EP-10 本性
退院をしたその日に服を買いホームセンターに寄った俺。ようやく家に帰ると、倒れるようにリビングのソファに飛び込んだ。
慣れないこの身体で長時間の移動や外出はまだ早かったらしい。精魂尽き果てて今日はもう何もする気が起きない。
「尻尾がゆらゆら揺れてる。可愛い」
「他人のお尻を見るな」
寝転がったまま文句を言うが、気にした様子も無く軽くひと撫でして通り過ぎる琴姉ぇ。言っておくけどちょっとだけなら良いとか無いからね。結構敏感だから触られるとすぐに分かるんだぞ。
恨みがましい目で冷蔵庫を漁る琴姉ぇを睨んでいたそのとき、背筋に電気が流れるような衝撃を受けた。
「もふもふキャッチ!」
「ふぎゃあ!?」
あろうことか愛音が俺の尻尾を思いっきり抱きしめたのである。下半身に力が入らない。疲労では無く物理的に起き上がれなくなった。
「わぁ、尻尾とか耳は感度が良いってよく言うけど本当にこんなになっちゃうんだね」
「分かったのならもう離して。そして二度とやるな」
俺はこれからずっとこんな弱点丸出しの姿で生活しないといけないのか。前途多難過ぎる。
「おーい、荷解きするから手伝えー」
「「はーい」」
荷解きされる大半は俺の私物になるらしい。自分があれらを使うなんて未だに想像できないな。
3人で作業をしているのは母さんが夕食の準備に取り掛かっているからだ。ああ見えて母さんは料理が上手い。久しぶりに食べられるからちょっと楽しみだ。
腰が抜けた体を捩ってソファに座る。何も変わっていないけど目線の高さが違うから新鮮に見える。ただ、1つだけ明確に違うことに気付いた。
「父さん、ピアノはどこにあるの?」
部屋の隅に置かれていて、四六時中触っていた電子ピアノ。使い過ぎが原因か、鍵盤のいくつかは叩いてももう音が出ず、触れなくなってから何年も経つ。
それでも自然と目が向いてしまうその存在は忽然と姿を消していた。何も無いその空間は俺にとって違和感以外の何者でもない。
「あのピアノな。実は前々から修理を依頼しててな。お前が事故に遭ったあの日に業者の人が来て丁度引き取ってもらったんだ。あと十日もすれば戻ってくるぞ」
「そっかぁ」
戻って来ると聞いて一安心する。直ったところでまた触るとは限らないけど、あれは俺の運命を大きく変えた大切なものなのだ。
別に特別高価なものではないし部屋を圧迫する荷物だとしても、処分すればその喪失感はとても大きい。そのくらいたくさんの思い出が込められたものだ。
ふと右手に視線を落とす。以前より小さくて力も弱い手だ。けれど指を動かしても強張らず痺れも無い。今ならあの頃のように弾けるのだろうか。
いや、難しいか。4年くらいまともに弾いてないし。
「このピンク茶碗は誰が使うの?」
「あなたよ」
「この短い箸は誰が使うの?」
「しーにぃだよ」
回復してきたところで3人の手伝いを始めると母さん達の趣味全開の雑貨が出るわ出るわ。どれもこれも女性向けのもので俺の趣味とは全く違うけど、デザインや機能性が良いものばかりで無碍にもできない。
多分だけど今まで俺が使っていたものより高い。それだけは気に食わないな。
「既に買った以上は使うけど、やっぱり早過ぎるよ。前のやつだってまだ使えるし、食器なんてそう簡単に壊れないよ」
「それは大丈夫。お前が使っていたものの大半はもう処分したから」
「何してくれてるの?」
「部屋の壁紙も貼り替えたぞ。ベッドも新調したからな」
「何してくれてるの!?」
「紫音が可愛い女の子になって嬉しいって張り切ったんだよ。母さんが」
「かあさーん!」
事故に遭った俺を1番近くで支えてくれたのに、家では誰よりもはしゃいで好き勝手やっていたのかあの人。時々自制が効かなくなる愛音の悪癖は母親譲りだったとは。
「母さんのところに行ってくる」
これは流石に文句を行っても良いレベルだろう。俺に了承も得ず勝手に処分するなんてあんまりだ。
「了解を得ていれば許してあげるのね、紫音」
「キッチンに行くならその箸と茶碗も持って行ってくれ」
「分かった」
茶碗包む梱包材に戻して箱に戻す。それを手に俺は母さんがいるキッチンに向かう。待ってろ母さん。今こそ善人ぶった猫の皮を剥いでやる。
「怒っているのに手伝いをしてくれるのがな。あいつが紫音だっていう何よりの証拠だよな」
「しーにぃ、茶碗を割らないようにゆっくり廊下を歩いてる」
「捻くれて無愛想だけど根は素直で良い奴だから」
「昨今、養殖系性格天然女が蔓延る世の中なのに、あの子は本物の天然ちゃんよ。その希少さはもう絶滅危惧種を超えているわ」
「「同意」」
これが言ノ葉一家の日常。性別が変わる前から紫音が愛でられるのは変わらない。
ただし、今後は更に皆んな過保護になることだろう。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「母さん。父さんから聞いたんだけど、俺の私物を処分したって本当なの?」
持って来た茶碗を食器棚に片付けて母さんを問い詰める。母さんは目を丸くして観念したように言う。
「茶碗は1つ下のところに入れて頂戴」
「こっち?」
「そうそこ」
「って話しを逸らさないでよ。どうして捨てたのさ」
「男の頃に使っていたやつは今のあなたには使いづらいわよ。形も大きさも見た目も自分に合ったものにしないと」
「見た目は関係無いと思うけど」
「それは母さんの趣味よ」
「開き直った!」
本音と建前を使い分けず全てをありのままに曝け出したよこの人。ここまで堂々とされたら何も言えない。
「それに文句があるのなら自分の目で見て買えば良かったのよ。恥ずかしがって買い物を母さんに任せた自分を恨みなさい」
「挙句の果てに責任転嫁!?」
どこぞの有名なテーマパークならまだしも何の変哲も無い街中で耳と尻尾があったら絶対に白い目で見られるよ。それに臆さない図太さなんて俺は持ち合わせていない。
「そんなことよりも紫音。あなたに言わなければならないことがあるの」
他人の私物の大半を黙って処分したことの謝罪をそんなこと扱いしてでも優先するべき会話があるのなら是非とも聞かせて欲しいな。
「今後お母さんのことはママと言いなさい」
「優先順位最底辺の話題」
「この条件が飲めないのなら壊れたスマホは自腹で買いなさい。月々の使用料金も自分で出すのよ」
「お、鬼だ」
現代人の必需品を人質?にするとはなんて狡猾な母なんだ。そんなことされたら毎月のお小遣いが差引ゼロになる。場合によっては赤字になるかもしれない。
高校生になればアルバイトはできる。でもこの身体でやるのは嫌だ。絶対に嫌だ。
「分かったよ。でも間違えたからって怒らないでよ」
「それで充分よ。折角だからお父さんのこともパパって呼んであげたらどう?」
「それ俺に何の得があるのさ」
「お父さんのことだから、喜び過ぎて何でもお願いを聞いてくれるようになるかも」
母さんは間違えるとペナルティを受けて、父さんは言う度にボーナスが得られるということか。何だそのシステム。
「それと自分のことを俺と言うのは禁止。私と言いなさい」
「えぇー」
「1回間違える度に一週間お米とパンとうどんとパスタを豆腐に変えるから」
「糖質制限!?」
ママ呼びすることと比べてペナルティがつら過ぎる。豆腐にカレーをかけるなんて嫌だ。普通にお米で食べさせてくれ。
「自分の名前でも良いわよ。紫音も夕食の準備を手伝うよ。なんてね」
「私でお願いします」
母さん。もといママとの舌戦で重要なのは早めにこちらが折れて少しでも傷が浅く済む妥協点を探ることだ。勝ち目なんて始めからありはしないのだから。
ちなみにこの言葉は父さん、パパの受け売りだ。過去に何があったのかは敢えて聞いていない。
「ほらお父さん達を呼んできて。お豆腐カレーにならないように気を付けてね」
「それ今から始めるのか。嫌だなぁ」
ちなみにこの後の夕食で無理して口調を直しているのを琴姉ぇと愛音にもの凄く笑われた。何で俺だけ変えないといけないんだ。解せぬ。
紫「パパー、ご飯できたってさー」
父「紫音!?いま父さんのことをパパと言ったのかい!」
紫「うん。母さん、じゃなくてママがこれからそうしろって」
父「そうか。ところで紫音は何か欲しいものはないか?パパが何でも買ってあげるよ」
紫「言わない方が良かったかもしれない」
父「遠慮はいらないよ。さぁ!」
紫「グランドピアノ」
父「ぐうぅ!」