第九章
ハンドクリームを塗り込む、この時期はすぐに手が荒れてしまう。
秋の冷たい風が墓地を吹き抜け、私の頬を撫でていった。
私は2人の子ども、真知と信護を伴いながら、静かに墓石の間を進んでいく。
落ち葉が足元でカサカサと音を立て、その音が墓地の静寂を僅かに乱していた。
「お父さん、誰のお墓?」
真知が首を傾げながら尋ねた。
その大きな瞳には好奇心が溢れている。
私は一瞬言葉に詰まった。
子どもたちの好奇心に満ちた目を見つめ、軽く首を振った。
「行けばわかるよ。」
私は穏やかに答えた。
自分の声には説明を避けたい気持ちが滲んでいた。
真知とは首を傾げたが、それ以上の質問はしなかった。
私は子どもたちの肩に手を置き、静かに前へ進み始めた。
墓地の奥へと進むにつれ、私の表情は徐々に緊張していく。
周囲を警戒するように時折後ろを振り返りながら歩を進める。
やがてある区画の前で足を止めた。
そのとき、私は遠くに人影を見つけた。
表情が一瞬こわばる。
夕暮れの光が墓石を赤く染め、その影が人影の足元まで伸びていく。
冷たい風が吹き抜けるたび、人影の髪が揺れ、その姿がより不気味に見えた。
「ごめん、やっぱり帰ろう。」
私は子どもたちに向かって言った。
真知と信護は驚いた表情を浮かべる。
「え?なんでだよ。」
と信護が抗議の声を上げる。
私は深呼吸をし、意を決したように子どもたちを見つめた。
「2人は先に車に戻っていなさい。」
私は決意を込めて告げる。
「約束する、後で説明するから。」
子どもたちは私の真剣な眼差しに黙って頷いた。
しぶしぶと来た道を引き返す2人の後ろ姿を、少しの間見つめていた。
子どもたちの姿が見えなったのを確認し、表情を変える。
そろりそろりと目的の墓に近づいていった。
様子を伺いながら目的の墓にそろりそろりと近づいていく。
音を立てないようにしながら先客の姿を注視する。
墓前に佇む人物の背中には、何か言いようのない重みが感じられた。
思わず一瞬たじろいだ。
が、すぐに表情を引き締め直した。
私はその人物が誰であるかを改めて確信した。
突如としてその人物が独り言を呟き始めた。
「あなたにとってこの女は。」
その声音に私は息を呑んだ。
「不倫をして、托卵をして、勝手に死んだ、そうでしょう?」
冷たく感情を押し殺したような声だった。
しかしその言葉の裏には深い憎しみと悲しみが潜んでいるように感じられた。
私は動揺を抑えようと深呼吸をした。
その音が静寂を破ったのか、人物がゆっくりと振り返る。
「なぜそんな女の墓参りに?」
その顔を見た瞬間、私の心臓が跳ねた。
私の脳裏に、この子が初めて私を『パパ』と呼んだ日の記憶が蘇る。
初めての息子だと思っていた。
沙良から妊娠したかもと告げられ、産婦人科で妊娠の診断を受けた。
最初は双子だったんだ。
沙良が地震で倒れた家具の下敷きになり双子は1人亡くなってしまった。
それだけに、生まれてきてくれた時の喜びは言葉にできなかった。
亡くなった子の分までこの子を育てよう、優司を何としても大事に育てようと心に誓ったのを覚えている。
始めてパパと呼ばれた日。
小さな手を握り公園で遊んだ日々。
肩車をした時の感触。
そしてDNA検査の結果を知った日、笑顔が凍りついた瞬間。
10年の歳月が流れていたが、その笑顔は一見すると昔と変わらないように見えた。
しかしどこか違和感があった。
私はその理由がはっきりとは分からなかったが、かつての笑顔とは何か異なるものを感じた。
私は言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「久しぶりだね、優司君。」
この呼びかけに、優司の目が僅かに見開かれた。
これまで、私が優司をそう呼んだことはなかった。
「ご無沙汰しております、五十島さん。」
優司も同様に、初めてこのような呼び方をした。
この10年越しの初めての呼び方が、2人の関係の変化を如実に物語っていた。
かつては父と子として暮らしていた2人。
しかし今、そこにあるのは他人のような距離感だった。
夕暮れの光が墓石を赤く染め、その影が二人の足元まで伸びていく。
冷たい風が吹き抜けるたび、優司の髪が揺れ、その笑顔がより不気味に見えた。
私は優司の表情を読み取ろうとしたが、その笑顔の奥に潜む本当の感情を掴むことはできなかった。
「そういう君は、なぜそんな人の墓参りに?」
私は優司の質問を返した。
優司は答えず、ただ笑顔を浮かべたまま黙っていた。
その沈黙が2人の間に流れた。
私の胸に、10年前の決断が重くのしかかる。
優司の手を放した瞬間、彼の人生がどう変わったのか。
自分の選択は正しかったのか。
そんな思いが今も私を苛み続けていた。
私はため息をつくと墓に近づいた。
バケツから柄杓で水を掬い、静かに墓石に掛け始める。
水滴が石の表面を伝い落ちる音だけが、二人の間に流れる沈黙を破っていた。
長年の風雨で薄れかけていた『沙良』の文字が水を浴びて鮮明になっていく。
私が持参した線香の煙が風に揺られて優司の方へ流れていく。
その香りが二人の間に漂い、過去の記憶を呼び覚ますかのようだった。
たわしを取り出し丁寧に墓石を擦り始める私。
優司は相変わらずの笑顔でその様子を眺めながら、
「正気ですか?」
と訊ねた。
私は一瞬手を止め、沙良の名前が刻まれた墓石を見つめた。
「沙良のことを、どう思っている?」
優司の表情が一瞬硬くなったが、すぐに笑顔に戻った。
「今更何を聞くんですか?」
私は優司の一瞬の変化を見逃さなかった。
「ただの好奇心だよ。」
優司は遠くを見つめながら言った。
「五十島さんにとっては、どんな人だったんですか?」
「そうだな…私にとっては、複雑な思い出の人だ。」
私は再び墓石を磨き始めた。
優司は笑顔のまま黙り遠くを見つめた。
その表情からは何も読み取れない。
しばらくの沈黙の後、私は話題を変えた。
「真知と信護のこと、覚えているかな?もう随分大きくなったよ。」
優司の笑顔は変わらず、
「そうですか。」
と答えた。その声は少し柔らかい色含んでいたように思う。
ただの私の願望だと言えばそれまでかもしれない。
「いつまであの家に二人を縛るつもりですか?」
刹那、心臓が止まったかと思った。
「あの家にはあなたの望むものはもう無いんです。…いや、最初から無かったんですよ。」
何も答えられない。
「ニュースで見たよ。」
私は低い声で呟く、苦し紛れに最悪の質問をしてしまった。
「二人を…。」
言い終わる前に優司は笑顔で、
「ええ、そうです。あの女の恋人だった皆原誠とバイト先のオーナー店長久留島秀一です。」
と淡々とした口調で答えた。
その一言に私の動きが一瞬止まる。
唇を強く噛み、何か言いかけたが、結局はそうかとだけ言って再び掃除を始めた。
再び沈黙が訪れた。
二人の間に流れる時間が10年の空白を強調しているようだった。
私は掃除の手を緩め、優司をまっすぐ見た。
「あの日もし、違う選択をしていたら…。」
優司の笑顔が深まり、冷たい目つきで私を見つめた。
「あの日?ああ、私が『息子』じゃなくなった日ですね。」
私は息を呑んだ。
優司が更に続ける。
「他に何か言い方がありますか?」
そう言って更に歪んだ笑顔で微笑む。
「あまつさえ自分が引き取っていればこうはならなかったとでも?思い上がりも甚だしいですね。」
その言葉に私は思わず食ってかかった。
「何故そう言える?」
「蛙の子は蛙、血は争えないですから。」
優司は淡々と答えた。
その笑顔は崩れることがない。
「真知や信護もそうだと言うのか!」
私は声を荒らげた、本質はそこに無いと分かっていながら。
優司は肩をすくめ、
「違うでしょう?母親『は』同じですがね。」
と答えた。
そして鋭い眼差しで私を見つめ、
「血など関係ないと、あなたは言えますか?」
その言葉に頭を殴られたような衝撃を受ける。
自己弁護の言葉も浮かばない、私は言葉を失った。
心の中で自分自身への痛烈な問いかけが響く。
本当に血など関係ないと思うなら、何故自分だけ引き取らなかったのか。
それは優司の口から発せられたものではなく、私自身の自責の念が生み出した無言の叫びだった。
私は唇を噛んだ。
答えられない自分に強い憤りを感じる。
その時、優司の表情が僅かに変化した。
背後に誰かの気配を感じたようだ。
しかし振り返ることはせず、静かに呟いた。
「やれやれ、今度は誰ですか?」
優司の背後から女性の声が静寂を破った。
「須田優司。」
その声に、優司はゆっくりと振り返った。
その女性の姿を見てもその表情は変わらない。
しかし声には僅かな驚きが滲んでいた。
「これは驚いたな。」
女性は冷静な声で告げる。
「私は警視庁捜査一課、警部の瀬戸です。須田優司、大人しくしなさい。」
優司は笑顔で応じる。
「本当に久しぶりだね、清香ちゃん。」




