第十六章
胸元の弁護士バッジに触れる、頭がうまく働かない。
私は霊安室の椅子に腰掛け、虚ろな気持ちで須田さんを見つめていた。
十河警視が帰った後、部屋には静寂が満ちていた。
あ、と声を上げ、鞄から茶封筒を取り出した。
「真実の話なんですって。」
私は須田さんに語りかけるように、封筒の中身を確認する。
それは皆原誠の司法解剖の結果だった。
しかし、法廷に提出されたものとは明らかに異なる内容だ。
驚きで目を見開いた。
皆原誠の死因は刃物による頸部の切り傷で、他の傷は全て死後につけられていた。
ここまでは法廷に提出されたものと同じ。
衝撃的なのは致命傷となった頸部の切り傷に、躊躇い傷の痕跡が残っていたことだった。
「…躊躇い傷?」
思わず呟いた。
「皆原誠は…自殺していた?」
手が震え、書類がぶれ始めた。
高立ち上がり、須田さんに問いかける。
「須田さん、これなんですか?」
もちろん須田さんは答えない、それでも問い続ける。
「これ、本当なんですか?」
書類を見つめ直す。
「皆原誠は…自殺していた?」
頭が真っ白になる。
「いや、もしかすると久留島秀一も…?」
他に書類はない、久留島秀一についてはわからない。
ふと、里村先生の言葉が脳裏を掠める。
『最後にもう一度質問させてください、高津さんは本当にあの子があのような恐ろしいことをしたとお考えですか?須田君は人の命の大切さを知る優しい子です。私にはとても信じられないのです。』
私は須田さんの何を見て、何を信じていたのだろうか。
「ねぇ、須田さん。答えてくださいよ!須田さん!須田さん!」
声は徐々に大きくなり、いつしか大音声をあげていた。
駆けつけた警備員たちが、私を落ち着かせようと抑える。
それでもなお叫び続ける。
そんな中で須田さんだけが、静かに微笑んだまま佇んでいた。
……。
…なんだろうか。
足が重い。
病院を閉め出された私は、疲労困憊で自宅のドアを開けた。
酒を飲んだわけでも無いのに、帰ってくるまでの記憶はほぼ無い。
意識を手放していても家にはちゃんと帰れるし、落ち込んでいても喉は渇くし原も減る。
あーあ、生きちゃってるなぁ。
小さなアパートの部屋に入ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に半分ほど飲み干した。
ビールの味もよく分からない、ただ冷たい液体が喉を通るだけだった。
窓の外の街の灯りが、やけに遠く、自分とは無関係なもののように感じられる。
私の目は、机の上に置かれた一枚の新聞記事に釘付けになった。
「横領で起訴の元会社員、執行猶予付き判決。」
という見出しが、心を締め付ける。
5年前、私はまだ大手法律事務所のアソシエイト弁護士だった。
依頼人は、会社の金を横領した容疑で起訴されていた。
「私はやっていません!」
依頼人の必死の訴えが、耳に蘇る。
しかし、事務所の方針は違った。
「有罪を認めて、情状酌量を求める。それが一番軽い刑で済む方法だ。」
私は葛藤した。
「でも、依頼人は無実を主張しています。」
上司は冷たく言い放った。
「証拠は揃っている。無罪を主張しても無駄だ。我々のやり方を信じろ。」
結果は上司の言う通り、最も軽いと言える執行猶予付きの判決。
無論無罪を除いて。
しかし、それは依頼人の人生。
いや、人生のみならず。
依頼人をも壊すには十分だった。
あぁ、そんな事は端からわかりきっていた。
判決から2年後、私は元依頼人の近況が気になり、アパートを訪れた。
執行猶予期間が終わったばかりで、社会復帰の様子を確認したかったのだ。
ノックをしても反応はなく、ドアは開いていた。
「お邪魔します。」
静かな部屋だった。
明らかな不法侵入だが恐る恐る脚が動いてしまった。
奥の部屋のドアを開けると、ふと。
目の前でネイビーのスラックスが揺れる。
私はゆっくりと視線を上に向ける。
それは天井からぶら下がる依頼人だった。
床には『無実だ』と走り書きされた紙切れ。
私は吐き気を覚えながら、その場に崩れ落ちた。
翌日、私は震える手で上司のオフィスのドアを叩く。
「入れ。」
冷たい声だ。
私は昨日見た光景を報告した。
言葉を探しながら、我ながら辿々しく伝える。
「2年前の横領事件の依頼人が…自殺したんです。無実だったって…。」
上司は冷ややかな目で高津を見た。
「で?それがどうした?我々は依頼された仕事をこなしただけだ。勝訴したあとのことまで気にしだしたら、この仕事は身が持たないぞ。」
その言葉に、心の中で何かが切れた。
「冗談じゃない!」
叫びながら、目の前の机をひっくり返した。
「人が死んだんだぞ!俺たちのせいで!」
怒りに任せて暴れ続けた。
書類を床に投げ散らし、椅子を蹴り飛ばす。
誰も私を止められなかった。
セキュリティが到着し、取り押さえられるまでに、オフィスは完全に荒れていた。
その日のうちに、即刻解雇された。
事務所は私の行為を「重大な非行」として、弁護士会に報告。懲戒委員会の調査が始まった。
数週間後、私は6ヶ月の業務停止処分を受けた。
この間、私は一切の弁護士業務を行うことができなくなった。
処分期間が終了した後も、大手事務所の影響力は恐ろしいほど大きく、他の事務所も彼を敬遠した。
新規の依頼はほとんど来なくなり、わずかに残っていた顧客も次々と離れていった。
『もう二度と依頼人を死なせるようなことはしない。』と、そう思っていた。
「それがこのザマだ。」
あの日誓ったはずなのに、結局俺は何も学んでいなかった。
また同じ過ちを繰り返したのだ、いや今回はもっと酷い。
思わず失笑する、ビールは空になっていた。
冷蔵庫にはもうビールはない、深いため息をついてスーツのままベッドに寝転ぶ、何もする気が起きない。
玄関が開けられ、
「いるー?」
と無遠慮な久美子の声が響く。
黙っていたが久美子は当たり前のようにずかずかと侵入してくる、
「うわっ、めんどくさ!」
赤い顔をしているであろう俺を見て久美子が声を上げる。
「俺がどうしようと勝手だろ…ほっとけよ。」
「げ、口調まで戻ってるし。」
吐き捨てると久美子は気にせず辺りを見渡すと、目ざとく例の茶封筒を見つけ、勝手に中を見る。
「アンタも見たんだ、勝てば何でもありなんて本当にクソ野郎だわ。」
「お前知ってたのか!?何で黙ってた!?」
憤る俺に平然と、
「言ったら何か変わった?」
あっさりと告げられる。
「…わかんねぇだろ。」
悔し紛れに返すと、少し意外そうだった。
「じゃあ1つ教えたげるね。私さ、例のDNA鑑定疑ってたの。どう考えても時期が少しずれるから。」
「須田さんと五十島さんの?」
久美子が頷く。
「そう、それでずっと調べてたの。」
「ずっと?」
さらに激しく首を縦に振る。
「そう、親子関係が無いって結果が出ても、何回も。」
「いやおみくじで大吉出るまでやる、じゃねぇんだから。」
久美子が睨んでくる。
「まぁとりあえずその結果。」
そう言って先ほどと同じような茶封筒を差し出してきた。
ドキドキしながら確認する。
「鑑定不能?」
「そ、理由見て。染色体キメラ。」
当たり前のように言われるがわからない。
「染色体キメラ?」
「そう、DNA鑑定で親子関係を証明できないんだって。」
更に続ける。
「青木先生がこの結果を見つけて、私に教えてくれたの。本当に嬉しかった。だって沙良さんは悪くない可能性が出てきたんだから。」
「青木先生?あの証人尋問の...」
久美子が頷く。
「そう、あの青木先生。彼が優司のDNA検査をして、染色体キメラだってわかったんだ。」
「えっ、じゃああの時の証言で...。」
納得すると同時に、一抹の淋しさが胸を撫でる。
「うん、青木先生も何か言いたそうだったでしょ?でも守秘義務があるから言えなかったんだと思う。」
「お前俺に話してない話多すぎないか?」
一応依頼人な訳だから、それくらいは主張させて欲しい。
「黙ってても何でも話してもらえると思うなんて烏滸がましい。」
久美子は続けた。
「この結果を見つけて本当に嬉しかった。だって沙良さんは悪くない可能性が出てきたんだから。」
俺は嫌な予感がしてきた。
「誰かに聞いてほしかった。」
久美子が淡々と告げる。
俺は嫌な予感がしてきた。
「…もうそれ以上は話さなくていい。」
久美子にはこの事件の関係者6人との繋がりがあった。
須田沙良・紗季・優司・皆原誠・青木誠一・そして俺
この話はそもそも青木先生により発覚した。
須田沙良・紗季の姉妹は亡くなり、久美子は須田さんとは話していないと言っていた。
俺ももちろん聞いていない。
「でも!」
久美子は納得していない。
自分がこの事を話してしまった結果、事件が起こったことを理解していて自分を責めている。
胸を貸して、目一杯泣かせてやりたい衝動に駆られる。
「久美子、かわいい顔してるな、俺の胸に飛び込んできてもいいんだぞ?」
敢えて馬鹿にするように囁いた。
久美子の泣き顔は好きじゃない。
「は?」
あ、ちょっとやり過ぎたか?。
「…馬鹿!」
俺の頬で豪快な音を奏でた後、肩を怒らせながら帰っていった。
「あーいってー。」
少しは元気出たかな?
静かになった部屋でベッドに腰掛け、天井に目を遣る。
…。
……。
………。
…あ、少し眠ってしまったらしい。
微睡みの中でぼぅっと考え込む。
もし。
もし五十島さんと須田さんが実の親子だったと言うのなら、この事件は本当に何だったのか。
目を閉じると、須田さんとの初対面の場面が蘇ってきた。
留置所の面会室。
須田さんは穏やかな笑顔で俺を見つめていた。
「須田さん、私があなたの弁護人の高津です。」
「よろしくお願いします。」
須田さんの声は静かだった。
「事件について教えてください。」
真剣な表情で尋ねた。
須田さんはゆっくりと頷いた。
「僕は罪を犯したことを認めます。」
しかし、それ以上の言葉は続かなかった。
動機や犯行の詳細を聞き出そうとしたが、須田さんは微笑むだけで何も語らなかった。
「須田さん、どうか私を信じて真実を話してください。」
私の言葉を聞いて、須田さんは更に深く微笑んだのだった。
「その真実とやらに、どれほどの価値があると言うのですか?」
須田さんのその言葉が、今でも耳に残っている。
皆原の自殺、染色体キメラ。
真実を知っていた彼は、どんな思いであの質問を口にしたのだろうか。
俺は目を閉じたまま、深い眠りの中に落ちていった。




