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一般向けのエッセイ

シオランと歴史の終わり


 気晴らしにエッセイを書こうと思います。

 

 最近、ルーマニア出身の哲学者シオランを読んでいますが、シオランは面白いですね。前から好きでしたが、真面目に読むと「大」哲学者なんじゃないかと思います。シオランなんかはこれからもっと読まれていく人だろうと思います。メタルギアソリッドで引用されて多少名が知られたようですが。

 

 僕は今「歴史」について考えています。歴史の重みというか、バカバカしさを物凄く感じています。今は歴史ブームと言ってもいいでしょうが、単純に歴史が流行るのは年配の人が多いからでしょうね。抽象的思考みたいなのは若者向けで、年を取るとそういうのはどうでもよくなって過去に目が向く。未来がなくなるから過去に目が向くので、過去と自分を接続するものとして考え、大きな流れの中に身を置いて来るべき死から自分の精神を防護したい。年を取ると保守主義になるのは自然な流れだと思います。

 

 僕が歴史について考えるのは、世の中の雰囲気や方向性が知らずに変化しているのに、それに大して違和感を言う事も、疑問を呈するのも許されないという空気を感じているからです。偉そうに聞こえるかもしれませんが、何故世の多くの人はこんなにものを考えないのか。それが不思議なのですが、逆に言うと、世の多くの人はまさに考えないという事によって彼らの健全さを作っているのだと思います。ただ、こんな風にも言えると思います。世の多くの人の健全さは健全さ故に病気であり、意識という病に取り憑かれた人間は病的である故に健全である。キルケゴールは人間社会に現れた病巣なのか、それとも周囲の人々よりも一段優れた存在なのか。そういう事は一義的には決められない。

 

 今、僕が感じている空気は極めて閉塞的なものです。しかしポジティブに考えれば(なんだってポジティブに考えられますが)、それ故に、歴史とか社会とかいう大きなものが極めて身近なものに、実在として感じられるようになってきました。歴史における虐殺はただの記号だったのですが、今は他人事ではない。これからもっと他人事ではなくなるでしょう。

 

 僕が感じるのは「内部」においてはあらゆるものは合理化される為にいかなる答えも問いも見いだせないという事です。理屈はこんな風になっています。誰かが殴られます。彼は「殴られてよかった。これには意味があります」と言います。逆に彼が殴られなければ「殴られなくてよかった。ひどい目にあわなくてよかった」と言います。理屈は後から出てきます。先行しているのは現実です。自分のアイデンティティに対するあらゆる理屈はそれぞれに作り出せますが、その理屈を作るには理屈抜きの自分の「生誕」がなければならない。そうして生誕してしまえば、もうひとつの流れに乗って生きる事になる。過去を惜しんでも、究極的には生まれた事に問題がある。

 

 理屈っぽい事を言いましたが、要するに、大きな川が流れるのを前にして呆然としているという感じです。歴史が右に曲がれば人は右に曲がるのを正しいとし、左に曲がれば左に曲がるのを正しいとする。「自己」とか「主体」は全く剥奪された世界に生きていながら、剥奪されているのを感じるのも、それを言い表すのも許されていない。今の純文学は生活の上っ面をなぞって抵抗したり順応したりしているように見せているにすぎない。居酒屋でどうでもいい話を聞かされている感覚です。しかしどうでもいい話以上の話というのは存在するのか。

 

 シオランなんかは歴史は終わったと見ています。人間の役割というのは終わったと感じているようです。ヨーロッパなんかは日本より進んでいる所があるから、感覚的には日本もこれからもっとそういう倦怠感が出てくるのかもしれません。色々な歴史がこれまでにあり、人類は様々なものを発明したが、それゆえに終焉に至った。そう考えてもいいでしょうが、僕はそこまで思いきれていません。希望を残しているからというわけではなく、単に迷っているだけです。

 

 しかしこれほど進歩だのテクノロジーがどうの、AIがどうのと騒がれているのを見ると「終わりだな」という気もします。何故終わりなのか、「これからAI時代が来て未来が~」という人は、僕は話したくないのでどうでもいいですが、まあ終わったと思っています。それにしても進歩思想が生まれた時に人間の終焉が始まったのではないかという気もします。進歩という思想は、時間を現在のなかで平坦にし、その軸のみで考える思想だと思っています。言ってみれば現在の、過去・未来に対する専制政治であり、過去も未来も現在の価値観に従属させ、一直線のものとしてまとめて考えてしまう。こうして過去の権利も未来の権利も奪い、絶えざるアップデートの中でくだらない些末な事にひたすらのめりこんでいく。


 僕はとある新人社会人を思い出します。彼女は真摯で真面目な人で、大学卒業後、会社に入りました。特定できないようにぼやかして書きますが…その子は真面目に大学生活をして、真面目に就活して、会社に入ったという、そんな雰囲気の人でした。実際聞いたわけではないですが、そういう感じでした。仕事に対しても真面目でした。ですが、その仕事というのは極めて単調なもので拘束時間も長い。僕はその子が日に日に疲労していくのを横で見ていました。立場が違ったので声は掛けませんでしたが、人生に疲れていくのを横から見ていました。

 

 その子は別の部署に移っていきましたが、その後どうなったかは知りません。彼女は若い女性で、若い女性にしかない(と言ってもいいでしょう)溌剌さを持っていましたが、社会の中に漂って次第に疲労していくのが見えました。多分、それは普通の情景なのでしょう。本来的に、幼い時、誰しもが持っていた魂を大人になっても持っている人は稀なのでしょう。作家というのは大人の世界に子供の頃の魂を持ち越すべき存在であると僕は思っていますが、今の中途半端なオプティミストの作家には魂は感じません。魂を失った後の廃墟、それが我々の世界であり、歴史終焉後の世界であり、一日十時間も十二時間も自分の存在とはかけ離れた作業を延々するか、部屋に籠もって自分の膝を延々見続けるしかない…そんな世界が現在なのではないか。

 

 仕事は自分にあまりにかけ離れた外的なものとなり、この外的なものに自分を疎外される事によって貨幣を得るのですが、その貨幣を使ってまた「他者性」を身に着け、自分を回復する…。もちろん、この回復された自分も他人で、人間は現在では生まれた瞬間から他者として生きる。それが普通であるが為に疑義を呈する事もできない。

 

 シオランやカフカ、ペソアといった人はそういうものに直感的に気づいて予告したり描いたりしたんじゃないかと思いますが、どうでしょう。良き時代が過ぎ去った後も、過去を惜しむ人はいましたが、それは時代に対するブレーキにはならなかった。今は歴史が僕達を踏み潰すのを感じながら、運命に抵抗できない己を感じるしかないのか。

 

 まあ、僕はそんな事を考えていますが、それは僕の考えにすぎない。僕はもう何も考えていないし、何も感じていないという感じが強いです。世の中に望むものももうあまりない。それは君がろくでもない人間だからだ…というのならばそれを受け入れます。しかし人は自分の運命を選べるのか。自由意志というのはかくも脆弱ですが、全ては必然だというのも人間の勝手な思考に過ぎない。

 

 今は魂の上を過ぎ去っていく巨大な生物の存在を感じています。僕はその全体像すら掴む事ができない。僕はこの生物に踏み潰されて死ぬのでしょうが、誰しもが同じような運命をたどるという意味でその「嘆き」は他人の共感を呼ぶかもしれない。結局、文学というのは「嘆き」、あるいはせいぜい「祈り」であると思います。人生をコントロール可能と考えているところに文学は生まれない。文学は生を俯瞰で見下ろした時、その不可能性を発見したものが発する聖性の祈りである。…ま、そんな与太話をしてこの話は終わりにします。ご清聴ありがとうございました…といってもそんなに大したエッセイではない、ただの「気晴らし」にすぎないですが。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 殴られたらノックアウトするそんな野性的な若者いないですね?なんか日本人弱いな
[良い点] 陽の下、新しきは無し。ミシンが発明された時代に、仕事を奪われるとお針子さんたちがミシンを壊したそうですが、縫製業に携わる人間はいなくならない、とか、前半を読んで思いました。 しかし、そんな…
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