【13】ピンチなんです。
もう、朝に彼の姿を見る事は無かった。
ほとんど毎朝見かけて、その度に声をかけたツカサの姿は無い。
二軒隣だ。
少し早く家の前に立って、彼の出かける姿を待ち伏せするのは簡単だ。
しかし、サツキはそれをしようとは思わなかった。
藤木がツカサに言ったサツキの事は訂正され、誤解は解けた。
しかし、だからといって二人の仲が急に進展する物でもない。
サツキがツカサの頬を叩いた事実は変わらないし、ツカサが彼女に酷い事を言ったのも事実なのだ。
誤解が解消されても、時間が戻るわけではない。
再び二人が微妙な距離に戻るキッカケは無く、時間だけが過ぎていった。
遠くの人が近づいて来たり、近くにいた人が遠くへ行ってしまったり。
大人になるという事はきっと、そう言う事の繰り返しなのかも知れないとサツキは思った。
乾燥した大氣を潤すような春雨が、2日前から降り続いていた。
今朝は久しぶりに陽が射し込んで、家の近所に植えられた青々と葉の茂った桜から零れ日が注いでいた。
それでも午後には再び厚い雲が頭上を埋め尽くして雨が降り出し、黒々とアスファルトを色づける。
「ツカサ、お前あれから如月と話ししたか?」
「してねぇよ。ていうか、もともと話しなんてしてないし」
藤木とツカサの二人は校舎の階段を1階から4階へと駆け上がって、反対側の階段から再び1階まで駆け下りる。
雨の日、特例で放課後の部活でのみ廊下をランニングすることができるのだ。
「何でだよ。幼なじみなんだろ?」
藤木は階段で息を切らせながら訊いた。
「昔はな……」
「幼なじみって、ずっと幼なじみだろ?」
「そうなのか?」
ツカサはそれほど息があがっていない。
「俺に訊くなよ」
藤木が切り返すと
「俺だって知らねぇよ」
ツカサの一階まで駆け下りるペースが上がった。
藤木も負けずに走った。
一階まで下りると彼は
「じゃあ、俺はこれで上がるからさ」
そう言って立ち止まる。
「はあ? もう?」ツカサは足踏みしたまま留まって、藤木を見た。
「俺は瞬発力だけで充分だからさ」
藤木は息を整えながら軽く手を上げて「じゃあな」
ゆっくりと階段を上って行った。
ツカサは彼を視線だけで追って階段を見上げたが、独りで再び走り出した。
放課後の教室はほの暗く、影に包まれていた。
ツカサは廊下のランニングを終えて、着替える為に自分の教室へ戻って来た。
雨の日の部活はほとんど自主トレに近いから、そんな日は教室で着替える連中も多いのだ。
校庭の隅にある部室長屋に行くと、それだけで雨に打たれてしまう事になる。
帰り際、彼はサツキの教室の前を通りかかって、ふと足を止めた。
暗い教室の中に人影が見えたから。
一瞬藤木かと思ったが、彼があがってからもうずいぶん経つ。
「サツキ……?」
「待って、入らないで!」
ツカサは教室へ入ろうとして、その足を止めた。
彼女は何をやっているのか……?
「おまえ、何やってんだ?」
サツキは教卓の横で膝をついて、這いつくばるように床に顔を近づけている。他に人の気配は無かった。
「コンタクト落としちゃったぁ……」
彼女は床をジッと見つめたまま嘆くように応える。
彼との気まずさを感じる余裕も無かったようだ。
ツカサは小さく肩をすくめると、ゆっくりと教室へ足を踏み入れた
「入るぞ」そう言って教室の電気を点けてやる。
「あ、待って、こっちに来ないでよ」
彼女が慌てて振り返る。
「ソフトレンズは落ち難いんじゃないのか?」
「今、転んだら片方落ちた……」
ツカサは微かに擦りむいたサツキの膝に気付いた。
「しょうがねぇな……」
彼は再び肩をすくめると、息をついてゆっくりと屈んだ。
「こんな時間に何してたんだ?」床に目を這わせる。
「今週、週番……」
サツキはふと振り返って「なんであたしがソフトコンタクトだって知ってるの?」
「えっ? いや……お前はどうせハードコンタクトじゃ痛くてダメだったんだろ」
「な、なんでよ」
「だっておまえ、痛がりじゃん」
ツカサはそう言って直ぐ、サツキの素足を掴んだ
「待て、動くな」
「な、何。こんな所で……しかもドサクサ?」
ツカサの手の感触が、素足の脹脛にジンと熱く伝わった。
彼は空いたもう片方の手を床に当てると
「あったぜ。これだろ」
ツカサの指先には、確かにコンタクトレンズが乗っていた。
「あった。ありがとう。もう、どうしようかと思ったぁ。なくしたら半額出さなきゃスペア買えないし……でも、もうお金ないし……」
サツキがコンタクトを手にそう言っている間に、ツカサは立ち上がって教室を出ようとしていた。
「つ、ツカサ!」
「ひざ擦りむいてるぞ。じゃあな」
サツキは、廊下にしっとりと響く彼の足音をしばらく聞いていた。
それが階段の向こうへ消えるまで。
次回【14】五月雨は何色?
は、24日未明前更新予定です。