EP-72 極東屋敷
視界の端まで続く土塀。そのうちの一ヶ所に設けられた厳かな迫力を持つ重厚な両扉の門。年季の入ったその門の前には真夏の日差しの下だというのにネクタイを締めたスーツ姿の男2人、対になって仁王立ちしていた。
「お前が言ノ葉詩音だな」
「くぅーん」
サングラス越しに見下ろされて情けない声が出る。だって相手は自分の倍くらい背が高いんだ。尻尾が丸まらない方がおかしいと思う。
どうして私がこんな目に遭っているのか。事の発端は昨日、飛鳥さんに電話をしたときまで遡る。
彼女に預けた子猫について様子が気になると話したところ、折角なら家に直接来れば良いと言われたのだ。つまりこれは友達の家に遊びに行くという一大イベント。私には無縁だと思っていたそれがこんな形で実現するとは思わなかった。
緊張する反面、それ以上に嬉しかったので勿論了承。半日がかりで念入りに準備をして、教えられた住所に来た次第だ。
「お嬢から話は聞いている。入りな」
男がそう言うと門は自動で開き、私を迎え入れる準備を整える。厳かな雰囲気は間違っても私が踏み入って良い場所ではないと静寂をもって語っているかのようだ。
気後れして思わず一歩下がったが、背後にぴたりと付いた2人がそれ以上の後退を妨げる。あっ、これ逃げられないやつだ。
「ねぇ、見てよ飛鳥さんの家」
「まだあんなに小さいのに。可哀想ね」
門が閉まる間際にご近所さんの不穏な会話が聞こえた。おかしいな。私はただ仔猫に会いに来ただけなのに。どうしてこの家から生きて帰ることができる気がしないのだろう。
自動車が1台余裕で通れる道を進み、枯山水の庭園を眺めながら敷石が並ぶ細道を行き、悠然と構える日本家屋の玄関に着く。そこで待つように指示をした男の1人が中に入りヒトを呼びに行く。その間、私は耳の一つも動かさず直立不動のまま待機していた。
落ち着くんだ私。冷静になるんだ。別にやましい事なんて何もないのだから臆することはない。このヒト達だって猩々先生よりは怖くない。それは間違いない。
「詩音ちゃーん。お待たせー」
時間の流れが遅く感じる中でただひたすらに待っていると遂に待ち望んだヒトの声が聞こえた。ふと視線を向けると家の奥から飛鳥さんが走って来る。
この日ようやく見知ったヒトの顔を見た私は知らぬ間に止まっていた呼吸を再開し、目を潤ませながら彼女の胸に飛び込んだ。
「飛鳥さ〜ん!」
「おぉ、どうしたの急に。来る途中に何か怖い目にでも遭ったの?」
「うぅ、ぐすっ」
「詩音ちゃんに怖い思いをさせる不届き者がいたとはね。探し出して」
「「御意」」
飛鳥さんに頭を撫でられて自分が醜態を晒していることに気付く。慌てて離れて取り繕うけど流石に無理があるか。
「あれ?さっきのヒト達は?」
「私の親戚だよ。ちょっと野暮用をお願いしたの」
「そうなんだ。あっ、これお土産のプリンだよ」
「わぁ、嬉しい。ありがとう」
ママ直伝のお手製プリンをお裾分けすると飛鳥さんはとても喜んでくれた。でも親戚のヒトもいるのは予想外だった。人数によっては数が足りないかもしれない。
それに結局何もされていないのに勝手に怖がったのは悪いことをしたな。次に会ったらちゃんと謝らないと。
「飛鳥さんの家、とっても広いんだね」
「無駄に広くて古いだけだよ」
「私はこういう雰囲気好きだよ。古き良き日本の家って趣があって格好良いよね」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
木材と井草の香りが心地良い日本家屋を案内される。何でも飛鳥さんの家系は代々呉服屋を営んでいて、創業千年も間近な老舗中の老舗だとか。
凄すぎて想像が難しいけれど、過去に何度もあった戦争を乗り越えて残り続けたと考えると少しは理解できたかもしれない。
「新しいヒトを雇っているらしいけど、未だに経営の要は家族と親戚が大半だからね。新米社長のお父さんには頑張ってもらわないと」
「それってもしかして」
「あっ、お爺ちゃんはまだ生きているよ。元気過ぎて鬱陶しいくらい」
「なんだ良かった」
「わんわん!」
縁側を歩きながら広大な庭園を案内されていたそのとき、その中を自由に駆け回る生き物が1匹。小麦色と白の毛色のコントラストが愛くるしい柴犬だ。
「犬だ!」
「あの子がウチの先住犬。きなこっていうの」
「きなこ君」
「よくオスだって分かったね」
「話し方からそうかなぁと思って」
尚、きなこ君は自由に走っていた訳ではなく、手入れをしたばかりの庭を踏み荒らして庭師に追いかけられていただけだった。悪戯っ子なんだね。
「詩音ちゃんから預かった仔猫は離れ屋で様子を見ているんだ」
「離れ屋」
「うん。これだけ置いたら直ぐに行こう。きっと詩音ちゃんに会えるのを楽しみに待っているよ」
そう言って飛鳥さんはプリンを入れた紙袋を少し高く持ち上げる。確かに生ものだから早めに冷蔵庫に入れた方が良い。今は夏で傷みやすいからね。
広い日本家屋は初めての私には迷いやすい。大人しく飛鳥さんの後について行き、家の間取りを教えてもらう。
飛鳥さん家のお風呂。とても広い檜風呂だった。入ったらきっと気持ち良いだろうなぁ。
「それでここがキッチンだよー」
意気揚々と引戸に手をかける飛鳥さん。しかしその戸は開けるより先に独りでに開き、私は中にいたヒトとばったり出会ってしまった。
「あら可愛いお客さん。あなたが雲雀のお友達やね」
「ミー」
まるで飛鳥さんをそのまま大人にしたようなその女性は驚く私とは対照的に、何事もなかったかのように着物の袖を口に当てて優しく微笑む。その肩にはつぶらな瞳を真っ直ぐに向ける黒猫がくっついていた。
「初めまして。雲雀の母の秧鶏と言います。どうぞよろしゅう」
L「まさか知らない場所に1人で出かけられるようになるなんて。成長したな、詩音」
男「いたぞ不審者だ!」
L「誰が不審者だ。私は歴とした保護者だぞ」
男「他人の家の土塀の上から中を覗いている奴の言うことなんて信じられるか」
L「うっ、確かに。仕方ないがここは大人しく引こう。他所は兎に角、この家ならば心配は無用だろうしな」
男「逃すか!」
L「逃げるさ。あと十分で豚肉のセールが始まるからな。手ぶらで家に帰れば妻に合わせる顔がないのだよ!」




