告白
渋谷スカイに夕日が落ちる。
雲が重なり、世界への光を遮る。少しでも早く夜を迎えようとしている。
蒸し暑い夏の夜を。
背後から高校生たちの歓声がする。より映える写真のために、街並みにシャボン玉が飛んでいく。
一つが、ぱちんと弾けた。
「最上美鈴……さん?」
振り返ると、半袖シャツにスラックスの、いかにも仕事帰りのOLです、という若い女性がいた。近くを通り過ぎる人が「どういう組み合わせだろう」と言いたげな目線で私達を見ていく。
清楚な彼女と、明るく髪を染めてルーズな服装のあたし。友達には見えないだろう。
「川田。来ないかと思った」
「正直迷いました」
川田は、肩にかけたバッグの紐をぎゅっと握った。
「でも、来てくれた」
あたしの唇は自然と微笑む。
先日、伝手を辿り、「会いたい」とメッセージを送った。既読から返答までの数日、私のことを考えてくれたと思うと嬉しかった。
彼女が立つ側には、もう夜が迫っていた。背後に小さな星が瞬いているのにも気づかず、意を決した様子で川田が歩いてくる。
綺麗な黒髪が風に揺れる。
教室では背中ばかり見ていたのに不思議な気分。
「可愛くなったね、川田」
「ふざけてませんか」
「マジなんだけどな」
彼女は横に並んだ。
正面からあたしを見たくないのだろう。
すぅ、と息を吸い込むのが聞こえた。
「──いくら欲しいんです?」
「なんのこと?」
「黙っている代わりに、何か要求されると思っていたんですけど。
あなたが失踪した日から」
私は驚き、そして笑った。
「はは、失踪ってなんか上品だね。夜逃げだよ夜逃げ。そう聞かなかった?」
「振られたショックで失踪、という噂ばかりでした。その方が面白かったんでしょう」
「へぇ、あたし悲劇のヒロインになったんだ。
あいつは? どうなったの?」
「居づらくなって、よその学校に転任しましたよ」
「ははっ、ざまぁ」
「ねえ、どうしてです?
どうして、嘘の密告をして消えたんです?」
聞かれると思った。「どうしてあんなことをしたのか」。
理由はいくつかあったけど、あたしの原動力はただ一つだった。
「綺麗だったから」
「え?」
そこでようやく、川田はこっちを見た。
「あの日のあなたが綺麗だったからだよ、川田」
驚いた目は、昔のままだった。
三年生で同じクラスになった川田彩は模範的な優等生で、ギャル仲間とつるんでいたあたしとは真逆だった。
なのになぜか目で追っていた。「あの子は優等生の仮面をかぶっている」と確信があった。斜め後ろの席から見ると、どうしようもなく思いつめた視線を教卓に向けている時があって、その目に見覚えがあったからだ。
家の洗面所、鏡で体中の痣を確認しながら溜息をつく、自分の目に。
その時の担任には噂があった。
「美鈴、あいつ生徒に手ぇ出してるって知ってる?」
昼休み、行儀悪く座る友達が男の話のついでに教えてきた。
「マジで? どこがいいの? 顔フツーだし授業つまんないじゃん」
さほど興味のないフリをしながら、あたしは容赦なくこき下ろす。
日焼け止めだから、と半袖の下に着こんだアームカバーをいじる。
「つまんないのはあんたが聞いてないからでしょー」
「あはは」
渇いた笑いを返す。
無意味な会話のラリーのはずだった、けれど。
話の途中で、あたしは窓際の川田の肩がぴくっと動いたのに気付いた。
次の週「結婚が決まったんだ」と担任は照れながら言った。「噂はガセだったのか」と教室中が期待外れな雰囲気になり、落胆のアイコンタクトと小声の会話が飛び交う。
浮かれている本人はその温度差に気づかず、聞いてもいないのに「お前たちも好きな人ができたら大切にするんだぞ。まあ今は学業の方が大事だけどな」などど余計な話をしていた。
友達が目配せしてきて「うっざ」と小声で言い、あたしはしかめ面で頷いて同意した。
それから、川田を見た。いつもだったら教卓に立つ担任を真剣に見つめている彼女が、どこを見ているか気になった。
川田は窓の外、校庭を睨んでいた。
まるでそこに、人類の敵でもいるかのように。
数日たったその日、いつもきっちり置かれている川田の文房具が、斜めに置かれていた。
放課後になると同時に川田は席を立ち、早足でどこかへ向かう。
あたしは彼女の後をつけた。
「結婚って本当なんですか」
教科準備室の前で足が止まった。本校舎と離れている別棟で、辺りに人気はない。窓の外でセミがうるさい。それでも扉の向こうからはっきり聞こえる音量。
胸騒ぎがした。
扉の小窓からのぞいている生徒がいるとも知らず、担任は机の向こうで何やら書き物を続けていた。
鞄を持ったまま立っている川田の横顔が、男の返事を待っていた。
「ああ。お前だって、いつまでも付き合えると思ってなかっただろ。
──別れよう」
浮かれた結婚報告とはまるで真逆の態度だった。
「わかりました」
担任の相手が川田だった驚きより、冷静な返事に引っかかった。
担任は物分かりのよい返事を疑わずに受け取り、話は終わったとばかりに作業を再開し始めた。部外者のあたしでさえ腹が立つぞんざいな扱いだった。
川田、怒りなよ、あたしだったら声を荒げて怒りをぶつける。いっそ代わりにやってやろうか──そう心の中で語りかけた時、彼女の横顔にあたしは釘付けになった。
顔をはたかれたような衝撃が走った。
川田から優等生の仮面がはがれ、瞳の奥が燃えていた。
そして、後ろ手に持った鞄から何かを取り出す。
刃先が光る。
ナイフだ。
あたしの体は自然と動いていた。少し下がって、今来ましたとばかりに足音をわざと立て、扉に手をかける。
「せんせー! 進路希望持ってきたぁ」
「最上」
乱暴に引き戸を開け、大声で入室した。
川田の鞄が落ちた。ナイフを持つ手が腰のあたりで止まる。机に隠れて担任からは死角になっていた。
固まる川田が目に入らないかのようにどかどかと歩き、ポケットの紙を担任の机に投げるように出す。
「ノックしろよ。それに用紙、ぐしゃぐしゃじゃないか」
「さーせん」
担任は呆れていた。用紙だって、第一希望しか書いてない。
「就職か。成績は良いんだから進学すればいいのに」
「ま、ちょっと家の事情ってやつ?」
目の端で、川田が鞄をナイフにしまうのを確認する。
「これ親御さんは納得してるのか?」
あたしにつられて担任の声も大きくなる。会話の合間に「失礼しました」と川田が消えるように出ていった。
しばらく雑談して、担任は納得したらしい。
「じゃーねセンセ」
「おう、まっすぐ帰れよ」
川田を傷つけたのと同じ、平然とした口調だった。
扉を閉める手を途中で止めてやった。担任が不思議そうにこっちを見る。
「あとね、あんま生徒なめないほうがいいよ。やるときゃやるんだから」
「え」
きょとんとした担任を残し、バン! と扉を強く閉めた。
壊れてもいいと思った。
あたりを見回す。廊下にも階段にも川田はいない。
あたしは生まれて初めてってくらい、頭をフル回転させた。
教室に戻ると、川田の席はもぬけの殻だった。西日が暑い。
友達が2人、机に腰かけて雑談している。あたしを待っていたらしい。
律儀で嬉しかったけど、失う覚悟はとうにできていた。
「どこ行ってたのー? いっしょ帰ろー」
「ごめん、無理。1人になりたいや」
深刻そうに言って、友達二人の注意を引く。
「どしたの」
「……彼氏と別れてきた」
「え、嘘!? てか誰?」
心配と、色恋沙汰に沸き立つ気持ちが透けて見えるようで、この子たちなら噂を広めてくれるだろうと確信した。
「担任だよ」
「……え」
わざと泣きそうな顔を作って、逃げた。
帰宅後、すぐに最低限の荷物を持って母親と家を出た。酔うと暴力に走る父親から逃げる日と、川田が決意した日が一緒なんて運命だなと思った。
学校にも友達にも未練はなかった。
川田の横顔だけが鮮やかに脳裏に残っていた。
気づくと列車の窓から、暮れる街並みをぼんやり見ていた。母は落ち着かない様子で荷物を握りしめていた。身を寄せる親戚の家に居場所はあるか、これからやっていけるのか、不安でいっぱいだっただろう。あたしもそうなるはずだった。
外は暗くなり、窓に頬杖をつく自分が映る。
川田は今何を思っているだろう。
いつか、また東京に戻ってこよう、川田に会いたいと、思った。
数年経って、渋谷スカイができて、待ち合わせて。
こんなに時間がかかるとは思わなかったけど、今、川田がそばにいて、あたしを見てる。
それだけでも幸せだと感じた。
ずっと、こんな風に見てもらいたかったんだ、きっと。
「脅迫なんてする気はないよ。
川田のあの表情を、あたしだけの宝物にしたかった。
共犯みたいに、絆ができている気がして嬉しかったんだ」
へへ、とあたしは笑う。
日は完全に沈み、街の明かりが綺麗な夜になっていた。ここもライトアップされ、川田の表情がはっきりわかる。
ついさっきまで、瞳に怯えた色があった。脅されるとまで思っていた相手が意外なことを言いだしたものだから、今度は困惑の色が浮かんでいる。
「まるで告白みたい。あの時の私を綺麗だなんて、どうかしてます」
「そうかも」
「どうして今日話す気になったんです」
「んー、実は明日から海外に行くんだ。
それで、最後に顔を見たかっただけ。びっくりさせて悪かったね」
じゃ、と身を翻して歩き出す。
それで終わりのはずだった。
階段に足をかけた時。
ふいに、あたしの体が止まった。
「先生の前では、いい子でいたかった」
服が、川田の白い手に引っ張られている。彼女はうつむいていた。
「ハードルが高い付き合いだったから、失いたくなくて、ものわかりのいい子を演じてて……。
でも苦しかった。本命がいるのだってわかってた。無駄な時間だって理解しているのに、だからこそ離れたくなくて、どんどん思いつめていって、結婚報告で視界が真っ暗になって、『あの人を殺して私も死ぬ』──それだけしか考えられなくなった。
最上さんが準備室に……私達の間に入ってくるまでは」
「川田」
大丈夫か、と聞こうとしてやめた。
星が瞬く空を仰ぐ。たぶんまともにこの告白を聞いてやれるのは世界中であたしくらいで、川田の声は落ち着いていて、もう可哀想な女の子じゃなかった。
「家に帰って、生きて帰るつもりがなかったのに帰って、一晩眠れなかった。翌日脅されると思って、だけどあなたは噂だけ残して消えてしまって。
どういうつもりなんだろうって、ビクビクしながらこんなに年月が過ぎて、気づけばあの人より最上さんのことを考える時間の方が長くなってた。どうしてるんだろうって……変ですよね」
服を引っ張っていた川田の手が、力なく落ちる。
人が増えてきたな、と思ったら遠くで花火が小さく上がり、皆よく観える側に集まり始めた。花火に見向きもしないのなんてあたしたちだけらしい。おかしくて、嬉しかった。
あたしは彼女に向き合った。
スマートに去るなんて、もうできそうになかった。
「あたしは……同じクラスになった時から川田のこと気になってた。
あたしが家庭のゴタゴタを隠して明るくふるまってたみたいに、川田にもなんかあるって思ってたんだ。
だから川田を止めたことで、自分を救ったような気に」
「……」
「……いや、違うな」
本当はもう立ち去っているはずだった。顔が見れればそれでいい、と思っていた。
自分の想いに気づいたのは離れて暮らし始めてから。伝える機会なんてなかったし、伝えても迷惑だろうと思っていた。
でも今ここに川田がいる。あたしと向かい合っている。
あたしの言葉の続きを待っている。
息を吸い込む。美しい夜景と、美しい川田。
おそらく一生に一度の機会。
舞台は整っている。
「──川田が優等生の仮面をかぶらずにのびのび生きられたらと思ったんだ。あの場で、あんな男のために川田の人生が終わるようなことをさせたくなかった。
さっき告白みたい、って川田は言ったけど、その通りだよ。
あたしは、ずっとあなたが好きだった」
言った。言ってしまった。
川田はまだ顔を上げないままだ。
沈黙は永遠に感じられたけど、実際はきっと数十秒。
「──変な気分です」
そしてようやく川田は顔を上げる。風で髪がなびいて、顔が見えない。
はぁ、と吐息を夏の夜にもらす。
「悪魔が急に白馬の王子様に変身したみたい。
むき出しの私を知った上で、守ってくれたってこと?」
そんなたいそうなもんじゃないよ、と茶化そうとしたけど。
髪をかきあげた川田の表情を見て、あたしは何も言えなくなった。
黒い瞳が、きらきらと輝いている。
「頭が追い付かない。変な気分……なんていうんだろう。
今になって妙な一目惚れでもしたみたいです」
「マジ?」
少しひっくり返った自分の声が恥ずかしくて、でもそれ以上に胸にじわじわとこみ上げるものがあった。
なんだこの展開。今夜は予想のつかないことばかりだ。
川田がこっちを見ている。あたしから視線をそらさない。
夜景も見ずに、二十歳過ぎた大人の女性同士がこんなところで向かい合って、花火に歓声を上げる人そっちのけで。そんなことが気にならないくらいどんどん取り繕った仮面が剥がれて、それで。
──ああ、なんて。
「最上さん、あなたに強烈に興味が湧いてきたんですけど……もっと話せませんか?」
なんて綺麗な、強い眼差し。
言葉につまる。
ずっと、奇跡のような展開を望んでいた。
彼女の心が、あたしに向く時を。
「え、と……とりあえずどっか飲みに行く?」
「いいですよ」
思い切って川田の手を握る。抵抗されなかった。
頬が赤くなるのが自分でもわかる。
「やっば、気持ちがふわふわして、もう酔ってるみたいなんだけど……」
「かわいいこと言いますね。私が本気の愛情を向けたらふわふわどころか激しいですよ?」
「……知ってる」
騒がしい学校での時間も、ままならない家のことも、上手くいったりいかなかったりの日々も全部過ぎ去って。
川田もあたしも今日この場所まで生きていてよかった、と思った。
再会しなければ、川田の手が白くやわらかく、ちょっと心配になるくらい細い指をしていることも知らないままだった。
あたしたちはエレベーターに乗り込む。
振り向くと夜空が扉と共に、ゆっくり閉められていくところだった。