Ⅸ.ホームシック
『拝啓お父さん、お母さん、
お元気ですか? 怪我や病気にはかかっていませんか。
国中を転々と回っている二人が今どこら辺にいるのかわかりませんが、きっと元気に遺跡発掘していることと思います。
お姉ちゃんも義兄さんも変わらず元気にお店を切り盛りしてます。エミリーはもう六歳になりました。ますます将来が楽しみな美少女で、とってもいい子に育ってます。
私は現在、きっと二人が知ったら卒倒しそうな場所に住んでます。数々の国宝が至る所にある場所です。
二人が戻って来る頃には、私も家に帰らせて頂こうかと……』
ぴたりと羽ペンを動かしていた手が止まる。紙にペン先をくっつけたまま停止したら、インクがじわりと広がった。
黒いシミに気付き慌ててペンをどかし、インクを乾かす為にふうと息をかける。数回目を通し、ぐしゃぐしゃと紙を丸く丸めた。文机突っ伏してぽつり。
「……お家帰りたい……」
王城に連れて来られてから早三週間。ホームシックである。
◇◆◇
家に帰りたい衝動は治まる事なく、次第に膨れ上がった。思えば何故自分は大人しくこの状況に従っているんだろうと思わずにはいられない。
いや、理由はわかっている。逆らうなと姉にも言われたからだ。何か粗相をして店を潰されでもしたら……と最悪な状況を思い浮かべば、従うのが得策。そして徐々に今後を交渉していけばいいと、要は様子見しろと言われている。既に殴ったり(正当防衛)、足を踏んだり(いきなり触るから)、暴言吐いたり(事実を告げただけ)をしているので、いつ潰されてもおかしくはない気もするが……
正当な理由もなくそんな事をするほど、外道ではないらしい。国民の憧れ、賢君と誉高い(失笑)国王陛下は独裁者のイメージがついたら困るからか。
「というか、単に面倒くさいだけで放っておかれてる気がする……」
人には講義だ礼儀作法だと毎日勉強漬けにさせておいて、ちらりと顔を拝見するたびに長椅子に寝そべっている。政務に勤しむ姿は未だ確認できていない。どうなんだそれは。周りの苦労に涙がにじむ。
まともに会話する事もほとんどなく、ただ時間が合う時だけは一緒に夕餉を取る事もあった。シュナイゼルに言われた通り、竜が夜行性というのは本当らしい。日が暮れた途端に元気いっぱいって、邪悪な存在だからじゃないのかと、いつか正体を暴いてやりたい。
睡眠時間をほとんど必要としないのなら、これから溜まってる仕事でも片づけろよと思うのだが。ゼルガは己の行動も欲望も隠しはしなかった。
『食い終わったな。んじゃ俺は外行ってくる』
『……』
立ち上がり、一人でふらふら外に出かける国王がどこへ行くのか、大方予測がつく。しらっとした空気の中、最低限の礼儀としていってらっしゃいを告げ、扉を後にするのを見届けた。というか、食べる時位は何か羽織れよ。上半身裸の男とご飯。食べてもちゃんと味がわかるほど、神経は太くない。
慌てた様子で給仕係や数名の侍女がスカーレットに声をかけ、国王のフォローに回る。
『スカーレット様、陛下は夜目が利きますゆえ、これから城下町の見回りに行くのですわ』
『ええ、日課ですの。陛下のお姿(竜)を確認できる人間はおりませんので、堂々と夜の飛行を楽しまれるのが常でして』
『決してスカーレット様から離れたいが為の行動ではありませんのよ? あの方は少々、自由と申しますか。御身に傷がつく心配もありませんので護衛もつけず、よく出かけてしまわれるのです』
見回りなど警邏隊にでもさせればいいのでは。夜分にも確か時折彼等を見かけた事がある。
だが竜姿で飛行がしたいと言われれば、それもそうかもしれないと無理やり納得した。人間の自分にはわからないが、空を思いっきり飛べるのはさぞかし気持ちがいいだろう。むしろ羨ましくも思えてくる。
が、翌日には彼等の努力も泡に帰る。
堂々と首元に歯型をつけて朝議に出た男と遭遇した時は、少しだけ理解しようと思った心も冷えた。
国王の身に歯型とは言え傷をつける女性を罰する事はないのだろう。恐らく彼がしろと命令したに違いない。隠しもせず情事の痕を見せる男には、冷やかを通りこして自然と眼差しに侮蔑がこもる。
あわあわと慌てる侍女たちには申し訳ないが、もはや視界に入れる事も苦痛だ。初恋どころか口づけすらまだの初心な乙女に彼の野性的な色香も毒である。なんという拷問、清らかな空気が必要だ。
にっこり彼女達に微笑みかけ、スカーレットは告げた。
『暫く鉢合わせしないように協力してね』
――それが昨日の出来事。
そして今朝もまた、スカーレットは規則正しい時間に起床した。
毎朝サーシャが決まった時間に起しに来る。ちなみに自室としてあてがわれた部屋は、閉じ込められていたあの鉄格子付きの部屋ではなかった。あれも軟禁状態を思わせる鉄格子がなければそこそこ快適だったのだが、今の部屋はもう少し居心地がいい。
淡いラベンダー色のカーテンをサーシャがさっと開ける。まだ早朝、柔らかな白い日差しが室内をふわりと照らす。
「スカーレット様、おはようございます」
「うう~ん……おはよう」
連日の睡眠不足、そろそろ身体も辛い。だが目覚めのハーブティーをサーシャが淹れてくれたおかげで、頭は幾分かすっきり覚醒した。
「朝ごはんはこちらでお召し上がりになりますか?」との問いに、彼女は頷いだ。のろのろとベッドを出て、身支度を整える。
着替えも全て自分の事は自分でやると初めに言っておいたおかげで、サーシャの手助けを借りる事はない。髪を弄ってもらう時は大人しくするが、誰かの手を借りて身支度を整えるなどどうも気恥ずかしいし、申し訳がない。着飾らせたがるサーシャを宥めて、今日もスカーレットはシンプルで動きやすいドレスに身を包んだ。
洗面所を使っている間に準備を整えたサーシャがカートを引いて戻って来る。丸いテーブルに並べられた朝食に、スカーレットは満足げに微笑んだ。
絞りたてのオルジェのジュースに、具沢山のオムレツ。新鮮なサラダと焼きたてのパン。甘酸っぱいべレムの実と木の樹液を原料に使ったシロップが乗ったワッフルも絶品だった。
些か食べ過ぎではないかと思う量をぺろりと平らげたスカーレットは、食後のお茶をゆっくり飲む。ふう、と一息ついた所でサーシャに本日の予定を尋ねた。
「実はマナー講師のラッセル夫人のお父上が体調を崩されたそうで、急遽ご実家に戻られる事になりました」
「え、そうなの? 体調を崩されたって大丈夫?」
容体が落ち着くまでは暫く来られないと聞き、代わりの講師を見つけるまで午前中の時間はゆとりが出来た。だが侯爵夫人のスパルタ講座や、時折教育係としてとんでもない高官位の大臣達が派遣されてくるので、油断も安心も出来ない。
しかし今日一日は実習という事で自分の時間が持てそうだった。溜まっている課題もあるが、のんびり過ごせるであろう。
朝食後、中庭にでも下りようと城内を歩いていたら。目の前からあの夜以来お会いしていない、シュナイゼルと遭遇した。回れ右をするより一足早く、視力のいいシュナイゼルから声がかけられる。
「おはようございます、スカーレット様」
「お、はようございます……副団長様」
チッ、遅かったか。
正直二人っきりで会いたい人間ではない。あの夜からこの男が得体の知れない危険人物に見えて来る。侯爵夫人には悪いが、あなたのご子息は冷血腹黒で間違いないと思う。この人に目をつけられた女の子は、大層苦労するだろう。
鍛えられた賜物か、淑女の笑みを貼り付け礼をする。ややぎこちなさは残るが、及第点だろう。ふむ、と一瞬見定められた気配を感じたが、顔を上げた瞬間彼は爽やかな貴公子の微笑を浮かべていた。
「(ひっ……!)」
僅かな動揺に気付かないシュナイゼルではない。悲しそうな声で罪悪感を呷って来る。
「自慢ではありませんが、私に微笑まれて頬を染めない女性はいないのに、その反応は傷つきますね」
「ほほ、ほほほ。わたくし急用を思い出しましたわ。それではシュナイゼル様、ごきげんよう。ごめんあそばせ」
傷つくほどやわな神経はしていなだろう! と盛大に心の中で毒を吐きつつ回れ右をするが、シュナイゼルに送ると言われて断固拒否る。
「結構です。お忙しい副団長様のお時間を頂くわけには」
「ですがあなたを一人で出歩かせるわけにもいきませんので。城内とは言え、誰もが味方とは限りませんから」
その筆頭はあなたじゃございませんか。
反論をぐっと堪え、すぐそこの中庭に下りるだけだと告げれば。笑顔で彼はとんでもない依頼をした。
「そういえば今日は一日時間が余っているのでしたか。一つ頼まれごとを聞いていただいてもよろしいですか?」
え、嫌です。面倒な臭いしかしない事なんで自分が――
喉まで出かかった台詞は、キラキラな笑みに封じられる。本っ当にその笑顔で相手を黙らせられる技を身に着けた男は性質が悪いし、そして同時に少し羨ましい。
「実はこれから陛下を起こしに行く所なのですが、スカーレット様に代わって頂きたいのです」
「私がですか?」
国王を叩き起こしに寝室まで……めちゃくちゃ遠慮したい。何故むさ苦しい男の寝室に忍びこまなければいけない。手が空いている侍従にでもさせればいいのではないか。
が、侍従では起こせないと言い切った。どうやら一度寝たら睡眠が深いらしい。
「一時間だけと仰っていたのですが、かれこれもう三時間経過しております。そろそろ予定がつまっておりますので、起きて頂かないと困るのですが」
「無理です。私には無理ですので、他の方にお願いしてください」
失礼しますと今度こそ踵を返した時。魅力的な言葉が耳に届いた。
「ちなみにどんな方法を使っても構いません。陛下を起こす際に取られた手段も、罪に問われないと保証しましょう」
ぴたり。足が止まる。
「何が起こっても寝室に押し入る事はない」と念押しされたスカーレットは、瞬時に天秤をかけた。日頃の鬱憤を晴らす罵倒をしても、思いっきり蹴っても、問題にはならない。正面きって愚痴を吐き出しても大丈夫。ぐらぐらと揺れた彼女は、気づけば国王の私室の前に立っていた。
シュナイゼルは去り、代わりの近衛騎士が見張りとして立っている。あからさまに助かったという表情をした騎士を見ると、毎日あの男を起こすのに苦労していた事が窺い知れた。
王の私室は流石に広く、豪華だ。真紅のカーペットに、ところどころに金色の美術品。シャンデリアは水晶を削って作られたと思えるほど透明度が高く、美しい。塵一つ落ちていない部屋を通り過ぎて、続き部屋の扉に手をかけた。
カチャリ、と開いた先は寝室だ。真っ暗なのは、カーテンが閉まっているからだろう。室内のカーテンは暗色色。一切の光を通さない色だった。
天蓋付きのベッドはデカい。大人三人は余裕に寝られる大きさだ。ぐるりとベッドを囲むカーテンは、よく見れば黒に近い紅。ベルベットの生地のそれは滑らかで、そしてずっしり重い。
窓のカーテンを容赦なく開け、そして天蓋のカーテンにも手をかけた。朝日が差し込む方角ではないが、そこそこ室内は明るい。声をかけずにゆっくりと開ければ、ベッドの真ん中に惰眠をむさぼる男の姿が――。ではなく、何故か端っこで寝ている事にスカーレットはビビる。
カーテンを開けたらすぐ近くにまさか国王が寝ているとは思わなかった。驚きで心臓がびくっと跳ねた。
「な、何で真ん中で寝ないのよ……っ。こんなに広いのに落ちそうな位端っこって、寝相が悪いのかしら」
想像できてはいたが、やはり上半身裸。枕を抱きかかえるように、うつ伏せで寝息を立てている。顔は横向きで呼吸を確保。柔らかな枕の下に左手を差し込んでいた。首から腕、背中も露わで腰より上にデュベがかけられている。その逞しく広い背中や筋肉を目の当たりにして、思わずスカーレットは目を逸らした。
男の筋肉なんかに興味はない。でも、これは目の毒である。
「は、早く起こそう……。国王様、国王様。さっさと起きやがってください。もうとっくに時間は過ぎてますよ」
揺さぶるなんて事はしない。だって触りたくないもの。むしろどこを触って起こせばいいのだ。相手は裸だぞ。
恐る恐る声をかけていたスカーレットだったが、全く微動だにしないほど深く眠る国王に、次第に大胆になってくる。
「もう、いい加減起きなさいよ。起床時間は過ぎてるんだってば! あなたの行動で周りが振り回される羽目になるのよ。少しはかわいそうだとか思わないの」
無言。返ってくるのは寝息だけ。スカーレットは瞬時に室内を見回した。この部屋で何が起きても、騎士たちが異変を感じて入って来る事も、咎められる事もない。ならばここいらで思う存分鬱憤を晴らそうではないか。
全てのカーテンを開けて、強制的に部屋を明るくする。寝室内にはベッド以外何も置かれていない。一体どういうことだと疑問だが、見事にベッドがあるのみなのだ。ここは寝る場所にしか使っていないらしい。
「細長い棒でも借りてくれば良かった。そしたら離れた場所から突いてやれたのに」
再び起こす為に彼に近寄ったスカーレットは、素早く伸びて来た腕に手を取られて重心を引っ張られた。
「わっ!?」
どさりと落ちた先は、当然ベッドの上。突如引っ張ったのは、勿論寝ているはずのゼルガだ。寝息が聞こえる事から、まだ完全に覚醒はしていないらしい。寝ぼけた行動と納得するには、些かこの状況は冗談がきつい。
「な、ちょっ、はなして……!」
横向きに寝るゼルガの腕に腰をがっしりと抱きしめられたスカーレットは、完全に彼に密着していた。左腕を彼女の腰に巻き付け、右腕を背中から肩に。逞しい胸板に顔を埋める羽目になったスカーレットは、顔を真っ赤にさせ息も絶え絶えで喚く。
(近い近い近いー!!)
上半身裸の男に抱きしめられた事など初めて。人肌と体温が頬に伝わり、その生々しい感触に肌が粟立つ。少し汗ばんだ硬い筋肉は、女性特有の柔らかさなど皆無で、嫌でも彼が男だと意識させられた。しかも、手にあたるこの感触は、適度に生えた紅い胸毛……
(ひぃぃいいっ……!)
離してと押し返すが、より拘束が強まる。しかも不埒な男の手が、何やら下に動いている。腰をさすられ尻の丸みまで撫でられた感触に、スカーレットは「キャー!」と叫んだ。
「痴漢、痴漢! いい加減離しなさ……」
くん、と頭頂部に感じる気配。ゼルガの鼻が彼女の頭に当たっている。そして何だか匂いを嗅がれていないか。
ぴきりと身体が硬直した。頭の臭いを嗅がれ、下半身を服の上からまさぐられ、上半身は裸の男と密着したまま思考が停止する。これがすべて無意識でやっているのだったら、性質が悪いどころではない。
そして気づかないフリをしていたが、考えないようにと思っていたが。この男、まさか全裸じゃあるまいな。
下半身がどうなっているのかなど考えたくなければ、確かめたくもない。顔を真っ赤に染めたままパニック状態に陥るスカーレットに、寝ぼけたゼルガが一言。
「……薄い」
「っ!」
上半身を抱きしめられたらつぶれるであろうはずのボリュームが、残念ながら彼女にはない。薄いというのは、スカーレットの身体か。スレンダーと評される彼女の胸は、確かにささやかにしか育ってはいない。
一拍後、渾身の力を込めてスカーレットはゼルガの拘束を解いた。そして手形が付くであろうほど、盛大に頬をビンタする。
「この、変態最低オヤジが!! もう嫌、もう我慢できない。こんな変態の顔なんて二度と見たくもない。実家に帰らせて頂きます!!!」
どんなに騒いでも突入してこなかった騎士に恨みを込めた眼差しで睨んだのを最後に、スカーレットは逃走した。
真っ赤な手形をつけた国王がその後起きたのかどうかなど、彼女には知る由もない。
タグに変態注意を追加しました(遅い