ポーカースマイル

第十二章

束ねた髪を指でくるくると捻る。

私、瀬戸清香は警視庁の面談室で呆然としていた。

薄暗い部屋、冷たいパイプ椅子。

肌に張り付くような静けさが、これから始まる話を予感させた。

重苦しい空気が肺を満たす、須田君を撃った。

私が、須田君を撃ったのだ。

その事実は、今も私の胸に鉛のように沈んでいる。

冷たい金属が肌に触れる感触、銃声、そして倒れる須田君の姿。

それらが走馬灯のように脳裏をよぎり、吐き気を催した。

なんでこんなことになったかなぁ。

一体、どこで道を踏み違えてしまったのだろう。

後悔の念が、黒い波のように押し寄せてくる。

始まりは一本の電話だった。

あの人から電話だと思って反射的に電話に出たら、相手は須田君だった。

あの人の声ではないことに気づいた瞬間、胸騒ぎがした。

「皆原誠を殺したよ。」

荒い息と共に電話口から聞こえた声は、どこか遠く、現実味を帯びていなかった。

笑えない冗談はやめてよ、と私は精一杯平静を装って言った。

しかし、彼は低い声で続けた。

「僕が冗談でこんなこと言うと思う？」

あ、本当なんだ、と。

その言葉に、私は心臓を冷たい手で掴まれたように締め付けられた。

皆原誠。

私の実の父親。

私と母に対しては、ほとんど最後まで他人行儀。

私たちを放って須田君親子と暮らしていた。

須田君のお母さんが亡くなっても私たちと暮らさなかった。

愛情表現はおろか、温かい言葉すらほとんどかけてくれず、私たちは無視され続けた。

それが、私の中に深い孤独を植え付けた。

須田君から電話があった後、私はあの人と須田君が住むアパートへ向かった。

そこで見たのは、変わり果てたあの人の姿と、テーブルの上に置かれたスマホだった。

電話で須田君は『このスマホはさ、ここに置いておくよ。日中はバイトに行っているから顔を合わせずに済むよ。……安心して。』と私に告げた。

その言葉が、まるで呪いのように私の頭の中でこだましていた。

ああ、彼は私が彼に会いたくないと思っていることを知っている。

そしてそれは、ある意味真実だった。

非番だった私は、こっそりとあの人が須田君と住むアパートに行った。

あくまでも日常の中に溶け込むように、誰の印象にも残らないよう、痕跡を残さないように細心の注意を払う。

震える手で合鍵を差し込み、鍵を開けた。

ドアを開けると、鉄錆のような、生々しい血の匂いが鼻をついた。

胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる不快感。

薄暗い部屋の奥には、あの人の死体が仰向けで転がっていた。

想像以上に冷静だった。

まるで他人事のように、目の前の光景を認識していた。

部屋を見回すと、あの人に渡していたスマホが目に入る。

テーブルの上に無造作に置かれたそれは、まるで私を挑発しているようだった。

これに何が書かれているのだろうか。

何が私をこんな場所に引き寄せたのだろうか。

未送信のメールが開かれており、それが目に入る。

「…何これ？」

信じられない、という言葉が、乾いた喉から絞り出された。

「…あは。」

笑える。

「あははは。あははははっ！」

実に笑える。

ひとしきり笑うと、あの人が目に入る。

血の気の失せた顔は、呑気に寝ているようにすら見えた。

現実を受け止めきれず、私は震える手であの人の肩を揺さぶった。

「…ねぇ、起きなよ。」

どう見ても死んでいる。

そんな事は分かっている。

冷たく、硬くなった身体。

触れた指先から、体温が失われているのがわかった。

「ねぇ！ねぇってば！」

ただ、そうせずにはいられなかった。

現実を拒否したかった、そこから先はあまり覚えていない。

帰ってからも、気が気ではなかった。

あの光景が、血の匂いが、頭から離れない。

家でも、職場でも、常に不安と恐怖に苛まれていた。

特に十河警視には相談したかった。

信頼できる上司である彼になら、全てを打ち明けられるかもしれないと思った。

しかし、そうすると遺体の件を知っていたこと、アパートに侵入したこと、私の罪を全て伝えなければならない。

それはできなかった。

どうしても受け入れられなかった。

思えば、私の人生は選ばれない人生だった。

最初からそうだった。始まりは皆原誠。

母との間に私を儲けながら、あの人は須田沙良と須田君の所に付きっきりだった。

私と母は、居ないような扱いだった。

あの人は、私が幼い頃に家を出て行った。

母は多くを語らなかった。

だが私が、

「なんでお父さんはいないの？」

と聞くと、言葉を濁して遠くを見るような目をしていた。

その横顔は、どこか諦めにも似た寂しさを帯びていた。

ただ母は、父のことを恨んでいるようには見えなかった。

むしろ、どこか庇っているようにも感じられた。

だからこそ、須田君からあの人と一緒に暮らしていると聞いたとき、頭がおかしくなりそうだった。

彼は智成君の幼馴染だった。

智成君から須田君を紹介してもらったとき、ニコニコした感じのいい人だなと思った。

明るく、誰とでもすぐに打ち解ける彼は、智成君とはまた違った魅力を持っていた。

それで終われば良かったのに、あの人が須田君親子を選んだことを知ってから、私は彼をフラットに見ることができなかった。

智成君の顔が浮かんだ。

初めて会ったのは、高校の入学式だった。

桜が舞い散る校庭で、彼は迷子のように辺りを見回していた。

少し不安そうな、でもどこか期待に胸を膨らませているような表情だった。

声をかけると、彼はぱっと顔を輝かせ、

「ありがとう！」

と満面の笑みで言った。

その笑顔は、周りの空気を明るくするような力を持っていた。

同じクラスで隣の席になった私たちは、すぐに打ち解けた。

彼はいつも笑顔で、誰にでも優しかった。

困っている人がいればすぐに手を差し伸べ、周りを明るくしようと努めていた。

ある日、彼は私を映画に誘ってくれた。

少し緊張しながら映画館に向かう道すがら、夕焼けが空を茜色に染めていた。帰り道、並んで歩きながら、彼は少し照れながら言った。

「清香といると、楽しい。」

その言葉が、私の心に小さな火を灯した。

初めて感じる、胸の高鳴り。

それは今まで感じたことのない、淡くて温かい感情だった。

…でも、幸せな時間は長くは続かなかった。

高校生活最後の年、彼は白血病と診断された。

青天の霹靂だった。

信じられなかった。

あんなに元気だった彼が、なぜ…。

彼は、周囲に心配をかけたくないと言って、転校することにしたと学校ぐるみで嘘をついた。

それからの日々、彼は病院で治療に専念していた。

私は、学校と家を往復する毎日の中で、できる限り病院へ足を運んだ。

放課後、急いで病院に向かい、閉館時間ギリギリまで彼のそばにいた。

他の誰にも伝えなかった秘密を私にだけ打ち明けてくれたと最初は喜んでいた。

彼と二人だけの秘密。

そう思っていた。浅はかだった。

智成君は病院でいつものように笑顔で私を迎えてくれたけれど、日に日に痩せていく彼の姿を見ると、少しずつ事の重大さが身に染みてきた。

笑顔の奥に隠された苦痛、時折見せる弱々しい表情、そして、以前よりも浅く、苦しそうな呼吸。

それらは、私を不安にさせた。

ある日、私は意を決して彼の病室を訪れた。

他の見舞客がいないことを確認して、私は彼のベッドの傍に座り、震える声で告白した。

「智成君が好き。ずっと、前から…。」

勇気を振り絞って伝えた言葉は、震えて上手く発音できなかったかもしれない。

彼は驚いたように目を見開き、少しの間天井を仰いだ。

その沈黙が、私を不安にさせた。

心臓がドキドキと高鳴り、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。

そして、優しく微笑みながら言った。

「清香には、もっと相応しい人がいるよ。」

その言葉は、優しさで包まれていたけれど、同時に、私の心を深く傷つけた。

拒絶された、という事実は、鈍い痛みとなって胸に広がった。

彼は、自分の命が長くないことを悟っていたのだろう。

だから、私の気持ちを受け入れることができなかったのだ。

そう思うことにした。

そう思わなければ、やりきれなかった。

最期の時が近づいていた。

酸素マスクを着け、辛うじて呼吸をしている彼の手を握った。

以前よりもさらに冷たく、骨と皮だけになった手。

意識が朦朧とする中で、彼は私の手を握り返し、かすれた声で言った。

「清香、優司を頼む。」

これが私が聞いた智成君の最期の言葉となった。

智成君が最後に気にかけたのは、私ではなかった。

その事実に深く悲しみ、胸の奥底にぽっかりと穴が開いたような喪失感を覚えた。

智成君との特別な時間が、永遠に失われてしまったのだ。

そう改めて突きつけられた気がした。

なぜ最後に、私ではないのだろうか。

なぜ、須田君なのだろうか。

その問いが、嫉妬という黒い感情となって、私の心を蝕んでいった。

今思えば、私の『選ばれない人生』はあの人から始まった。

でも『選ばれない人生』を決定付けたのは智成君だった。

それから須田君とは疎遠になってしまった。

避けていたのだ、でも気付いていたんだ。

ごめんね。

高校卒業後、病気がちだった母は亡くなるまで、入退院を繰り返していた。

体調の良い時は、穏やかに微笑み、私の頭を撫でてくれた。

しかし、病状が悪化すると、苦痛に顔を歪め、うわ言のように何かをつぶやいていた。

そんな母を、あの人は時折見舞いに来ていた。

しかし、それはまるで義務的な訪問のようだった。

母に簡単な挨拶をし、世間話をするだけで、すぐに帰ってしまう。

私とは目も合わせないことがほとんどだった。

まるで、そこにいないものとして扱われているようだった。

母が亡くなる直前、あの人はようやく詫びの言葉を口にした。

「静香さん、清香さん、今まで…すまなかった。」

その声は、いつもの冷たさとは違い、わずかに震えていた。

母は、弱々しく微笑み、

「もういいのよ、帰ってきてくれてありがとう。」

と答えていた。

私はもういいとは言えなかった。

今思えば、やはりあの人は須田君親子のことしか考えていなかったのだ。

あの人が母と向き合ったのは須田君のお母さんが亡くなった後だった。

母への謝罪も、形式的なものだったのかもしれない。

そう考えると、胸の奥底から冷たいものが込み上げてくるのを感じた。

須田君を撃った瞬間の記憶が、鮮明に蘇る。

高津弁護士に馬乗りになり、ガラス片を振りかざす須田君。

焦燥と狂気に歪んだ彼を見て、私は恐怖を感じた。

高津弁護士が危ない。

そう思い、咄嗟に撃った。それは嘘ではない。

高津弁護士を守るためだった。

でも、それだけではなかった。

智成君が最後に気にかけたのは自分のことではなかったこと、あの人が自分たち親子ではなく須田君親子ばかり気にかけていたこと。

それらの記憶が蘇り、私の中で何かが弾けた。

抑えきれない怒りと、そして殺意を感じた。

反射的に、私は銃を構え、引き金を引いた。

一瞬の出来事だった。

後から考えれば、他に方法もあったかもしれない。

でも、あの時は…あの時は、そうするしかなかった。

…本当に？

自責の念と後悔が、私を押し潰そうとする。

私は、本当に正しかったのだろうか。

あの時、他に選択肢はなかったのだろうか。

私の行動は、本当に正義だったのだろうか。

その時、部屋のドアをノックする音がした。

言うまでもなく十河警視だろう。

「どうぞ。」

と告げると扉が開かれた。

そこに立っていたのは予想通り、十河警視だった。

彼の目は、私を真っ直ぐに見据えている。

私も彼を見つめ返す。

十河さんがゆっくりと口を開く。

「須田は死んだよ。」

そう言って十河さんはいつもより優しい目で私を見ていた。