Ⅷ.深夜の書庫
一体何度目だろう。驚きすぎて思考が停止するのは。
侯爵夫人から言われた言葉に、スカーレットは冷や汗を流した。とてつもなく不吉な予感がする。王族は、いや正しくは竜になれる国王は、番以外と契りを交わしても子供が出来ないということはつまり……
「まさか、番候補である私が世継ぎを生むって事じゃ……」
「ええ、その通りですわ」
その可能性が高いのですから、と続いた台詞に、意識が一瞬でぐらりと遠のいた。
「ですから皆様必死なのですわ。現在国王陛下のお姿が視認できる女性はスカーレット様を含めて四人のみ。他二人は既にご高齢で、お孫さんもいらっしゃるご婦人。隠居されているお二方は陛下の大叔母上にあたります。またもう一人は辺境の地にいらっしゃいますが、既に幸せな家庭を築かれておりますので、候補外ですわ。彼女は愛する番の旦那様を見つけておりますので、陛下の番の可能性は極めて低いと判断されましたの」
よって、現在限りなく番になりえるのは自分しかいないということで。
ぶるりとスカーレットは身震いした。
「い、イヤー! 改めてそう言われると逃げ道ふさがれたようで怖いー! 世継ぎとか子供とか、何その大それた役割。そりゃいつかは子供を生みたいとは思ってたけど、そのいつかはまだまだ先だと思ってたし、相手があの変態国王とか考えただけで生々しいっ!!」
口調も語尾も元に戻っている。混乱したまま叫ぶ彼女に、侯爵夫人は「陛下はとってもセクシーですのに?」と不思議そうに首を傾げた。
「男の中の男、強さも国一番ですわ。何せ竜ですもの、変化できるのはあの方以外いませんし、この国の女性は男性に強さを求める本能が備わっているはずですが。スカーレット様はまったく魅了されませんのね」
これも血が濃いからかしら? と呟く夫人に、スカーレットは逆じゃないかと思う。竜の血が濃ければ、その本能も強く現れるのでは。
だが今のところ自分が惹かれている自覚は石ころの欠片ほどない。むしろ血が濃いため簡単に惑わされないという意味でなら納得できる。
つまり、大抵の国民(若い女性)は惑わされやすいためあの男に惹かれるのか。
「下だけ履いてればいいってもんじゃないと思います。城内の秩序が乱れるとは思いませんか! 常に上半身裸で歩くなんて破廉恥ですよ」
「あら、ふふふ。恥ずかしがりつつも凝視する女性が多いのに、乙女ですのねスカーレット様は。でもあの方が暑がりなのは仕方がありませんわ。だって赤竜ですもの」
「暑がり? え、ただの露出趣味がある変態じゃないんですか」
自国の王を変態呼ばわりして未だに罰せられていないのは彼女くらいのものだろう。良くも悪くも怖い物知らずである。
鱗が赤い竜が赤竜としか認識していないスカーレットは疑問符を浮かべた。何故暑がりに繋がるのかさっぱりわからない。
「この国の神話を学校でも習ったはずですが、覚えていらっしゃらないのですね。歴史書も課題に追加しなくてはいけないわね」
「げっ」
いや、習ったのは歴史ではあるが神話学ではない。神話と歴史が繋がっているなんて、そんな話は聞いた覚えがない……と考えるが、思えば自分は試験前に徹夜で一夜漬けしてきた人間だった。短期的な記憶力はよかったものの、数年経てば忘れてしまう。
(ま、また睡眠時間が……!)
がっくりと、スカーレットはうな垂れた。
◇◆◇
リーゼンヴァルトを建国した竜は、国王ゼルガと同じく赤い鱗が特徴的な赤竜だ。その話は小さな子供でも知っている有名な話である。”そう言い伝えられている話”という認識のみで、事実だと思っている一般市民はほぼいないが。
国民に知られている竜の話は限りなく少なく、ごく一部のみ。侯爵夫人の話の通り、確かに学校で一通りの神話を学びはするが、赤い竜は炎を司り操る能力があるという話しか伝わっていなかった。
王族はご先祖様の血をより濃く継承する一族。先祖返りで初代国王と同じ瞳と髪色を持って生まれる王子は、皆王になった。歴史をさかのぼると、同じ代に竜に変化が出来た子供は一人以上生まれていない。一代に一人きり、赤毛と黄金の瞳を持つ者が現れる。
歴代の王と同じく、ゼルガもその選ばれた一人。彼にも兄弟がいたが、より濃く竜の血を受け継ぐ者が王にという理が変わる事なく、僅か二十歳で即位した。
一体何を基準にして彼がその色を宿して生まれて来たのかはわからないが、最低限の為政者としての資質が備わっていれば問題ないのだろうか。性癖や人格、その他もろもろ大事な事は二の次で、強さと竜の力が継承されていればいい……。書物を読みながらそこまで自分なりの解釈をして、スカーレットはゴンっと頭をテーブルに打ち付けた。
「何でこう、もう少し紳士的な人とかデリカシーがある人とか、おとぎ話の王子様的な人があの色受け継がなかったの……」
聞けば一番上の兄は臣下の一人として国王様を支えているらしい。大層有能な方で、人望も篤いのだとか。そして大事な事に誰もが認める人格者。おいどうしてその人が王になれなかった。
王弟殿下は十代後半であっさり自分の番を見つけ、即結婚。伯爵家のご令嬢に一目惚れをしたのだとか。情熱的な彼は熱心に口説き、その努力が実っての結婚だったらしい。一途に奥様を愛される姿はまさに献身的で微笑ましく、羨ましいの一言に尽きる。
兄は理知的な人格者、弟は情熱的な愛妻家。真ん中に挟まれた国王様は、酒と女好きの変態……。竜よ、選択が間違っていたとは思わないか。
眠い眼をこすりつつうんうん呻っていると、背後でかたりと音がした。薄暗い書庫の一角にて課題の読書に勤しんでいた彼女は、はっと顔を上げる。
「夜分遅くまで随分熱心ですね」
声をかけてきたのは、侯爵夫人の自慢の息子、シュナイゼルだ。既に職務時間は終えているはずの深夜にまさか出会うとは思っていなかった。思わずスカーレットの反応が遅れる。
「こんばんは、シュタイナー副団長様。何かここにご用ですか?」
かっちりした騎士団服に乱れはない。ずっと仕事だったのか……と思ったところで苦い気分になった。
ダメだ、いつの間にか自分はあの国王様に影響されすぎている。常に乱れた服に色事の痕を垣間見ると、一体何をやっていたんだと罵りたくなるのも仕方ないだろう。きっちりした服装の男性を城内で見かけるだけで安堵するなんて、自分はどこへ向かっているのだ。まともな初恋すらまだの乙女のはずなのに、あの男の傍はいろんな意味で危険だった。
「明かりが漏れていたので、見回りに。毎晩こんな遅くまでこちらにいらっしゃるのですか? 一人で」
柔らかく微笑む様は騎士というより貴公子。侯爵家嫡男なので筋骨隆々な騎士というより貴族の子息というイメージが強い気がする。どちらかと言えば、彼は線が細めだ。
四人掛けのテーブルの前に回った彼は、座っても? と訊ねた。反射的にスカーレットは頷いた。
「寝室に戻ったら絶対寝そうなので。ここの方が落ちついて考え事ができるんです。侯爵夫人にたっぷり課題を出されてしまったので」
ちらりと山積みになった本に視線を向けた。一週間で読破できる気がしない。
副団長の母君に世話になっているお礼を告げれば、柔らかい微笑みを返される。薄暗い所為か、いつもよりどこか艶っぽく、ドキッとするほど色っぽい。
「母は容赦ありませんからね。大変かと思いますが、がんばってください。何か私でよろしければ相談に乗りますよ」
わからないことがあったら訊いていいと言われ、思わず確認してしまった。しっかり頷き返されれば、どれから質問を投げようか思案する。先ほどまでわからないことだらけで悩んでいたのに、いざ答えを教えてくれるとなると迷う。
「国王様が赤竜だから暑がりというのは本当ですか? あの人がいつも(上半身)裸マントなのって単に露出癖のある変態ってだけじゃなくて?」
「おや、一番初めの質問はそこですか。スカーレット様は面白い方ですね。陛下のことをその様に称される方はあなただけでしょう」
いや、絶対心の中で皆思ってるって。ただ言え(わ)ないだけではないか。普通は恐れ多くて口を噤むが、彼女はもう散々好き放題しているので今更なだけである。
「陛下が暑がりというのは周知の事実ですよ。少なくともこの城で働く者は。もちろん我々騎士団もですが。
炎の守護を得る王族の方々は、皆薄着を好みますね。恐らく陛下も本来なら衣服を身に着けたくないのでしょう。式典できっちりした正装をされる場合は、窮屈だとぼやいておりますから」
衣服を身に着けたくない性癖は、単に裸族というだけではないらしい。これも竜としての特徴なのかもしれない。
だが、朝から酒を呷っていたり、女癖が悪かったりは本人の性格のはずだ。はっきり言おう。あの男がまともに仕事をしている姿を見たことがない。
「竜は酒好きで好色なんですか? 怠惰で怠け者なんですか。日がな一日ゴロゴロしているようにしか見えないんですが」
仕事してください~と臣下に泣きつかれてようやく渋々執務机に向かう姿を何度か目撃している。その度に国王に対するスカーレットの好感度はマイナスになった。周りが有能過ぎる為、国王の仕事が最小限にまで抑えられているのだろう。のうのうと日々暮らせたのも、こんな風に優秀な縁の下の力持ちのおかげなのだ。だらけたオッサン、働け。
呆れと侮蔑が入った眼差しを隠しもしないスカーレットに、副団長は苦笑いを零す。少々思案し、口を開いた。
「個人差がありますけど、陛下が特に好色なわけではないと思いますよ。怠惰だと感じられるのも、日中は極力動きたくないのだとか。竜は夜行性なのです」
「夜行性……。夜になったら元気いっぱいで美女に癒しを求めるわけですね。わーお」
段々返事がおざなりになってきた。疲れと睡眠不足なのもあるが。
気分を害した様子もなく、シュナイゼルは続ける。
「あの方はあまり睡眠を必要としないのですよ。一日三時間も寝れば長い方でしょうか。寝なくても動けると以前仰っていましたが、日中は少々ぼうっとする時間も必要なんだとか」
いや、寝ろよ。ぼうっとするのは明らかに睡眠が足りてないからだよ。
夜に運動ばかりするから眠くなるんだと言ってやりたいのをぐっと堪える。まだ質問が残っているからだ。
「番にしか国王様の子供を産めないという話も本当ですか。実は隠し子がいても驚きませんけど」
「ええ、番にしか子を宿せませんね。竜の血が強すぎると母体に影響が出るようです。ですから最低限竜型を視認できるまで濃い血を持つ女性が選ばれるのですよ。陛下に愛人もご落胤もいない事は私が保証しますのでご安心を」
母体に影響……さらりと怖い発言がされた。流れてしまう確率が高いというならわかるけど、もっと直接的な意味での影響だったら恐ろしい。血みどろな光景が浮かび上がったが、すぐに頭を振って打ち消した。
「重い、めちゃくちゃ重いです。私にしか国王様の子供が産めないとか何それ、生々しすぎて考えたくもない。それに美女ばかり侍らしているであろう女好きな国王様が初めての相手とか、断固拒否です」
「それなら女性経験のない男性が初めてのお相手ならいいのですか」
予想外の返しに、スカーレットはしばし黙る。何だっけ、近所のお姉さんが確か言っていた。初体験が初めて同士は悲惨だとか何とか……
「いえ、お互い初めてもきついかと……。そこそこ経験があって女性の扱いに慣れてて、優しくリードしてくれる男性の方がもしかしたら女性にとってはよかったり……?」
冷静に考えれば何ていう話題をしているのだろう。初対面ではないが、腹の底が読めない相手にまさかの猥談。いや重要で真面目な話ではある。そろそろ本格的に眠いが、自分の将来がかかっている話でもあるので、適当な事は言えない。
くすりと微笑んだシュナイゼルは、女性を虜にする声と表情でスカーレットを誘う。
「そうですか。それならば、私があなたのお相手を致しましょうか?」
「……え?」
髪を一房、すっと手に取られた。真向いに座っているシュナイゼルとの距離が気づけば近い。胸下まであるスカーレットの赤茶色の髪に、彼は紳士的に口づける。だが上目遣いで見上げるその表情は、色香漂う雄の顔。
一瞬でスカーレットの背筋に悪寒が走った。警告音が頭の中で鳴り響く。怪しく囁き彼女を誘う色気に、ぐらっと来てもおかしくはない。だが、彼の目の奥は冷静そのものだった。まったくと言っていいほど、笑っていない。
試されている――と、一瞬で悟った。
ここで選択肢を間違えれば、この男は自分を躊躇いもなく斬り捨てる。今までは味方でも敵でもない中立の立場。だが思えば自分をここまで攫って来たのも、この男だった。警戒心を抱かせない空気に飲まれて忘れそうになっていたが、初めから味方ではないのだ。
乾いた喉を唾液で湿らせ、スカーレットは落ち着いた声を出す。
「御冗談を。副団長様に抱かれたい女の子は大勢いるでしょうが、私は自分が好きになった方にしか肌を許しません。私はあなたを性的な意味で全く好きではありませんし、これから好きになる予定もないので謹んでご遠慮させて頂きます」
真意を見定める冷徹なエメラルドの瞳。怖いけど逸らしたらダメだと自分に言い聞かせ、スカーレットは意地でも微笑んでみせた。
数拍後、周囲の緊張感が緩む。彼女の髪から手を離したシュナイゼルは、柔らかく目を細め「残念ですね」と答えた。
自室まで送りますという言葉に遠慮したかったが、一人で歩かせるわけにもいかないと諭され渋々了承する。永遠にも感じられた道のりをようやく終えた頃は、どっとした疲労感が全身を襲った。
騎士らしく礼をして去って行ったシュナイゼルにお礼を告げたのち、鍵をかけて重い息を吐く。
「侯爵夫人……どう育てたらあんな得体の知れない男になるんですか~……」
何とか及第点を貰えたのか? いや、彼が望んだ答えが何かはわからない。
肝が冷える想いを堪え、スカーレットはベッドに潜り込んだ。