Ⅶ.講義
姉のエメルダはとても美しい人だ。外見的な美しさもさながらよく気がつき、面倒見が良く、周囲への心配りを忘れない。幼い頃からしっかり者で成績も優秀、この界隈で彼女を知らない者はいないほどの有名人だ。
そんな姉を射止めたのは、温厚な性格と真面目さが取り柄の男だった。すぐに顔を赤くさせるほど純情で色恋には免疫がなく、朴訥で真面目な青年、というのが第一印象。
そんな義兄を時にからかい、時に甘える姉は美人でしっかり者というより、一人の可愛い女性に見えた。正直、顔だけでいうなら義兄は普通。よくも悪くも平凡で、だからこそ彼の傍は居心地がいいのかもしれない。大柄な体躯は包容力も感じさせてくれる、まるで陽だまりのような人だ。
仲睦まじい姉夫婦だが、彼女ははっきり義兄が番かはわからないと言った。番はたいてい出会った瞬間に惹かれあうものがあるという。本能でその人物が運命の相手だと察するらしいが、彼女も義兄もそこはよくわからないらしい。
仲が良くても、お互い愛し合っていても、番だと認識している夫婦は実は少ない。本能で「見つけた!」と察するような強い引力は、ほとんどの国民が未経験だ。
だが身近でお互い番だと認識している夫婦がいる。それはエメルダとスカーレットの両親だった。まるで万年新婚夫婦の二人は、店を娘夫婦に任せて現在長期旅行中――。というか、実際は知人の考古学者の遺跡発掘作業に携わっているらしい。年に一度帰ってくるか来ないかの二人は、とても自由に生きている。
あの仲の良さが番の夫婦だとしたら、一目で相手に惚れるどころか反発する関係の国王と自分が番の可能性は低いと思う。どきんと胸が高鳴ったことも、奇妙な不整脈に悩まされることも、目が合っただけで頬が染まることもない。
よって、スカーレットが国王ゼルガの番だと断定できる要素は、竜が見える以外に存在しなかった。
「――というか、出会ってから叫ぶかイラってくるかしかしていないんだけど」
分厚い書物の頁をめくりながら、半眼で呟く。
あの衝撃的な出会いと拉致から早二週間が経過。未だにスカーレットの中で国王の株は低いまま……というか、どん底まで下がっていた。
腹立たしさしか感じない相手が番だなんて嘘でしょ? と何度宰相に訊ねたかわからない。だが彼は緩く首を振るだけで、人それぞれですからと言い切った。お互い違うと思うのならそれで納得して欲しいという訴えも、すぐに却下される。曰く、陛下の許しが出ていないとの事。
昼間から飲んだくれていつも眠そうに欠伸をかみ殺し、堂々とキスマークをつけたまま半裸で王城内を闊歩する男が国王だなんて、未だに認めたくはない。朝議にだって酒臭いまま出ると聞いた時は、呆れたため息も出なかった。しかも流石に上半身でも裸はまずいと思っての事か、裸マントで。
何だろうその変態臭。居並ぶ大臣達は皆きっちりした文官服姿だというのに、仕える主は裸マント……自分なら絶対に嫌だとスカーレットは心の底から思う。
「休憩時間にはまだ早いですわよ、スカーレット様」
ド迫力の笑みで思考が脱線していた自分の軌道修正をさせたのは、この国の侯爵夫人であるエルティシア・シュタイナー。あのシュタイナー副団長の母君である。
成人男性の息子がいるとは思えないほど若々しく、肌も艶々。息子と同じハニーブロンドの髪にエメラルドの瞳が印象的だ。副団長は母親似らしい。
一体どんな秘術を使っているのかと尋ねてみたくなるほど、侯爵夫人は若い。エメルダの少し歳の離れた姉と言っても疑われないだろう。
「申し訳ありません。番について少々考え事をしてました」
「そうでしたの」
侯爵夫人には貴族としての礼儀作法から一般教養、そして王族とごく一部の貴族にしか伝えられていない竜に関しての話を教えてくれている。が、その勉強量が半端なく多い。きりりとした目力のある眼差しに真っ赤な唇が特徴的な美女は、出会った当初からスパルタだった。毎日の読書量に睡眠時間が削られている。おかげでここ二週間寝不足である。
「一般的には番は存在すると言われていますが、実際出会う確率はとても低いですわね。どうやったら出会えるのか、何にお互い惹かれるのか、未だ謎に包まれておりますわ。わたくしも十三番目の恋人までは番かもしれないと淡い期待を抱いておりましたが、すぐに違うと気づきましたもの。正直番の存在は夢物語になりつつあるのが現状です」
「十三番目の恋人……恋多き女性だったのですね」
なるほど、その遺伝子は息子に受け継がれたのか。若い女性の視線を独占する彼は、社交界にプレイボーイとしての名を馳せている。
そして驚く事に、侯爵夫人はその後あっさり政略結婚したそうだ。スカーレットと同じ二十二歳の時、番に夢を見るのはやめたらしい。だがその侯爵とは上手に信頼関係も築けて、仲も良好。番とは少々違うが、これも一つの家族の形だと彼女は言い切った。
「息子には番だと思う女性を見つけたら逃がすなと、幼い頃から言い聞かせておりますのよ。少々フェミニストというか、軟派な男にも見えますが、たった一人を見つけたら一途に愛する事間違いないですわ」
「そうなんですの。流石副団長様ですわ」
つい口調がうつる。あの手の男に執着される女の子はかわいそうだなと思ったが、勿論顔には出さずにいた。
「ですから王族の、国王陛下の番に選ばれたスカーレット様は幸運ですわ。あの方の番になれるだなんて、国中の女の子の憧れの的ですわよ」
あれの? いやいや、冗談きつい。理想の男性像というのを持った事はないが、あんなダメなおっさんではない事は確かだ。
「いいえそんな事はないですわ。国王様の普段の行いと振る舞いを間近で見ていれば、三日も経たずに離婚調停に入りますわ」
王族の離婚が成立した前例はない。皆見事に番ばかりを見つけて婚姻した為、離縁する事などなかったのだという。何それどんな魔法なのと思わずにはいられない。番以外と結婚した場合、別れる夫婦は多い。この国での離婚率は低くはないのだ。
「それは何故ですの?」
淑女らしく品のある口調で訊ねられる。スカーレットはこの二週間の国王の振る舞いを全て洗いざらい吐き出した。語尾には”~ですわ”をつけて。城で働く者なら誰でも知っているであろう情報、今更自分一人が告げた事で問題にはならないはず。
「城下には国王様に憧れる年頃の娘が大勢おりますが、彼女達を想うともう憐れになるほどの残念っぷりなんですのよ」
「まあ、スカーレット様……」
ここで慰めの一言でもかけられるかと思いきや。美しい緑の瞳をすっと細めて、侯爵夫人は艶然と微笑んだ。
「夫の手綱を握るのは妻の役目。殿方に従順なだけでは妻は務まりませんわ。時に愛らしく、時に凛々しく、時に母のように。慈愛を持ってうまく掌で転がせるようにならなければ」
――陛下の振る舞いが気に入らなければ、ご自分でうまく誘導するのですよ。
ものすごい前向きな意見を頂いてしまったスカーレットはしばし唖然とした。
……侯爵を夫人は掌の上で転がしているのですね? 実権は侯爵夫人が握っているのですか……
まだ紹介された事はないが、恐らくシュタイナー侯爵に出会えば尻に敷かれる男性にしか見えないだろう。
いかにうまく相手に悟られずに思惑通りに動かせるか。妻は常に賢くなくてはいけないと言われ、講義内容に追加が加わった。ここで学んでおけば確かに将来役に立つかもしれない。自分の隣に立つ相手が誰であろうと、学んで損はないはずだ。
無理やり自分を納得させ、目線と同じ高さにまで積まれた書物を眺める。これ一週間で読破しろとか、絶対無理……
「凛々しく雄々しく猛々しい陛下の寵愛を望む女性は大勢いらっしゃいますのよ。たとえ朝帰りだろうと酒臭かろうと、上半身裸で城内を歩いていようと、あの方が偉大で素晴らしい事に変わりありませんわ」
「では侯爵夫人は女物の香水がうつった旦那様を軽蔑せずに見過ごす事が出来るのですか」
「まずは事実確認からですわね。その場で問い詰める真似は致しませんが、陛下の場合は少々特殊な立場の方ですし」
国王だったら何しても許されるという事か。か弱い女性を拉致ったり軟禁したり本人の承諾なしに家族を丸め込んで王城に住まわせたり……。好感度がない為、理不尽さに納得できかねている。
「世継ぎがどうのこうのと周りが騒いでいますけど。あの調子ならすぐにでも解決されるんじゃないしょうか。知らない間にどこかの女性とのご落胤が現れたり」
(うわぁ、凄いありえそう。キスマークつけて朝帰りなんて、何してきてたのか一目瞭然じゃない)
自分で言った台詞に納得してしまう。王族の血をむやみやたらにばら撒く行動はしないと思うが、どうだろう。信用性がないので否定できない。
「あら、スカーレット様、何を仰いますの。宰相様から既に伺っているものばかりと思っておりましたけれど、それは不可能ですわよ」
「え。不可能?」
……実は不能なのか?
いやいや、それなら世継ぎがとか直接言わないだろう。近しい近親者を次代の王に迎えるなりすると思うが、いや待てよ。そもそも王になるには、竜になれなければいけないのだった。
混乱するスカーレットに、侯爵夫人はあっさり告げる。
「国王の番にしか彼の子供は授からないのですわ」と。