Ⅵ.翌朝
このまま脱走して逃げるという選択肢はあっさり消えた。砂糖菓子のように甘い顔して実は見事なダーツの達人。とんでもなく有能であろうサーシャの目を欺くのは、困難だと判断したからだ。
ふわふわな小動物を思わせる小柄な彼女のあの機敏な動き……正直壁にフォークが刺さった音を聞くまで、何をしたのか気づけなかった。時間差で毛穴が開く。恐ろしい。
国王陛下か宰相閣下にお会いしたいとダメもとでお願いすれば、あっけないほどすぐに許可が下りた。回りくどい行動は苦手だ、こうなれば正面からよそを当たってほしいともう一度告げてやろう。幸運にも自分は彼の好みではないのだから。
赤茶色の髪をサーシャが整えてくれる。ブラッシングだけでいいと告げたので、渋々結い上げるのは断念してもらった。自分じゃほとんどブラシなど使わず手櫛で済ませるスカーレットの髪は、いつもは適当にくくっているだけなのだが、今はさらりと背中に流している。癖のない真っ直ぐな髪。隠し事が苦手で裏表のない彼女の性格に似ていた。
スカーレットが通された王の謁見室は、白と金を基調にした色で統一されている。調度品全てが雪のように白く、ところどころに金色のアクセントが施されていて華やかな印象だ。恐らく花瓶一つで数年間は楽に暮らせるだろうと思うと、正直近寄るのも恐ろしい。
昨晩は自棄になって高級な家具も花瓶も壊せる気でいたが、冷静になれば借金を作るだけではないか。留まってよかった……と心の底から安堵する。まったく、自分の弱みを作ってどうするつもりだ。
麗しの宰相閣下が「陛下はすぐに参ります」と恭しい態度でスカーレットに頭を下げた。長椅子に腰掛けるよう勧められ、彼女の目の前には茶器が置かれる。ほのかに香る花の匂い。どうやらハーブティーらしい。
こぽこぽとサーシャが薄紅に色づいたハーブティーをカップに注いだ。そして宰相からは料理長自慢のお茶菓子を振る舞われる。昨日はあんなにひもじかったのに、この変化。ありがたいけど素直に喜べない。
(おいしい……ムカつくほどおいしい。食べ物で機嫌を釣ろうだなんてそうはいくかと言ってやりたいのに、しっかり釣られちゃってるじゃないの)
単純な自分が情けない。そして流石料理長。お菓子が美味しすぎる。
何も気にした様子もなく、宰相は昨晩はゆっくり過ごせたかと邪気のない笑顔で問いかけてきた。思わずアポラの実を砂糖で甘く煮たジャムをビスケットに塗っていた手が止まった。
ゆっくり過ごせたかなんて、一体どの口がそれを訊く。
「ええ、え~ええ。お気遣いありがとうございます。とっっっても、貴重な経験をさせていただきましたわぁ」
たっぷりと皮肉をこめた物言いをし、ばくりとビスケットを頬張った。甘さと酸味が絶妙なハーモニーを生むアポラのジャムに、さくさくのビスケットのコンビネーションは素晴らしい。笑顔で嫌味を言える特技がそのうちできそうだ。
「鉄格子が嵌められた部屋で強制断食をさせられたのなんて初めてで、一生忘れられない思い出になったかと思います。ありがとうございました」
カップに再び口をつけにっこり微笑めば、中性的な顔立ちをした宰相の表情が僅かに曇った。
「強制断食ですか? おかしいですね、私はお夜食を届けるよう手配したはずですが……」
「俺が追い払ったぞ」
室内に響き渡るバリトンボイス。出たな諸悪の根源! とスカーレットは思いっきり睨みつけるように振り返り――眉を潜めて口許を引きつらせた。
「なっ、……!」
扉を開けたばかりの国王陛下は、気だるそうに歩いて来る。
肌蹴た白いシャツは第四ボタンまで外れている。ほぼ上半身はシャツをただ肩から羽織っているのと変わらない状態だ。
黒のシンプルなトラウザーズを身につけ、国王は髪を片手でがしがしと掻き揚げていた。後ろに撫で付けられた真紅の髪は元から癖毛らしく、まさに炎が燃え盛っているかのよう。眠そうにあくびをかみ殺す姿はまるで獅子だ。本当は竜だが。
昨日は剃っていたのに、国王の顔には無精ひげが生えていた。その様子は、正式な式典に出る姿からは考えられないほどだらしがない。男らしい胸板を目の当たりにするのは二度目だが、スカーレットの視線はシャツから覗く素肌のとある一点に集中した。
(何アレ何アレー!?)
首元に二カ所、鎖骨に一カ所、そして胸板にも一カ所。赤い鬱血痕が、くっきりと肌に浮かび上がっている。それが何なのか知らないほど、子どもではない。
「あら、虫刺されですの? 陛下」とでも満面の笑みを貼り付けて言ってやろうか。嫌味たっぷりの感情をこめて。
というか、食事を奪って閉じ込めていた間、随分とお盛んな事で。沸々と腹の底から怒りが湧く。
「だらしがないですよ、陛下」
「何だよ、シド。いつも通りの格好だろ」
「それがいつも通りという認識をスカーレット様に植え付けないでください。若い女性のあの軽蔑の籠った眼差しに気付かないのですか」
あらそんな、軽蔑が籠った眼差しなんて宰相様の気の所為ですわ。
なんて言うつもりは当然ない。明らかに軽蔑と怒りを込めた視線でスカーレットは国王を見つめていた。口許は一応弧を描いているが、それが余計に不気味である。
「ああ″? なら今から慣れておけ。俺は窮屈な服を着るのが嫌いなんだよ」
「堂々とした露出狂発言ですね」
窮屈なというよりも、服を着るのが嫌いな裸族ではないのか。ついそんな意味もこめた台詞を返してしまった。
鼻で笑った国王は、何故かスカーレットの傍まで近づいて来る。昨日あんなに動揺していた彼女への嫌がらせだろうか。
正直言いたい事は山ほどあるが、冷静さを失ったら終わりだとスカーレットは自分に言い聞かせていた。
「少しは大人しくなったかと思いきや、減らない口だな。何だ、昨日はあんなに顔を真っ赤にさせてたくせに」
くいっと国王は指で彼女の細い顎を持ち上げる。威圧感も迫力も半端ない。鋭い黄金色の目をすっと細め、彼はスカーレットの心の奥まで見透かすようにじっと見つめた。意地悪く、にやりと片側の口角が上がっている。
スカーレットは実家の食堂で客に接するのと同じ笑顔を浮かべて対抗した。酔っ払いや困った客が来た時に見せるのと同じ営業用の笑みを。そして至近距離で見つめるその双眸を逸らさずに、顎を捕まれたまま国王の足をダンッ! と踏む。
「残念な事に学習能力が低いのですね、国王様は。女性に許可なく勝手に触ればどうなるか、昨日身を持って知ったのではありませんか?」
ぐりぐりと踏んでも痛がる素振りも見せない。まさか竜だから痛覚もどこかおかしいのだろうか。いやでも、昨日は確か口の中を切っていた。踏んでいるこちらの方が疲れそうで余計腹立たしい。
「気の強い女は嫌いじゃねぇが、少しは淑女教育が必要だな。シド、こいつの教育予定は決まっているか」
「はい、既に数名の講師に声をかけております」
「っ!?」
講師? 淑女教育? 何だそれは、寝耳に水だ。話が飛びすぎていて着いていけない。
掴まれている顎の自由を奪う為、ドンッと国王の胸板を押し返した。肌蹴た胸板を……当然、素肌。
「ギャー! いやぁあー胸毛ー!」
「あ?」
接客時に見せる営業スマイルは何処。一瞬で後退り距離を開けたスカーレットは、掌に伝わった感触に喚く。
(父さんも義兄さんも基本体毛薄かったから! 男くさい男なんて知らないっ……!)
顔を真っ赤に染めて警戒心をむき出しにするスカーレットに嗜虐心が刺激された国王は、獰猛に笑った。
「おい、シド。この初心な嬢ちゃんに男の魅力ってやつも教えておいてやれ」
「はい?」
怪訝な返事をした宰相を見やり、国王は再びスカーレットに近づく。扉付近に佇むサーシャの隣にさっと身を寄せた彼女は、威嚇するように睨みつけた。
「歳の割にガキくせぇな」
「そう思うのならさっさと帰せばいいじゃないの。家族だって心配してるわっ。早く帰して」
国王相手にグーで殴りつけたり足を踏んだりした今、既に敬語を使う気すら失せている。もう何が起こっても怖くない。勿論そんなのはとんでもない暴挙だが、もうどうでも良かった。
「ご家族の事でしたらご心配なく。既に了承を得ています」
「は?」
すっと間に入った宰相に手渡されたのは、一枚に手紙。差出人は姉のエメルダだ。どこかクセのある字に見間違えはない。
『好きな人位は出来るかと思ったけれど、番見つけたんですってね? しかも国王陛下なんてあんた随分でっかい魚釣ったわね~。まあ、せいぜいうまくやりなさい。店の事なら何とかなるから気にしなくていいわよ。近所のアデルが手伝いに来てくれるって。あ、でもくれぐれも粗相のないようにね。陛下にたてついてうちを潰したら承知しないわよ」
(……お姉ちゃん、多分もう遅い……。)
理解があるんだかおおざっぱなんだかわからない。ただ味方ではない事が確かだった。嬉しくないよ、お姉ちゃん。お店潰したらごめんと心の中で呟く。
「何だお前、姉がいたのか。あ? 結婚してる? そりゃ残念だ」
だから何故家族の情報が筒抜け――いや、もう言うまい。
だがこれだけは最後にはっきり言わせて頂く。さっきから気になって仕方がなかった事だが、国王はとてつもなく……
「臭い! 酒にたばこに香水臭い!! 近寄らないでくださいこの歩く変態」
「失礼な奴だな。昨夜寝てねーんだよ」
何故寝てないのかは、その赤い印が物語っている。それならその香水も女性からの移り香か。最低だ。
「こんなだらしのないダメダメな男が国王陛下だなんて、皆騙されてるのよ。後宮はないくせにそのキスマークって、まさか愛人? それとも花街にでも行ってたってわけ? 一晩中酒とたばこと女って不潔」
「国王は聖人君子だとでも思ってたのか? めでたい頭してやがるな。別に騙してるつもりはないなんて言う気はさらさらねーよ。酒もたばこも吸うが、愛人はいない。そんな面倒なものを作るより、花街の色っぽいお姉ちゃん買った方が数倍いい」
「国民の血税で女性買うとか何やってるのよ」
後宮は税の無駄遣いだと思ってた。それを実質廃止している事は、少しだけ見直していたのに。全て台無しだ。何て残念な人なんだろう。
「ならお前が相手するか。俺を満足させられる身体になりゃあしてやるよ」
豊満で色香溢れる美女を侍らす国王陛下の姿が脳裏を駆けた。フェロモンをまき散らし、教養も深く手練手管もお手の物。女の美を極めた蝶達と戯れる一匹の雄の姿に、色恋に免疫のないスカーレットの頭は一時停止する。危険だ、身の危険を感じる。そして彼女に対抗する力は、悲しい事に無に等しい。
「も、もげろ禿げろ! 女の敵ー!」
「スカーレット様、それは困ります。世継ぎがまだおりませんので」
(この調子ならすぐにでも出来るでしょうよ……!)
残念ながらそれは難しいと知るのは、もう少し先の話。