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ベッドに押し付けられた体勢で、亮明は美羽の髪を撫でる。
「水魚の交わりには『ないと困るもの』というのと別の意味があって……」
「美羽、無事か?」
亮明の声にかぶさるように聞こえた声と共に、美羽の部屋の扉が大きな音を立てて開いた。
同時に見えた姿に、美羽が声を上げる。
「あ、お母さん!」
母親の帰還に驚いたのか、固まったままの亮明を押しのけ、美羽は母親を迎え入れた。
「おお、美羽! 我が愛しき娘よ! 無事か? 心配したぞ!」
そのまま美羽を抱きしめ、頬にキスをする母親に美羽はくすぐったさを感じる。
「心配かけてすまない。それに面倒なことを起こしてごめんなさい」
「そんなことはいいんだよ。なによりお前が無事でよかったよ。さ、色々事情聴取とかで疲れただろう? 家に帰ろう。なんなら何か食べて帰ろうか」
背中を押す様子の、母親の行動に美羽は戸惑った。
「それは嬉しいけど、お母さん、仕事はいいの?」
「うん、残ってたけど、今日中に終わりそうになかったから、元士と龍子にまかせてきた」
「え、終わらないって……。鳳雛さんと雲趙さんにって、大丈夫なの?」
「うんうん、大丈夫だ。うちのは有能なやつが多いからね。それに、我が子が怖い思いをした後なのにのんきに、残業なんてしている場合じゃないよ」
グリグリと母親からの頬ずりにくすぐったさを覚える美羽の後ろ、亮明のげんなりとした声が聞こえる。
「……相変わらず人使いの荒い」
「それに働いてもいない分際のどっかの輩から、大事な娘を守らなければならないからね。まったく、場所をわきまえて盛っても欲しいものだ」
母親からの釘刺しに、背後で亮明がぐっと詰まっているのに気づかない美羽は首を傾げる。
「? 何の話をしてるんだ?」
「なんでもないよ。それより、美羽は荷物を取っておいで。証拠品としての見聞は済ませているから、窓口に行ったら受け取れるよ。受け取ったら、スリーサムズによって帰ろう」
「え? スリーサムズ?」
スリーサムズは警察署の近くにあるケーキ屋で、そこのケーキは美羽の大のお気に入りだった。
「嬉しい! ありがとう。お母さん。じゃあ早速荷物受け取ってくる!」
飛び上がった美羽は母親にもう一度抱きつくと、そのまま部屋から出ていった。
その姿が、扉の奥に消え、扉が閉められた音が響く。
そして、医務室に亮明と母親が残った。
母親は美羽を見送った姿勢のまま背中越しに息子に声をかけた。
「水魚の交わり。あの時確かに、私は関羽たちの誤解を解こうとそんな風に、お前との仲を称したな、孔明」
振り返った母親の顔はかつての主君の物を思わせる。亮明はため息をついた。
「ひざまずいて、礼を取ることをお望みですか? 我が殿」
母親の葛原備子は、蜀の初代漢中王、劉備の生まれ変わりだ。
そして亮明は蜀の名軍師として今なお語り継がれる諸葛亮孔明だった。
「いや、別に必要ないな。万一、下手な場面を美羽に見られては厄介だ」
備子の言葉に「確かに」と亮明は無言で頷いた。
彼らはそれぞれに、美羽と同じく今の世に生まれ変わる記憶を持っていたが、それを美羽に知らせてはいなかった。
というのも、過去を思い出すのが比較的遅かった劉備と蘇った記憶に冷静に対処できた孔明と違い、彼らが出会ったときの美羽は前世の記憶と現在の立場の違いの落差にあまりに自分で折り合いをつけることが出来ず、混乱をきたしていた。
このうえ、かつての主君と同僚の存在が彼女の意識にどのような影響をもたらすのかわからなかった。
そのため、これ以上の混乱を与えない様に、彼らは自分たちの存在を彼女に伝えることはなかった。
「まさか、かつての主君の息子になるとは」
「あははは、主従は三世だ。縁が深きは、親子や夫婦に長ける。次の世も何らかの関係があるかもな」
故事を例にあげ、きれいに巻いた髪を跳ね上げ、カラカラと笑うかつての主君に、亮明はげんなりする。
「あなたのような人使いの荒い人はできれば、三度目はご免被りたいですね」
「そういうな。これでも一人息子として、それなりに愛しているんだぞ?」
そう言いながら、備子は亮明に抱きついてこようとする。
その動きを察知して、亮明はベッドから飛び退いた。
「いつまでも子どもじゃないんですから」
「そうだな。子どもじゃないもんな。水魚の交わりだもんな」
「う……」
「水魚の交わりは古代中国における『夫婦』や『恋人』の隠語。美羽に恋人扱いされて嬉しかったかな、亮明君?」
意地悪な笑みを浮かべる母親に血の気が引いた。
「どこから見てたんですか?」
「さて、どこからだろうね」
笑みを浮かべる備子はベッドの上に腰掛け、組んだ足の上に肘を乗せている。
その様子は怪しい魅力に満ちている。
かつて、男であったときも、人をたらしこみ、使う術にだけは右に出る者がいない人だった。
「私はね。別にお前が美羽を思うことは別に邪魔はしないよ。お前たちに血の繋がりはないからね」
美羽は葛原家の養女で、備子の娘ではない。
亮明との間に血の繋がりなかった。
「だが、順番は間違えるなよ。あの娘は今世で辛い思いをしすぎている」
美羽は本当の親に捨てられていた。
美羽の母親は未婚で美羽を産んでいた。
彼女は、関羽の記憶に振り回される娘を支えきれなかった。
彼女は娘のことを相談していた精神科医に彼女を預け、姿をくらました。
精神科医は備子の夫で、彼女の境遇を哀れに思った夫が引き取ったのだ。
今でこそ、随分明るくなっていたが、幼いころの美羽は本当に見ていられないほど情緒不安定な子どもだった。
備子は胸ポケとからタバコを取り出すと、それを口に運ぶと、ライターを探すように探していたようだが、なかったのか諦めたように、タバコを手にして、髪をかきあげた。
「ただでさえ、前世での後悔を引きずった上に、自分が死んだ後の負い目なんて感じなくていいものまで背負っちまってる」
劉備が死んだのは、戦争に負けた結果であり、関羽のせいではない。
弔い合戦を行ったのだって関羽のためというより、彼を失った憤りをぶつける先が欲しかっただけで、関羽に何らか思ってほしかったわけじゃない。
少なくとも、彼の生まれ変わりである備子はそう思ってる。
だが、美羽は今の世で関羽の死後のことを知り、深い罪悪感を感じてしまっている。
そのせいで、過剰な正義感を発揮しては、危険なことに首を突っ込んでしまうようになっていた。
「私が劉備であることを美羽に伝えて、許すと言ってやることはできようけどね。でも、できれば、それはさけたいと思っている」
確かに、劉備は関羽の義兄弟であり、主君だった。死ぬ時を同じにしたいと思ったほどの大事に思っていた相手だ。
そんな相手が現世でも現れたら、美羽はどんな手を使っても忠義を尽くそうとするだろう。
しかも、美羽自身、備子には拾われた負い目がある。
「わたしはさ、お前たちには前世と関係なく幸せになって欲しいと思ってる」
それは前世での盟友というだけでなく、今世で家族として過ごしてきた時の重みを感じる言葉だった。
亮明だって、美羽には前世に関係なく、幸せになって欲しいと思っている。
今も昔も、美羽は関羽であることにこだわりすぎて、自分の幸せを蔑ろにしているところがあった。
「でもお前があの娘がほしいと思うのなら、隠し事は許さない」
それは亮明が美羽への思いに気づいたときから、備子に言われていることだ。
美羽との関係を勧めるのなら、自分の前世が誰であるのか告白しろ、と備子は亮明に要求していた。
「嘘をついたままの関係ほど、壊れやすいものはない。必ず不幸になる」
備子の言葉は理解出来る。それは正しいことだろう。
だが、亮明にはそれが良い選択とは思えなかった。
「美羽は元気になっているとは言え、精神的に不安定なところはまだある。そこに過去の関係者が出てきて、美羽の中の関羽の感情が爆発してしまったら、なにが起こるかわからない」
亮明が一番危惧しているのが、そこだった。
美羽は豪傑と歌われた関羽の体に固執しており、美羽という存在を卑下している。
それを何年もかけて、美羽は美羽のままでいいのだ、といい続けて、ようやくそれを受け入れ始めたところなのだ。
「お前の危惧は理解しているよ。だから、お前はいつでも、美羽の周りに他の転生者が現れないように注意を払っている」
関羽だけでなく、自分や劉備の転生者がいるならば、他の同時代の英傑が転生をして近くにいる可能性は否定できない。
亮明がもっとも危惧しているのは、そう言った相手が美羽に接触して、彼女の中の関羽を混乱させてしまうことだ。
ようやく安定し始めた美羽という人格だ。
それを、全くの赤の他人に台無しにされてはたまらない。
そのために、彼女が通う学校や、休日の行き先、付き合う友達まで、念入りにチェックし、関係者でないことを確かめ、少しでも怪しい人物は美羽に気づかれないように排除してきた。
「我が息子ながら、お前も変質的だね。美羽が通う学校、お前がそれとなく誘導して選ばせたんだろ? ちゃっかり自分も同じ学校だし」
備子の言うとおり、この春から美羽と亮明は同じ高校に通うことになっていた。
美羽と亮明の年齢差は数ヶ月で、同じ学年だった。
「なんでも先回りして守るだけが、相手のためとも限らないとは思うけどねえ」
だとしても、今はまだ、期ではない。
それだけは確かであり、備子の無責任な言葉に亮明が視線だけで抗議すると、意を組んだように、肩をすくめてみせた。
「ま。まだ美羽の手を離す時期ではないのは理解するよ。だからこそ、お前も美羽との距離感を間違えるなって話だ」
にやりと笑われ、先程感情に流されかけた自覚があるだけに亮明は視線をそむけた。
そんな亮明に備子は笑い声をあげた。「いやあ、生まれ変わりというのは案外楽しいものだな。お前がこんな小さい男だったなんて。前の生ではわからなか……ん?」
楽しそうな母親の声が途中で途切れた。
からかわれて苦虫を噛み潰したような表情になっていた亮明が怪訝そうな視線を向ける。
「どうかしましたか?」
「いや……なんだ。気のせいかな?」
そのまま立ち上がり、扉を覗き込んでいる。
その行動が気になって、亮明も廊下を覗くが、誰もいなかった。
「誰かいたんですか?」
「いや、わからん」
「わからんって。まあ、あまり外でする話でもないですし、話はこれくらいにしましょう」
「ああ、そうだな。そろそろ美羽も戻ってくる頃合いだしな」
「確かに。では、僕も支度を整えます」
亮明がそのまま、医務室の奥に行こうとしたら、備子が「ああ、そうだ」と肩を掴んできた。
行動を邪魔されて、眉を潜めて母親を振り返ると、真面目な表情にぶつかり驚いた。
「なんですか?」
「美羽のことばかりでなく、お前もあまり背伸びして、無茶はするなよ」
「何の話? 別に僕は背伸びなんて……」
「お前は確かに聡明で冷静に今の状況を受け入れている。それでも、お前は美羽より年少なんだ」
過去の記憶を思い出すには早すぎた。
備子のそんな言葉に亮明はどう答えればいいのかわからない。
そんなことを言われても、としか思えなかった。
生まれたときから孔明としての記憶は断片的ではあったけれど、あった。
大きくなるにつれて、それが誰のもので、世界的に有名な軍師のものであると言うことを理解したけれど、それでも亮明にとって、それはあって当たり前のもので、疑問に感じたことはなかった。
「そりゃ、前世がどうだとか、この記憶がある意味とか。疑問は付きないですけれど。でもその理由なんてわかることじゃ……」
「ああ、そう言う意味じゃないんだ」
明るい口調で、思考を否定されて、思わず思考を止めた亮明に、備子が立ち上がって、その頭に手を乗せた。
「お前も美羽と同じくらい大事な私のかわいい子どもだってことだ。お前たちのことは信じてるし、いつでも頼ってこいってだけのことだよ。お前は一人で抱え込みすぎる」
そのまま力任せに髪を乱され、子供扱いに少し反発心が生まるが、払いのける気にはならなかった。
本当に、今も昔も、人をたらしこむのに長けた人だと思う。
自覚なく、人が一番欲しいと思ってる言葉を与えるのだから。
かつての自分、孔明は田舎でくすぶり、同門の兄弟弟子が功績を立てる中、内心の焦りを隠し、隠遁生活をしていた。
特別な功績などなかった自分を信じ、引き立ててくれたかつての主君。
母親となった彼女がいたからこそ、きっと亮明は美羽のような不安にさいなまれること無く、今というときを生きていられる。
だがそれを素直に言うのは恥ずかしい気がして、亮明は視線を落とした。
「わかっていますよ。まだ未成年の僕じゃ出来ないことも多いし、頼りにさせてもらいます」
「ああ、わかった。とはいっても、頼ってきたときに動くのは私じゃないけどな」
あっさり、実働を投げた母親だ。
彼女の下には彼女のためなら動く有能な人間が多く揃っている。
その辺の人徳も母親の能力だと思っているから、そこはあえて突っ込まなかった。
とはいえ、蜀時代の事を思い出すと、現代でまでもこの人の下では働きたくないと思う亮明である。
「昔ならともかく、あんまり現代で部下をこき使うと、ブラックとか言われて訴えられますよ」
「まさか。そんなことになるわけ無いだろ。部下の管理はちゃんとするようにしてるからな。……寝首をかくやつとか、敵に寝返るやつとか。そんな連中がでないように、な」
どこか暗い瞳で笑う母親の表情に亮明はゾクッと背筋が寒くなった。
劉備の弟分であった二人の武将は味方の裏切りで戦死、味方に寝首をかかれて殺された。
その辺の事を思い出しているのかもしれない。
「まあ、恨まれない程度に程々にしておいてくださいね」
「その辺は心得ているよ。あ、そういえば、部下の件で思い出したんだが。美羽が助けた誘拐事件の被害者のことだが……」
珍しく、歯切れの悪い、母親の態度を不信に思う。
「僕は直接、お会いしていませんが、なにか問題でも?」
「いや、私もちらっと見た程度だから、はっきりとわかったわけじゃないんだが。なんだろうな。なんか、首筋が泡立つというか、ともかく、悪寒がしたんだ」
「え? 悪寒って、お母さん、風邪でもひいたの?」
突然割って入った声に驚いて視線を向けると、そこには荷物を抱えた美羽が立っていた。
一瞬、どこから聞かれていたのか、ひやりとしたが、美羽は心配そうに備子に近づいてくる。
「だ、大丈夫? 熱ある?」
「いや、大丈夫だ。心配してくれてありがとう。美羽」
年の功というか、母親は見事に動揺を隠しきって美羽に相対している。
だが、聞かれて困る話をしていた亮明は美羽にどこまで聞かれていたのか気が気でなく、聞いてしまう。
「あの、美羽はいつからそこに……」
「そんなのさっきだけど。……もしかして私の失態を一部始終、お母さんに報告してた?」
「は?」
思わぬ誤解に亮明はうろたえてしまった。
その間に美羽の誤解は深まったようで、彼女は苦しそうにうめいた。
「いや、事実だから仕方がない」
「別にその話をしていたわけじゃ……」
「……でも、できれば、お母さんには知られたくなかったな」
寂しそうな美羽の表情に、ますます亮明はうろたえてしまう。
「えっと、いや、だから……」
「私はどんな美羽でも受け入れるぞ!」
母親が美羽に抱きつき、頬ずりを始める。その行動に美羽はびっくりしているようだが、行為自体は嬉しいのか振りほどきはしなかった。
「お母さん、くすぐったい」
「本当に無事でよかった。お前の無事が何よりだよ」
「でも私は無謀なことを……。それであっくんにもお母さんにも迷惑かけてしまって……」
「だから迷惑なんてことはないって何度も言ってるだろ? 私たちは家族だ。家族は互いを助け合うのが当然だろう?」
備子は一度美羽を離すと、その頬に手を当て、瞳を覗き込んだ。
「それに確かに危険な事をしたけれど、人を助けようとした美羽の気持ちは尊いものだ。そんな気持ちを持って育ってくれたことが私は素直に嬉しいよ」
自慢の娘だ、という母親の言葉に、驚いた顔をする美羽だが、すぐに満面の笑を浮かべた。
その様子に、少なからず嫉妬を覚えずにいられない亮明だ。
だが、美羽が自分たちの話を聞いていなかったことは素直に良かったと思った。
やはり、家ではこの手の話は自重しなくてはならないと改めて、感じる。
(だが、それにしても……)
気になるのは、先程、備子がいいかけた美羽が助けた女性のことだ。
劉備もそうだったが備子も、人を直感で捕らえるところがあり、そしてそれは非常に精度が高く、信頼性がある。
全く論理的ではないし、なんでも理詰めに考える亮明にしてみれば、非常にとらえどころが難しい話だが、注意すべきことは確かだった。
だがなんにしても、美羽のいるこの家ではあまりこの件について追求するのは危険だろう。
なにより。
「うふふ、それにしても美羽もいつの間にかこんなにおおきくなっていたんだなあ。私は嬉しいなあ」
「そりゃ、もうすぐ高校生だし」
「うふふ。久しぶりに一緒にお風呂でも入るか。どれほど成長したか、お母さんに見せてみろ」
「べ、別に変わらないぞ?」
「嫌か?」
「い、嫌じゃないけど……」
「じゃあ、家に帰ったら……」
「ちょっと、待て」
いくら現在同性であっても、聞き捨てならない母娘の会話だっただけに待ったをかけてしまったが、備子がニヤリと笑った。
「なんだ、亮明も一緒に入りたいのか?」
「え? それは流石に……」
備子の言葉を真に受けた美羽が若干引いた目でこちらを見てくるので、亮明は慌てる。
「誰が、そんなこといいましたか! もう、高校生の娘と風呂を一緒に入るのはどうなんですか?」
「別に銭湯とかなら問題ないだろう?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なんだ?」
ニヤニヤと笑う備子は完全にこっちをおちょくっているのがわかってはいたが、美羽の事を好きだという気持ちを簡単に口にできない亮明は睨むことしかできなかった。
「ま、いいや。じゃあ今度温泉にでも行こう。家族旅行~」
「え、ほんとに?」
「もちろんだ。どこに行こうか。スリーサムズで食べながら、話そう」
そう言って連れ立って、部屋を出て行く二人を唖然として明宏は見送ってしまった。
果たして、家族旅行で、二人の入浴を許していいのだろうか。
備子は今世では女だが、前世では男だ。
……て関羽も前世では男だったから、結局同性同士ということで問題ないのだろうか。
「いや、だがそれはそれで、問題があるような?」
思わずつぶやいていると、部屋の外から声がかかる。
「おい、亮明。早くこい。店が閉まってしまうぞ」
母親の声に、亮明は慌てて荷物を求めて部屋の奥へ急ぐ。
身支度を整えて、部屋を出ると廊下で、美羽と備子が話しているのが聞こえた。
「あのお母さん。私の荷物なんだが」
「何か足りないものがあったか?」
「うん。高校のパンフレットがないんだ」
パンフレットと言われて亮明が思い出したのは四月から通う予定になっている高校のものだ。
今日は本来、亮明と一緒に登校経路の下調べを含めて、下見に行く予定にしていたのである。
「そうか、事件の際、落としてしまったのかもしれないな。だが、パンフレットなんてまた貰えばいいから、落ち込むな」
「うん。でも、本当にゴメンな、あっくんも」
突然話を振られて驚いた。
「今日の予定を潰してしまったから」
「別に今日じゃなくても良かったから。また仕切り直しましょう?」
「うん、二人共ありがとう。私は本当によい家族を持てて果報者だ」
満面の笑みを浮かべる美羽に、亮明は複雑な顔になる。
「これは牽制とみていいのだろうか、と悩む亮明であった」
「人の心を勝手にアテレコしないでもらえます?」
じろりと睨むと、備子が美羽のもとに逃げていく。
そのまま抱きついて、小柄な美羽を振り回すのを、美羽は無茶苦茶にされながらも嬉しそうにしていた。
その光景を見ながら、まあ、この関係はこの関係で心地よいと思う亮明だった。
美羽の心が壊れないように。
あと数年はこの状態が続くことを願いながら、亮明は二人を追って、足を踏み出した。




