序章-1 紫音
しんしんと雪が降る曇天の空を見上げる俺はマフラー越しに白い吐息を漏らして見慣れた通学路を歩く。
学生服のポケットに手を突っ込み、すっかり葉が落ちた街路樹の下を潜る。こんなことなら手袋も付けてくれば良かったと後悔する。
ふとスマホのバイブレーションが鳴る。母さんから使いの連絡だろうか。
取り出そうとして手が滑り、舗装された道に派手に落とした。最悪だ。
左手で拾い上げて無事であることを確認して、メッセージを読む。予想通りの内容で億劫になりながらも、俺は来た道を引き返した。
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用件を済ませた頃には空は夜の帷に包まれていた。夜と言うにはまだ早いのだが、冬の日の短さを実感させられる。
あまり遅くなる訳には行かないから人気の無い近道を行く。とは言えそれで帰る時間が早くなることは無い。この道を通るときには必ずやるルーティンがある。
長い石階段を登り荒んだ呼吸を整えつつ、そこに構える寂れた神社の鳥居を潜る。
いや、神社と言うほど仰々しいものでは無いか。人一人が屈んで潜れるほどの色褪せた小さな鳥居に御神体が納められただけの小さくて古い社。本当に中身があるのかも分からないほどボロボロだ。
俺はエコバッグを漁り缶詰を取り出す。人間様が食うものでは無い。たが間違えて買った訳でも無い。
缶詰を開けて社に供える。程なくして缶が転がる音がした。
目を開けると白い毛玉が缶詰に鼻を突っ込んで中身を貪っている。
「本当に良い度胸をしているな、イノリは」
毛玉の正体は小型の野良犬だ。白いといったものの、正確には耳や尻尾の先にかけて瑠璃色のグラデーションになっている。綺麗な毛並みだが、顔がベトベトで全部台無しだ。
食欲旺盛な泥棒であるが、元々こいつのために買ったものだから構いはしない。翡翠色のつぶらな瞳をこちらに向けるイノリの顔に付いた汚れをハンカチで拭ってやる。
ちなみに「イノリ」とは俺が勝手にこの野良犬に付けた名前だ。さっきのようにこの社で祈っているときに出会ったからそう呼んでいる。名前、無いと不便だからな。
汚れを取るついでに少しだけその毛並みを堪能して、俺は社を後にする。帰りが遅くなって母さんを心配させる訳にはいかないから。
見送りのつもりなのか、俺の背中に向かってイノリは鳴いた。月明かりに照らされて、夜風に毛を靡かせるその姿はどこか幻想かつ神秘的であった。
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翌朝、自宅のベッドで目を覚ました俺は何気無しにスマホを手に取る。休日の割には早い時間だ。
家は家族それぞれの部屋が二階にあり、リビングや皆んなが集まるところは一階にある。だから顔を洗うためには階段を降りて洗面所に行かなければならない。
凍りそうなほどの冷水が目を覚まさせる。頭は、別にいいか。誰かに会う予定も無い。
掃除機の音がする中、自室に戻りクローゼットを開けて着替えを済ませる。中身は白ベースのシャツが数着と黒と紺のズボンが二つ。ベルトは一つしか無い。上に着る防寒着はそれなりに上質だがそれ故に変わりは無い。
まぁ、服装に興味の無い男子中学生の私服なんてこんなものだ。他は制服があれば十分。
変わり映えのしない格好にマフラーと昨日忘れた手袋を脇に挟み、スマホを手に取り時間を見る。
寝る前に充電していたはずなのだが、上手くできていなかったのかバッテリーの残量が少ない。でも遠くに出かける訳では無いから何とかなるだろう。帰った後にまた充電すれば良い話だ。
「紫音、出かけるの?」
電気ケトルでお湯を沸かし、即席のお茶を淹れて飲んでいると声をかけられた。視線を下げるとエプロン姿の母さんがいた。
二階で掃除機がけがおわったのなら持っているはずなのに今は手ぶらだ。わざわざ中断して来てくれたのか。
「どこに行くの?」
「どこでもいいだろ」
「そう」
自分でも無愛想な息子だと思う。この世にいる子どもを親孝行者か否かで二分すれば、俺は間違い無く後者だな。
そう分かっていても直すつもりは無い。直し方も分からない。
お茶を飲み干して出かけようとしたそのとき、ふとそれが視界に入った。
部屋の隅に置かれた電子ピアノ。俺が生まれるより前から我が家にあるらしいそれはすっかり壁の背景に溶け込んでいる。
あるときもっと立派なものに新調してからお役御免となったと言うのに、下取りに出すのを忘れて以来ずっとこの定位置にある。
何気無く指先で触るが埃は付かなかった。掃除だけは母さんがやってくれているようだ。果たして今も音は出るのだろうか。
「…っ」
ふと右腕に鈍い痛みが走る。ピアノから手を離すとそれは引いたものの、筋肉と指先の僅かな痺れだけが残る。
違和感が無いと言えば嘘になるが、日常生活には何ら支障は無いから特に問題は無い。それに五年も続けばさすがに慣れる。
「夕飯までには帰るから」
「えぇ、分かったわ。行ってらっしゃい」
俺の心情を察しているのか。母さんはそれ以外深くは聞かなかった。
そんな母さんの対応に心の内で感謝を述べて俺は出かけるときの定型文をオウム返しをして外へ出る。
昨日の雪がそのまま降り続いていたのか。雪化粧を施した町の景色はいつもと違い新鮮に見える。
敢えて足跡が付いていない地面を踏み歩いた痕跡を残す。たったそれだけの行為なのに不思議と気持ちが高揚してしまう。
綻ぶ口元をマフラーで隠し、地元の人間しか通らないような細道に入る。昨日も通った道。行き先は言わずもがなだ。
石階段を登り火照る身体には冬の冷たい風が丁度良く感じる。息が整うまで静かに待ち、しばらくして上着に忍ばせた缶詰を取り出す。
「イノリ?」
開けた缶詰を供えて手を合わせるが、例の毛玉の姿が無い。いつもはそれこそ昨日のように参拝も待たずに飛びつくのだが。
まぁ、別に良い。相手は何を考えているかも分からない野良犬。この寂れた社で会うから根城にはしているのだろうが、だからと言って四六時中いるものでも無い。
近くに来れば匂いに釣られて寄って来るはずだ。そうしたらまた口の周りを汚すだろうから不便な前脚に代わってまた拭き取ってやろう。
そのときあいつの毛並みに触るくらい許されるだろう。ささやかな報酬だ。
マフラー越しに空に帰る白い吐息。を漠然と眺める。今日は休日。時間はいくらでもある。
しかしこの日、俺はあの白い毛玉に会うことはできなかった。
毛玉の名前は「イノリ」だからな。「イナリ」じゃねぇぞ。