瀬戸は遠くを見ているようにも見えた。
「表面上の印象と実際の行動にギャップがあるのかもしれない。」
俺が言うと、瀬戸が口を開いた。
「十河さん、近隣住民への聞き込み結果はどうでしょうか?他の捜査員から何か報告は入っていますか?」
スマートフォンを確認しながら答える。
「少し前に中間報告が入った。須田については『良い子だった』という評判ばかりで、特に問題行動は見られなかったそうだ。皆原については、あまり外出する姿を見かけなかったという証言が多いらしい。」
瀬戸は少し考え込んだ様子で言った。
「カッターナイフの話と合わせると、須田の二面性が見えてきますね。」
それは俺も同意見だ。
「そうだな。表面上は模範的な若者に見えるが、内面には何か複雑なものを抱えているのかもしれない。」
一課に到着する。
中に入り他の捜査員たちに指示を出した。
「今日の情報を整理して、明日の捜査方針を立てよう。須田の過去の記録も確認する必要がありそうだ。司法解剖の結果が出るまでには数日かかるだろう。それまでは関係者への聞き込みと現場から得られた情報を整理だ。」
瀬戸は無言で頷き、俺たちは黙々と歩を進める。
一課の喧騒が、俺たちを包み込んでいった。