流れる過去
しばらくそわそわとイナは待っていた。ヤモリは電話を切ってからすぐにイナの元へと現れた。
「ひぃ!風が!」
イナは突然吹いた突風に驚き、頭を抱えてうずくまっていた。
「なーにしてるの?私よー。君が来てって言ったから来たよ。」
イナの前にいたのは麦わら帽子をかぶり、ピンクのシャツとオレンジのスカートを履いている少女だった。
「地味子!」
イナは心底嬉しそうに微笑んだ。
「地味子じゃないってば……。ヤモリ!」
ヤモリはため息をつきながら様子のおかしいイナを見つめた。ヤモリは龍神だが民家を守る神としても信仰を集めている神で他の龍神達と比べると地味なため、地味子と呼ばれていた。
「ごめん。ごめん。さっきの風は何だったのかな……。」
「ああ、それは君が早く来いって言ったから龍になって飛んできた時の風だね。……ねえ、さっきから何に怯えてるの?」
ヤモリは青い顔のイナに不思議そうに尋ねた。
「お化け!この時期の夜、雨降る時にお化けが出るんだって!」
イナは先程の男の子達の会話を悪い方にミックスしてヤモリに向かい叫んだ。
「お化け?お化けなんていないよ。どこ情報?」
ヤモリは玄関で靴を脱いでイナの部屋に上がり込んだ。
「稲荷神社に遊びに来た男の子達が言ってた。」
イナは青い顔のままお供え物の野菜達を戸棚から取り出して並べながらヤモリに答えた。
「ふーん。雨神の使い、蛙とかの悪戯じゃなくて?」
ヤモリは相槌を打ちながらイナの部屋に置いてあったお皿に自身が持って来たおにぎりを乗せてイナの前に置いた。
「まあ、でもヤモリが来てくれて安心した。ごはん何作ろうか?このおいしそうなおにぎりを使って狛キツネに何か作ってもらおうか。」
「何?狛キツネって……。」
すっかり安心し、微笑むイナにヤモリは呆れた顔を向けた。
「稲荷神の使いだよ。外にキツネの石像置いてあったでしょ?なんて言うかわかんないから私は狛キツネって呼んでるんだ。」
「ふーん。まあ、なんでもいいけどちゃちゃっとやろう。」
「おーけー!」
イナはヤモリに頷くと玄関先に向かって手招きをした。するとすぐにイナの前に二匹のキツネが現れた。キツネは深々とイナに頭を下げている。イナはそんなキツネ達を偉そうに見据えながら声を上げた。
「何か作って!」
「……いや……アバウトだね……。」
ヤモリの呆れた声と共にキツネがおにぎりの皿と野菜を持ってひっそりと存在している台所へと駆けて行った。
「これで何かおいしいものができてくるはず。」
「そんなんでいいの?」
ヤモリの不安げな声にイナが自信満々で大きく頷いた時、外で蛙の合唱がさらに大きくなり、雨音が響き始めた。
「降ってきたね……雨。」
ヤモリはごろんと畳に横になり雨の音を聞いていた。雨音はだんだんと激しくなっていった。
「おわわ……降ってきた!なんか雨音強いね……。こわっ!」
イナは再び怯え出しヤモリの近くに寄った。
刹那、バタンと玄関先の扉が大きく開いた。
「!!」
イナとヤモリは声が出ないほどに驚き、目を見開いた。開いた扉の先は真っ暗で何も見えず、暗闇に雨音だけが響く。
「……。」
先程のお化けの話が頭をよぎる。イナとヤモリは恐怖が入り混じった顔でお互いを見つめた。
「どーん!」
「うわあああ!」
突然、すぐ近くでヤモリでもイナでもない声が響いた。ヤモリとイナは腰が抜けるくらい驚き、半分飛び上がった。
「いやねえ、雨神様の風は速い速い。ちょっとはしゃいで遊んでたらこんな汚い神社に迷い込んでしまったよ。」
陽気な少女の声がイナとヤモリの耳に入って来た。徐々に落ち着きを取り戻してきたイナとヤモリは声が聞こえた方をゆっくりと向いた。
二神の瞳に映ったのは蛙のフードをかぶった金髪の少女だった。身長はイナくらいである。オレンジ色のワンピースを着ている元気そうな女の子だ。
「……ひょっとすると……カエル?」
ヤモリが隣で飛び跳ねている少女に恐る恐る声をかけた。
「んあ?うん!そうそう!雨神様の使いカエルー!あんたら誰だが知らないけどちょっと疲れたから休んでいくわ。」
カエルと名乗った少女は大きく伸びをするとイナの横にドカッと座った。雨の中を走ってきたようだがカエルの身体は濡れていない。どういう仕組みなのかはよくわからない。
「休んでいくわって……ここ私の神社……しかも汚いって言ったでしょ!」
イナは不機嫌そうな顔でカエルに怒鳴った。
「あー、ごめんごめん。……ん?なんか良い匂い。あ、これからごはん?私も食べる!」
カエルはニコニコ笑いながらイナに抱きついてきた。イナはあからさまに嫌そうな顔をするとカエルを離した。
「ずうずうしいよ!初対面でしょ!まあ、ごはんくらいなら食べてってもいいけど。」
イナは腰に手を当て偉そうにポーズをとるとカエルを見据えた。どうやら同じ身長のカエルとどこか張り合っているようだ。
「イナ、ちょっと落ち着いてよ。お化けの正体、やっぱり彼女じゃない?」
ヤモリがイナを落ち着かせようと先程の話を持ち出した。
「お化けの正体がカエル……。ありえなくはない……。」
「え?何の話?」
イナのつぶやきにカエルはぽかんとした顔を二神に向けた。
「カエル、君は人間に関わった事はあるかい?」
ヤモリは起き上るとカエルをまっすぐ見つめた。
「人間?……ああ、一度だけおうちに入り込んじゃったのはあるね!なんか女の子にぶつかった気がする。」
「それだあ!」
カエルの言葉にイナは勢いよく叫んだ。
「それがなにー?」
「詳しく聞かせてよ!その話!」
イナはキリッと鋭くカエルを見るとバンと畳を叩いた。
「うわあっ!びっくりしたあ……。なに?なんでそんなに必死なの?」
「イナはお化けかお化けじゃないか早く知りたいだけだよ。」
ビクッと肩を震わせたカエルにヤモリはため息をつきながら答えた。
「とにかく!お話して!」
「……まあ、話してもいいけど。」
カエルはイナの勢いに押され、顔が引きつっていたが語り出した。
その事件は七年前に起ったようだ。中学生の少女とその母親が日曜日の真昼間に自宅で言い争いをしていた。
「もうそろそろテスト期間でしょ?勉強しなさいよ。」
母親は困った顔でお化粧にハマっている娘を眺める。中学生の少女はうざったそうに母親を睨みつけると怒り出した。
「うっせぇよ。どうでもいいでしょ。こっちにはこっちのペースがあるんだから!」
少女はなぜかイライラしていた。理由はよくわからない。母親の言う言葉すべてが癇に障った。
「でも……最近成績落ちてるって先生言ってたわよ。」
「うっさいって言ってるでしょ!消えろ!死ね!」
娘の暴言に母親はため息をつきながら部屋を出て行った。
「まあ、いいけど、お母さん信じてるから。……ちょっと買い物に行ってくるわね。」
「そんな事いちいち言ってくんなよ。うざい。」
少女は母親に悪態をつくと自分の部屋のドアを乱暴に閉めた。
母親が出て行ってしばらくたった。だんだんと自分が母親にひどい事を言った事を自覚し始めた。どこかイライラしている自分にまたイライラした。
成績が落ちてきている事も知っているし、それを指摘されるのも心ではわかっていた。だが、母親にそれを言われると腹が立ち、勉強がさらにしたくなくなってくるのだ。
つまり、反抗期である。
こうしばらく経つと熱が冷め、自分が何故怒っていたのかよくわからなくなり、母親に当たった自分が悲しくなってくる。それでまたイライラする。そして行き場のないイライラを母親にぶつける。その繰り返しだった。
「お母さんに死ねって言っちゃったよ……。」
少女は深いため息をついて落ち込んだ。
しばらく経ち、外は晴天からだんだんと雲行きが怪しくなっていた。少女はそれに気がつかず、呆然とその場に座っていた。
気がつくと蛙が鳴いていたが蛙が鳴いているなあと思っただけだった。雨が屋根に当たり始めたが少女の心はまだぼうっとしていた。
そんな時、カエルは楽しそうに走り回り雨神を呼んでいた。
「雨降れー雨フレー!」
叫びながら走るが道行く人はカエルの声どころか姿も見えていない。人型になったカエルは人の目に映らないし、声も聞こえないのだ。
「あめふれー!って……おお!あの家!洗濯物だしっぱじゃん!やばいじゃん!」
カエルは慌ててその一件家に近寄った。玄関先から中を窺う。部屋に少女が呆然と座る姿が目に入った。
「人いるじゃん!なんで?こんなに蛙が鳴いているのに雨降るって気がついてないの!?」
カエルは迷った末、強行突破をして気づかせる事にした。
「しかたない!おっじゃましまーす!!」
カエルは大きな声で叫ぶとドアを思い切り開け、雨神が起こす風と共に家の中を走り始めた。廊下に置いてあったものは風で巻き上げられて空へ舞い、カエルが駆け抜けた壁は風圧でガタンガタンと揺れた。
「おらぁ!うわああ!」
カエルは少女の部屋のドアも思い切り開けたが勢い余って少女にぶつかってしまった。
「きゃああ!」
少女は何が起きたかわからず風圧でその場に倒れた。
「……うわ……やばい!ぶつかっちゃった!」
カエルは慌てて近くにあった窓を開けると外へと飛び出して逃げて行った。
「いたたた……何?」
少女は頭を撫でながら体を起こすと風が吹き抜けて行った窓の方向に目を向けた。
「あっ!」
目線の先で洗濯物が風で揺れていた。おまけに雨が降り始めている。
「やばい!」
少女は慌てて外に飛び出すと必死に洗濯物を家の中に入れた。一通り家の中に回収した後、ほっと一息ついて廊下を見ると廊下はありえないくらいに散らかっていた。少女は先程の強い風に怯え始めた。
「なんだったの?あの風……あんな強い風はじめて……。お母さん……大丈夫かな。こんな中、外に買い物に行って……。」
そこで少女は「死ね」と言ってしまった事を思い出し、急に怖くなった。
以前、テレビで見た事がある、子供が父親に「死ね」と言って別れてそのまま父親が交通事故に巻き込まれて本当に死んでしまった事。
少女は言ってしまった事を後悔した。
……もしかしたら私が「死ね」って言ったから今の風で事故に遭ってしまったかもしれない。
少女は目に涙を浮かべ、その場に崩れた。どうしよう、どうしようと心の中でつぶやいていると母親が呑気に帰ってきた。
「ただいま。いきなり雨降って来てびっくりしたよ。あら?どうしたの?」
母親は娘の暴言を何とも思っていなかった。むしろ、少女が泣いている事を心配した。
少女は母親に泣きついた後、鼻声でこう言った。
「せんたくもの……入れといた。」
「あ、ありがとう?」
母親は少女の葛藤を知らない為、何故、少女が泣いているのかよくわからなかったがとりあえず娘を抱きしめた。
それから廊下の有様を見て驚いた。
「ずいぶんと激しく洗濯物を入れたのね……。風が舞ったみたい……。」
「こんなに散かすわけないじゃん……。変な風がいきなり吹いて来たの!お母さん、死んじゃったかと思った。」
「死んじゃったかと思ったって……風なんてなかったわよ?でも……それって妙ね……。」
母親は娘が何で泣いているのかを理解し、クスクスと微笑みながらこの事を怪奇現象にした。
カエルは玄関先で親子の会話を聞きながらほっと胸を撫で下ろしていた。
「あー……良かった。洗濯物が無事で。」
カエルは独りつぶやくとまた元気に走り出した。
「と、いうわけよ。」
「どういうわけか全然わかんないんだけど。」
カエルの説明でヤモリは頭を抱えた。
「だから洗濯物が無事だったんだよ。そう、無事だった。」
「人間にぶつかっちゃダメだよ……。」
どこか満足そうなカエルにイナはふうとため息をついた。
「まあ、よくわかんないけど、イナ、これがお化けの正体みたいだよ。」
ヤモリはうんざりした顔でイナに結論を言った。
「なーんだ。お化けかと思ったよ。ふう……なんか安心したぁ……。」
イナがホクホク顔をヤモリとカエルに向けた時、狛キツネなるもの達が野菜が沢山入っているリゾットを持って来た。
「お!リゾットだ!」
「なんて器用なキツネ達……。お供え物にトマトがあったからってリゾット作るなんて凄い!」
イナとヤモリはお皿に盛られているトマトリゾットを感心して見つめた。
「いっただきまーす!」
カエルは一足早く、スプーンでリゾットをすくい、口に運んだ。
「ちょっと!だからずうずうしいってば!」
イナも負けじとリゾットにがっつき始めた。それを眺めたヤモリは深いため息をつくとイナとカエルの脇からちまちまリゾットを頬張りはじめた。
次の日、夜中ずっと会話して過ごしたイナとヤモリとカエルは深い眠りに落ちていた。
ちょうどお昼をまわったあたりだ。一人の女性が赤ん坊を連れて稲荷神社にやってきた。
「ここは全然変わんないねー。」
女性は赤ん坊にそう声をかけると真っ赤な鳥居を見上げた。昨日の雨が嘘のように今は晴れている。
「やっとお母さんの気持ちがわかった。子供を持つとわかる親の気持ちってやつね。あれからまともな人生を送る事ができました。あの風を起こしてお母さんとの仲を良くしてくれたのは稲荷神さんなんでしょう?……ありがとうございました。でもあの風はちょっとやりすぎだなあ……。」
この女性はイナのせいだと思っているらしいがイナは勘違いされても別にどうでも良かった。むしろ眠っていたので話自体を聞いていなかったのだった。
あの時の少女は赤ん坊を抱いたまま社に向かい深くお辞儀をすると微笑みながら去って行った。