第9話
階下に下りて104号室のインターフォンを鳴らすと草臥れたタンクトップに半ズボンの偏屈そうな老人がドア越しに顔を覗かせた。
眉間にこれでもかと皺を寄せて無言で二人をじとりと睨み付ける。
隣人の女性とのやり取りを見ていた佐倉が話し手を買って出てくれたが、老人の様子に不安を覚える。
しかし、この場は佐倉に任せて下手な事は言わないでおこうと思い直し、彼の一歩後ろに控える事にした。
「おはようございます。朝早くから申し訳ありません。実は、友人の紹介で妹がこちらの物件に越してくる事を検討しているのでご挨拶に参りました」
「妹···?」
佐倉の口から出任せに目を剥いたが、それよりも無言だった老人から初めて発せられた言葉が、ひどく掠れていた事に驚く。
「はい。前々から一人暮らしがしたいと申しておりまして、何分まだ若い身ですから住民の皆様にご迷惑をお掛けしてはいけないと思いまして···」
ニコニコと言葉を続けて間を作る。
相手の出方を伺っていると、少しの間の沈黙の後に老人は再び口を開く。
「辞めておきなさいよ、若い女が住む場所じゃない」
頭を振ると老人は溜め息を吐いた。
確かに若い女性が好むような綺麗なエントランスがある訳でもオートロックがある訳でもないが、周囲の治安も悪くはないし、大通りから一本筋に入ったくらいの場所なので、其処まで大袈裟に止めるような物件でもない。
それでも、譲らないとばかりに「女は辞めた方がいい」という一点張りに疑問ばかりが浮かび、つい祐介は口を出してしまった。
「女の人に何か不便があるんですか?」
老人は佐倉から祐介に視線を移すと、真っ暗な瞳で告げた。
「女は殺されるんだよ」
鬼の形相で「女は辞めておけ」と壊れたロボットの様に同じ事ばかり繰り返しブツブツと呟く。
佐倉は「妹に忠告しておきますね」とだけ告げると、老人はピタリと動きを止め「そうしなさい」と静かに扉を閉ざした。
アパートが見えない位置まで歩くと住まう者としての何とも言えない本音が口からポロリと溢れ落ちる。
「あのアパートヤバくない?」
「気付くの遅いな。今更だろ」
早朝から踏んだり蹴ったりだと祐介は背中を丸めて佐倉と共に駅の方向を目指す。