【10】屈折…
窓の外には乗車待ちのタクシーが数台停まっていた。
改札口近くの団子屋ののぼり旗が、穏やかな陽気に緩くはためいている。
サツキと冬月は、すぐ近くにある小さな喫茶店に入った。
「懐かしいなぁ」
サツキは注文を済ませると、そう言って氷の入った水を飲んだ。
「何処か行ってきたの?」冬月が訊く。
「ううん。お姉ちゃんが今日で帰ったから、見送りに」
サツキは、就職している姉が連休中に帰って来ていた事を話して聞かせた。
「そう。連休終わりだもんね」
冬月もグラスの水を少し飲んで
「そう言えば、メガネ止めたの?」
メガネが無くてもひと目で成長した教え子の顔が判るのは、さすが担任教師なのだろう。
「ええ、コンタクトに」
「そう。可愛いわ」
「でもさぁ、取り外すのが大変なんですよ」
サツキはテレ笑いを隠すように言う。
教え子の成長を見る教師の目は、温かかった。
「でも、ツカサ君が残念がるかもね」
「そんな事ないよ。アイツは何も感じないよ」
サツキは少し膨れた顔を見せた。
店員がやって来て、彼女の頼んだアイスアップルティーと冬月が頼んだアイスカプチーノがテーブルに置かれる。
冬月は白い指先でガムシロップをグラスに注ぎながら
「あら? まだツカサ君とは仲良しだったの?」
「仲良しじゃないです。全然……」
彼女の表情を眺めて、冬月は少し困惑した笑みを浮かべる。
「高校は?」
「同じ高校に通ってます」
サツキは頬を膨らませたままアップルティーのストローに口を着け
「でも、全然話してないよ」
冬月はサツキの膨れっ面を眺めながら懐かしそうに微笑むと、カプチーノにストローを挿した。
微かに氷が音を立てる。
「5年生の時、教室で乱闘があったの覚えてる?」
冬月は穏やか口調で言った。
サツキは一瞬考えて天井を見上げると
「そう言えば、一度だけ凄い喧嘩があったっけ」
「ツカサ君が3人相手に暴れて、机や椅子がみんなひっくり返って」
冬月はカプチーノを飲んで再び笑う。
今となっては微笑ましい思い出なのだ。
「凄かったよね、あれ。その場にいた女子はみんな泣いてたよ」
サツキが頷いた。
「あれ、原因が何だか覚えてる?」
冬月は、いかにも楽しそうにサツキに訊いた。
「そう言えば、ツカサはどうしてあんなに暴れてたんだろ」
壮絶な現場の記憶は在るが、その原因などは全く覚えていない。
Tシャツの袖が破れたツカサの幼い姿だけが、サツキの記憶に蘇える。
原因についての記憶が定かでないのも無理はない。ほとんどの生徒は、あの時の明確な原因を知らないのだ。
「ほら、サツキさんを教育ババアとかメガネババアとか言ってた男子がいたでしょ」
それを聞いたサツキは、咥えかけたストローから口を離す。
そうだ……ツカサが掴みかかっていたのは、確かにそんな連中だった。
「メガネの何処が悪い。そう言って掴みかかったみたいよ」
「そ、そうなの?」
「彼、案外あなたのメガネ姿が好きだったのかもね。だから、普段の彼らの態度を見かねたんじゃないかしら」
「そ、そんな……ていうか小学生でメガネ萌え?」
冬月は静かに笑ってカプチーノを飲む。
「実際あなたのメガネ姿は似合ってたし、可愛かったわよ。悪口言ってからかってた彼らも、本当はあなたのメガネ姿にキュンときてたのかもね」
「ええっ? そんなぁ……ありえないよ」
サツキは困惑した笑みを浮かべて何度も瞬きした。
「あのクラス、メガネかけてる女子は他にいなかったし」
「そう言えば、あたしだけだった」
冬月はストローでカプチーノに浮かんだ氷を玩ぶと、一瞬落とした視線を再びサツキに向けた。
「裏返しって、あるじゃない」
「裏返し……?」
「人の心ってなかなか気持ちが真っ直ぐ反射しないのよ。ほら、3角プリズムみたいに」
「プリズム……?」
サツキは理科の実験で使ったそれを思い描く事ができた。綺麗な三角柱のクリスタルだ。
冬月は続けた。
「恥ずかしさやヤキモチ。プライドや周囲の視線……色々な感情が邪魔をして、気持ちが屈折しちゃうのね、きっと」
「気持ちが屈折……」
サツキは呟いた。
心の屈折? 裏返し?
ツカサが目を合わせなくなったのは、そんな事が理由だったのだろうか……照れくさくて真っ直ぐ見れなくなった?
そんな……そう言うものなの?
サツキは無言でアイスティーを飲み干した。
【第10話】を最後まで読んでいただきありがとうございます。
次回【11】だって時間は戻らないでしょ。
は、17日深夜25時過ぎ予定です。