EP-134 口は災いの元
ある日の平日。私は放課後にも関わらず教室の自分の席に座っていた。目の前に広げられた数枚の紙。そこに書かれた内容を何度も見比べては、たった一つの真実を突きつけられる。
頬を伝い流れる冷や汗が紙に落ち、小さな皺を作る。今は冬で室内には暖房が入っているけど、汗が流れるほど暑いはずはない。
そう、これは冷汗だ。私はいま王手を指されて投了するしか無い棋士と同じ。背水の陣どころかもう首を差し出す他に無い状況なのだ。
「しーちゃんさ、約束したよね。後期中間のときに全科目で平均点を超えたらもふもふさせてくれるって」
「はい、言いました」
「だよね。そしてこれは後期期末試験の答案用紙。ほらみて、副教科も含めてちゃーんと全部平均点超えてるよ」
「はい、超えています」
「しーちゃんが言いたい事は分かるよ。中間試験前の約束が期末試験にも有効なのはおかしい、だよね。でも私はいつの試験だったらって明言はしていないよね」
「はい、していないです」
「つ・ま・り。私は今回、合法的にしーちゃんをもふもふする権利を得た。そういう事になるよねぇ。ねぇ!」
「うっ、ううぅ」
「友達を理論攻めするんじゃない」
「へぷぅ!」
どこからともなく現れたハリセンをフルスイングして友達の後頭部を引っ叩く飛鳥さん。素材はただの紙なのに、それは爽快な音が響いた。その所作に一切の容赦無し。
「これがただの平均点超えなら笑えたんだけどね。これ、充分成績上位者じゃない?」
「私より総合点高い」
「嘘でしょ。あんたどれだけ本気で勉強したのよ」
「とんでもねぇ執念だな」
ふにゃふにゃしている狐鳴さんの頭上で答案用紙を受け渡し、それぞれが点数を確認する。分かったのは彼女の成績は猫宮さんに次いでクラス2位であるということ。学年全体では分からないけど、問題が全体的に難しくなっているのに、この点数を採れる生徒はそう居ないと思う。
平均点を超えたら。そう約束したのにまさか成績上位者に並ぶとは。というか私より成績が良い時点で私の立場がありません。
「でも狐鳴さん、事ある事に言ノ葉さんの毛繕いを手伝っているよね。それでは駄目なの?」
「サメはしーちゃんの本当の恐ろしさを知らない。しーちゃんのもふもふはヒトを駄目にするもふもふなんだよ。これを知ったら最後、もうもふもふを知る前には戻れない」
「お前、一体それに何を仕込んでいるんだ。警察に調べてもらった方が良いんじゃないか?」
別に悪いことは何もしていない。暇さえあれはお手入れをしているだけだ。故に私は無実。調べたところでふわふわな抜け毛しか出てこないよ。
狐鳴さんは尻尾を褒めてくれているのだからそれ自体は素直に嬉しい。目の前で右へ左へと振ってみると虚な瞳で手を伸ばして追っている。これは何かに取り憑かれていると言われても納得してしまうのも分かる。
「まぁ、稲穂は人一倍動物の温もりに飢えているからね。この前お昼寝中のあんこの写真を送ったら呪詛みたいなメッセージが返ってきたし」
「神に仕える巫女が友人を呪ってどうすんだ」
「一回で良いからこのもふもふに顔を埋めてごらんよ。それでもう終わりだから」
「何それ怖い」
「俺達がやったらとんでもない絵面になる」
「そうかな?女子とやった方が世間的に危ないと思うけど」
「詩音、お前は喋るな。話しがややこしくなる」
「何故に」
そう言えば私の尻尾。というか私を撫でるヒトは多いけど、顔を埋めるという大胆な行動をしたヒトは家族以外では彼女くらいだと思う。
それは忘れもしない初対面のとき。あのときは飛鳥さんもいたけど、一線を越えたのは狐鳴さんだけだ。それ以外だとノアちゃんに抱きつかれるくらいじゃないかな。
「それでどうするよ。このまま嘆きの亡霊を放置しておくのか」
「祓うなら私手伝えるよ。前に稲穂から貰ったお札があるから」
「それを本人に使うのってどうなの?」
「ノートの切れ端に書いた落書きでも効果あるのね」
「うーん、まぁ、約束をしたのは事実だから触るくらいは別に良いんだけど」
手放しで褒めてくれているのは素直に嬉しいから悪い気はしていないのは確かだ。何なら狐鳴さんは私が不快にならないように細心の注意を払っているから、撫でるのは上手い方だと思っている。
むしろこれを機に後腐れを無くした方が良い気がする。狐鳴さんが今の濁った瞳でこれからずっと私を見つめてくる方が心身に悪そうだし。
「仕方ない。ちょっとだけだよ、狐鳴さん」
「えっ、良いの?本当に迷惑ならそう言ってね。後で嫌いになったりしない?」
「今さら好感度を気にしても無駄だから。詩音ちゃんが寛大な心で許している間にお言葉に甘えちゃえ」
「ヒャッハー!しーちゃんに触っちゃうぜぇ。フヒッ、フヒヒッ」
「あっ、やっぱり無しで」
「猩々せんせー、ここに変質者がいまーす」
「ちょ!?先生を呼ぶのは無し。やられる!」
何をやられるのかはよく分からないけど、とりあえず落ち着きを取り戻してくれた狐鳴さん。後ろを向いて尻尾を差し出すと恐る恐る気配が近付いてくるのを感じる。
しかしいつまで待っていても触ってこない。達人の間合いを保ったまま様子をみている。ずっとこのままでいられる方が落ち着かないんだけどな。
試しに尻尾を揺らして獲物を引き寄せてみる。案の定、吸い寄せられるように近付く狐鳴さん。そこで素早く尻尾を振って彼女の顔面に尻尾アタックを決めてやった。私の勝ちである。
「ふへへ、私はこのために生きてきたんやでぇ」
「女子高校生にあるまじき顔を晒している」
「これがヒトを駄目にする毛玉か」
「なにおう」
「皆んなこの至高のもふもふをまだ知らないからそんなこと言えるんだよ。むしろこれを知りながら今まで耐えた私を褒めて欲しいね。一回やってみてよ。戻れなくなるから」
「何か危ないものを勧められているみたいで嫌ね」
「そんな事を言えるのも今のうちだ。おらぁ!」
そう言って狐鳴さんは修学旅行の枕投げの如く、猫宮さんの顔面に私の尻尾を叩きつける。あんまり乱暴にしないでね。
顔で受け止めた猫宮さんは怒って直ぐに引き剥がす。と思いきや、もふもふを抱いたまま動かなくなる。
少しの間、訪れる静寂。もふもふに顔を埋めた猫宮が深く息を吸い、ゆっくりと息を吐く音だけが聞こえる。
「猫宮さん、大丈夫?」
「すぅー」
「猫宮さーん」
「あっ、私のことは気にしなくて良いから。続けて」
「何を?」
心無しか空気以外の何かを吸われた気がする。そのまま好きにさせることしばらく。ようやく手を離してもらえたので振り返ると、それはそれは満足そうな笑顔の猫宮さんがいた。私はヒトに元気を与える充電器か何かなのだろうか。
「おうおうお前ら。随分と楽しそうなことをしているじゃないの」
「私達も混ぜてもらって良いかしら」
体裁を気にするナツメ君が尻尾に抱きつく代わりとして私の頭を撫でていたとき、一連のやりとりを見ていたクラスメイトが集まってきた。
どうでも良いけど態度と口調が素行の悪い輩みたいになっているのは何故なのだろう。気に触るような事をした覚えはないんだけど。
「ずるいんだよ。いつもお前らばっかり言ノ葉さんを独占しやがって。俺だってちょっとくらい触ってみたいんだよ。そのもふもふをもふもふしたいんだよ」
「しーちゃんをもふもふするだって?この変態!」
「お前には言われたくない」
「この一年間同じクラスなのにもふもふを知らないままで年を越したくないの」
確かにこれ程立派な尻尾を持ち合わせているヒトは他に居ないだろう。この毛質の良さは健康な証拠だって竜崎先生も褒めてくれたからね。
しかし年越し前にやりたいとは。私は触ると幸運になれるラッキーアイテムか何かなのかな。招き猫と同じ扱いをされるのはちょっと思うところがあるぞ。
「安心して。痛くしないから。優しくしてあげる」
「尻尾の付け根はダメだからね」
「りょうかーい」
「こうやって警戒心ゼロで自分の弱点を晒すんだよなぁ、こいつ」
こうして握手会のようでそうではない謎のイベント。ここで律儀に列を作り順番を守るのがこのクラスらしいところだよね。良介達も整列係やボディガード、マネージャー等の役割を自主的に担いそのキャラクターに準じている。
「はーい、チケット拝見しまーす」
意外だったのはあれほどご乱心していた狐鳴さんが率先して役に徹していることだ。ナツメ君から借りた眼鏡をかけて、マネージャーに扮した彼女は皆んなの試験の答案用紙を確認している。結構似合っていると思ったのは私だけでは無いと思う。
独占が無理ならせめて平均点以上なら触らせるという条件を守らせたいのだろう。適当に結んだ約束だけど、これが結構厳しい制約になっている。何せ平均点以上となると、単純に考えても半数のヒトは権利が無いということになる。
「帰れ!貴様ら愚者共に我らが御神体に触れる権利など無い」
「そんなの横暴だ!」
「主要5科目全部はあんまりだ!」
「煩い煩い!私はそれを頑張ったんだよ。全ては至高のもふもふの為にね」
自分と同じ水準の要求をする狐鳴さんと暴徒と化す他の皆んな。どこからともなく取り出した看板を掲げてブーイングの雨を降らせる。
中には数名の勇者が特攻を仕掛けたが、悉く良介に鮮やかな投げ技を決められている。さすが元柔道部。上手いヒトが投げるとあまり痛く無いと聞いたことがあるけど、床でのたうち回っている槌野君をみる限り容赦はしていないみたい。
それは兎も角、私の事を御神体と言っているのを誰も否定しないのは何故なのだろう。本物の神様に目をつけられたらどうするんだ。
しばらく私の頭上で舌戦が繰り広げられた結果、条件を満たした答案用紙の枚数に応じて触れる時間が設定されることになった。私の意志は何処へいったのだろうか。
「次の方どうぞー」
「毛の流れに逆らわないように撫でてね」
「分かった。はあぁんっ!外は程良く冷んやりしているのに、中はめちゃくちゃ温かい!これが温もりというやつなのか」
「時間でーす。次の方どうぞー」
「ふおぉ!手がどこまでも沈む!全身埋まっちゃいそう。ん、これは?」
「ぴゃあ!?」
「はい有罪!お巡りさんこのヒトです」
「違う、今のは違うんだ!弁護士を呼んでくれえぇー!」
握手会もどきの隣で行われる裁判もどき。教室が着々と混沌にのまれているのに、誰もそれを気に留めていない。もしかしておかしいのは私の方なのだろうか。
1科目だけなら平均点を超えているヒトはそれなりに居みたい。何度か撫でられて分かったけど、やっぱりヒトによって触りたい好みは違うみたい。
尻尾を撫でたいヒトがいる一方、頭の上で動く耳に興味を持つヒトもいる。女子生徒が恍惚とした表情で無言のまま頭を撫で続けていたのはちょっと怖かったよ。
「おー、本当にふわふわだ。よーしよしよし」
「わ、わふ、わふん」
中には撫でるのがとても上手いヒトもいる。もうちょっと撫でて欲しくて視線で訴えてみたけど、厳しいマネージャーに遮られてしまった。悲しい。
「ふふふっ、このもふもふに魅了されたら最後。もう二度と忘れることはできない。ある日唐突にこの感触を思い出してしーちゃんの虜になるであろう」
「詩音を危ない薬と一緒にするな」
幸せに浸る皆んなを眺めながら私は櫛で整え直す。喜んで貰えたのならまぁ、良かったよ。
最も数名のクラスメイトは権利を得られず血涙を流しているけど。この数ヶ月後、学年末試験にて皆んなの成績が軒並み上がったのはまた別の話である。
詩「なんか試験勉強をしていたときより疲れた気がする」
鮫「お疲れ様」
狼「これを皮切りにより良いもふもふは耳か尻尾か、どっちなのか論争が始まりそうで怖いな」
狐「そんなの簡単だよ。しーちゃんの尻尾は至高のもふもふ。しーちゃんの獣耳は究極のもふもふ」
鳥「そういう感じかー」
狼「詩音としてはどうなんだ?」
詩「もの凄くどうでもいい」
猫「そりゃあそうよね」




