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第十七章

キャップのつばを掴みながら歩く、なんだか落ち着かない。


病院の廊下は静かだった。


消毒液の匂いが鼻をつき、無機質な白い壁がどこまでも続いているように感じられる。


私は無意識に手を握りしめながら歩いていた。


どうしてここに来てしまったんだろう。


面識もない相手に会いに行くなんて、私らしくない。


でも、そうせずにはいられなかった。


ある病室の前で足を止める。


ドアには『里村久恵』と名前が書かれたプレートが掛かっている。


その文字をじっと見つめながら深呼吸をする。


ノックをすると、中から弱々しい声が返ってきた。


「どうぞ。」


扉を開けると、ベッドに横たわる里村先生がこちらを見た。


顔色は悪いけれど、その目にはまだ力が宿っている。


私は少し緊張しながら部屋に入った。


「初めまして。」


声が少し震えた。


「須田優司君の件でお会いしたくて。」


そう言いながら名刺を差し出す。


「探偵をしています、樋口久美子です。」


里村先生は少し驚いた様子だった。


「探偵さんが私に何の用ですか?」


私は深く頭を下げた。


「謝罪したくて参りました。」


「謝罪?」


里村先生は不思議そうに眉をひそめる。


「須田優司君が施設に入った際、沙良さんに居場所を伝えたのは私です。」


その言葉を口にした瞬間、胸が締め付けられるようだった。


里村先生は目を細めた。


「なぜそんなことを?」


その問いには答えられなかった。


守秘義務もあるが、それ以上に軽々しく話すべきではないと思った。


「すみません。」


ただそれだけしか言えなかった。


里村先生は微笑んだ。


その表情には何か含みがあるようで、感情を読み取ることはできなかった。


ただ、その後に続けた言葉には力強さがあった。


「理由があれば虐待してもいいなんてことにはなりませんよ。」


それはそうだ。


反論する余地なんてない。私はただ黙って頷いた。


「理由は言えないけどただ謝罪だけしたい、もしかしてあなたは罵声を浴びせられ、責め立てられたかったのかしら。自分自身を罵ることができない、あなた自身の代わりに。」


もしかしたらそうなのかもしれない、そうすることで私は一区切りつけたいと考えていたのではないか。


自分で自分を罵る事はできない。


自分を責めることはできても、自分を罵ることができるのは他者でなければならなかったのだ。


「ここにはもう来ない方がいいでしょう。」


里村先生の声には静かな決意が込められていた。


「理由も話せないのでは私はあなたを責めてしまう、それでは前に進めません。それはあなたも…ね?」


その言葉に胸が痛んだ。


言葉にできなかった自分の欲求、それを理解されたことへの奇妙な安堵感が私を包む。


「ありがとうございました。」


そう言って病室を後にする。


「どうぞお元気で。」


最後に目にしたのは、微笑む里村先生の姿だった。


そして部屋を出た瞬間、男とぶつかってしまった。


「あっ、失礼しました。」


顔を見るとぎょっとした。


五十島信護だった。


「すみません。」


そう言って逃げるようにその場を立ち去る。


迂闊だった。


五十島信護も今回の事件は気になっていただろう。


裁判の証人に接触を図ってもおかしくない。


そこまで考えが至らなかった。


できるだけ急いで事務所に帰り着く。


事務所で椅子に座りながら、沙良さん、紗季さん、そして優司のことを思い出していた。


机の上には沙良さんの日記が広げられている。


そのページを捲りながら考え込んでいると、来客があった。


嫌な予感がする。


扉を開けるとやはり五十島信護だった。


「先程の方ですね?どういったご要件でしょうか?」


尾行されたなら気づくはずだと思ったが、その答えは簡単だった。


「突然すみません。里村先生から、母、須田沙良から依頼を受けていた探偵さんだと伺ったもので。ネットで調べたら樋口探偵事務所が出てきたので来てしまいました。」


里村先生には口止めをしていなかった、責めることはできない。


自分のマヌケさに腹が立つ。


「大変申し訳ありませんが、他の方のご依頼についてお話することはできません。」


面倒な事になった、さっさとお引き取り願おう。


「ではなぜ里村先生には母の依頼を受けたと伝えたのですか?虐待している母親の元に子を返したのはなぜですか?」


このガキ、痛い所を突いてくる。


「お引き取りください。」


無理矢理事務所から追い出す。


その場で一息つく。


しかし再び来客があった。


また戻ってきたかと思い、


「お話できることはありません!」


とさっきより大きな声で叫ぶ。


しかし扉の向こうにいたのは五十島信護ではなく、高津だった。


驚いている高津に事情を説明すると、納得したらしい。


「そっちはどうしたの?」


と疲れを隠さず尋ねる。


「以前担当した依頼人がお礼に高い骨付き肉をくれたんだ。ここにはバーベキューセットがあるから庭で焼いて一緒に食べよう。」


断言しよう、この男にそんな羽振りの良い客は居ない。


差し詰めこの間の詫びと言ったところだろうか?


こいつは私が肉が好きだと未だに勘違いしている。


本当に馬鹿だ。


馬鹿の一つ覚えだ。


高津と庭で肉を焼いて食べる。


その味は格別だった。


「わ、本当においしい。」


口元が綻ぶ。


「なら良かった。」


高津がほっとしている。


「高かったでしょ?」


「いやまぁ…ってあれ?」


そこまで言って気付いたらしい。


「気づいてたの?」


マヌケな質問に呆れてしまう。


「誰だと思ってんのよ。」


ポリポリと頭を掻いている。


「ほら、冷める前に食べよう。」


再び肉を口に運ぶと高津も肉を頬張りだす。


ふと高津を見ると昔と変わらずにっこにこの顔をして口をもごもごさせている。


こいつに何食べたい?と聞かれると、私は毎回肉料理を挙げていた。


幸せそうに肉を食べる、小動物のようなこの男の姿を見るのが好きなんだなと改めて実感した。


食べ終わり高津が火を消そうとする。


「ちょっと待って。」


と言って事務所へ戻り、本を持ってきて火に焚べた。


「何それ?」


高津が不思議そうに尋ねる。


「沙良さんの日記。」


「なんで!?」


その問いには静かに答えた。


「今となっては真実は酷すぎるからね、私が墓場まで持っていくしかないでしょ。…私は腹を括ったよ。」


高津は少し考え込むような表情になり、


「そうか。」


と呟いた。


その声には諦めにも似た響きがあった。


「きっとこれは優司と紗季さんに見せるべきだったんだよ、今となってはこの世で読むべき人はもう居なくなってしまったと思う。私が勝手にそう思うだけなんだけどね。」


心配そうに私を見つめる高津が目に入る。


「沙良さんが私に委ねてくれたんだもの、私が正しいと思うようにさせてもらう。」


その言葉は零れるようだった。


そして私にはもう一つ、墓場に持っていく秘密がある。


それは私が高津秀人と離婚した理由。


この男、無精子症なのだ。


子供が欲しかった私は、なぜできないのか理由を調べていた。


ある日の夜高津が寝た後、無断で郵送の精液検査を申し込んだ結果、発覚した。


私は離婚を決めた。


高津は理由を知りたがったが、私は決して言わなかった。


最後は渋々ながら判を押した。


だが離婚して気付いた、誰の子でも良いわけでは無かったのだと。


これで墓場に持っていく秘密が2つに増えた。


まぁ1つも2つも変わらない。


そんな事を考えながら、空を見上げる。


「何してるんだ?」


私は手を振っていた。


「優司と沙良さん、紗季さんが見てるかもしれないじゃない。」


高津も空を見る。


「そうだな。」


と言いながら一緒に手を振る。


その空は少しずつ夜へ染まりつつあった。

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