Ⅱ.乱入者
優雅に立ち上がり淑女と騎士の礼をする二人を横目で捉え、スカーレットも形だけは彼らに倣った。大またで歩いてくるゼルガは意外そうに片眉をかすかに上げ、小さく微笑を零す。
「何だ、休憩中か」
彼は堅苦しい挨拶は好まない。楽にしろと告げられ、侯爵夫人とシュナイゼルは佇まいを戻した。スカーレットは空いている一人用のカウチに腰掛けるゼルガに視線を向ける。
以前のように、彼は城内を上半身裸+マントでは歩いていない。簡素な白いシャツを第三釦まで開けているが、一応身につけている。シャツの袷から覗く素肌や首元には、誰につけられたのかわからない淫靡な赤い印も見当たらない……。前までは嫌でも目に飛び込んできたのに、確かにここ暫くそれらがなかった。忘れていて気がつかなかったが。
夜の香りを匂わせる姿を隠しているのか、はたまたきっぱりやめたのか。隠す真似など初めからする気がない男だと知っているので、後者の可能性が高い。
淹れ立てのお茶を啜る男は、長い脚を軽く組んで早速寛いでいる。スカーレットには丁度いい大きさのカップも、彼の手の中ではまるで子供サイズだ。あれでは中身もすぐになくなるだろう。案の定、あっという間に彼はお茶を飲み干した。
炎が燃え盛るような真っ赤な髪が一房、うつむきながらカップをソーサーに戻すゼルガの頬にかかる。はらりと落ちた髪が鬱陶しいらしい。彼は右手でざっと掻き揚げた。
骨ばった大きな手だと感想を抱いたところで、ゼルガと視線が交差する。
「何だ、そんなに見つめて。見惚れたか?」
ニヤリと口角を上げた男に、スカーレットは一瞬で顔を赤く染めて――なんて事はなく。嫌そうに顔を顰めた。バリバリと音を立てながらビスケットを頬張る。マナー講座は確実に延長されるなと頭の片隅で思いながらも、ぬるくなったお茶を一気飲みした。
「自意識過剰なんじゃないの? 少し見られた位で惚れられたって勘違いする男、痛いわよ」
「相変わらず可愛げがねーなーお前は。素直にそうだと言えばちったぁ可愛がってやるものを」
「お生憎様、国王様に可愛がってもらいたいなんて思ってないもの」
我ながら可愛くない……とは思わなくもないが、これも本心だ。ツン、と顔を背けるところは少々子供じみているとも分かっている。だが、いきなり気持ちは変化しない。少しは、ほんの少しは、以前と比べれば好意的に見えるようになったのだが、だからと言ってそれが所謂恋とか愛の類まではまだ断言できないのだ。
そもそも恋って何だ。ちらりと呆れ顔のゼルガに視線を戻す。
無精ひげを剃ればもう少し若々しく、そして凛々しくも見えるのに。見れば見るほどやはり残念な男だなと思う。どこかだらしがなく、そして飲んだくれているイメージが容易に想像できた。両手には美女の花。酒を注がせ酒盃を呷り、笑いあう男女の姿……
あれ、何だろう。何故か想像だけで苛立ってきたんだけど。
「それで、何かご用でもございましたの? 陛下。お忙しい中お越しいただくなんて、珍しいですわね」
「ああ、ダンスの練習だったんだろ? 折角だから気分転換がてら練習役になりに来た」
「え?」
「まぁ!」
驚いたのはスカーレットだけではない。質問した侯爵夫人は目を輝かせて、「まぁまぁ! ステキ!」と若い令嬢のごとく興奮している。
まだ休憩時間終了まで少しあったのだが、促されるままスカーレットは立ち上がらせられた。
おのれ、国王様……余計な真似を。まだお菓子食べたりないというのに……
シュナイゼルと踊る恐怖の時間がなくなった代わりに自分の伴侶(候補)と踊る羽目になるとは。幾分か抜けたはずの疲れが再びどっと押し寄せてくる。
「足を踏まれても文句は受け付けないからね」
「お前なら嬉々として足を踏んできそうだな」
ちらりとシュナイゼルに視線を投げたゼルガだが、意図を察した本人は微笑み返すだけだった。
「シュナイゼル様の足を踏むなんて怖い事しないわよ。むしろ緊張で足がもつれたわ」
あの男の足をわざと踏むなど、冗談ではない。そんな恐ろしいことをして自分を追い詰めて、一体何の得になる。当の本人は、「私に任せて、身体を預けてくださいね」なんて甘く耳元で囁いてきたが、それを聞いて更に身を引き締めた。うっとり夢見心地で「はい」なんて言えるはずがない。ぶるりと走った悪寒に感づかれないよう平常心を保つのが精一杯だった。
だが、スカーレットの答えにゼルガは何か勘違いしたらしい。緊張したという意味をどう受け取ったのやら。
彼はどこか面白くなさそうな呟き声を返し、部屋の隅に控えている楽団に目配せする。練習ごときに生演奏……と慄いたのは最初だけ。散々聴いた今では慣れてしまった。王家お抱えの音楽家が一人もいないはずはない。
ヴァイオリンとピアノ、チェロにフルート。十名近くに及ぶ様々な音色が一つのハーモニーを紡ぎ、優雅に響く。ぐいっと手を引っ張られたスカーレットは、そのまま部屋の中央へ。先ほどまでシュナイゼルといた場所に、今度はゼルガと向かい合う。
戸惑いは一瞬。片手を取られ、腰を引き寄せられた。身体が密着し、そのまま流れるようなワルツが始まった。
よく考えてみれば、彼と踊るのは初めてだ。前回のパーティーでは番と公表するだけで終わってしまった。国王と婚約者のスカーレットが踊る事もなく、疲労の為早々に部屋に戻ったのだった。
今後の事を考えれば、彼と踊る可能性は非常に高い。練習しておいて損はないだろう。
平均的な女性よりも背丈は高いスカーレットだが、大柄のゼルガとはそれなりに身長差はある。細身だが長身のシュナイゼルより更に背が高く、彼の方が筋肉質だ。あんなにだらけているのに、現役騎士より筋肉質とは一体どういう事だ。シャツから覗く素肌は、くっきりと割れた腹筋と胸筋。肩も腕もがっしりと逞しい。
相手の身体を意識した途端、羞恥心が湧きあがる。腰に回された腕の力強さと、自分よりも一回り以上大きなごつごつした手に、意識が集中する。そして目の前にはゼルガの太い首だ。くっきりと浮き出た鎖骨のラインは扇情的で、妙な色気が漂う。
また香水の類はつけない男だが、自分とは違う香りがする。体臭と、何かが混じった匂い。意外にもそれが不快ではなく、どこか安心感を与えてくる気がして、ほんの僅かに気が緩んだ。が、すぐにその思考を打ち消す。
(だ、ダメよ! 何考えてるの。変に意識なんてしたらダメだって……!)
手汗が! 心拍数が! 顔に熱が!!
かちんこちんに固まるスカーレットをリードしていたゼルガだが、妙に大人しい彼女に不審感を抱いた。見下ろせば借りて来た猫の如く、緊張しているスカーレット。もしかして足を踏む事を恐れているのだろうか。口ではああも強気な事を言っていたのに。
「おい、別に俺は踏まれても気にしねーぞ。むしろ散々殴ったり蹴ったりしているくせに今更だろ」
ちなみに足も故意に何度も踏まれている。本当に今更な話だった。
話しかけられた事ではっとしたスカーレットは、動揺を隠して視線を彷徨わせる。少し目線を下げればゼルガの胸毛……。前ほど嫌悪しないのも一体何故だ。男臭いとあんなに嫌がっていたのに。
「べ、別に、緊張しているわけじゃ……」
「ほぉ、緊張しているのか」
にやついた声を頭上から落とされ、墓穴を掘った事を知る。踊り続けながら会話は続いた。
「そうかそうか。そりゃいい事聞いたぜ」
「な、何よ!?」
悪戯を思いついた子供が見せる声の弾み方だと思ったのは、勘違いではなさそうだ。くるりとターンをし、ゼルガは楽しげに笑う。
「ならもっと緊張させてみるか」
「はっ!?」
不穏な台詞の後、目配せをし音楽が中断された。踊りをやめた二人に視線が集まる中、ゼルガは壁際に控えていたスカーレットの専属侍女、サーシャに向かって声をかける。
「女官長に後で連絡入れるが、こいつの部屋を移動させる」
大きな瞳をぱちくりと瞬かせたサーシャは、恭しく頭を下げる。寝耳に水の話にその他大勢……と言っても侯爵夫人とシュナイゼルに国王の側近だけだが、彼等は静かに続きを待った。スカーレットだけは口をあんぐりと開け、ゼルガを待たずに問い詰める。
「ちょっと急に移動って何で? ってかどこによ?」
空き部屋ならたくさんある。正直言って無駄だと思えるほどの数が。しかもその上後宮として使われている離れも未だに存在し、そこの維持費を考えるだけでも庶民のスカーレットは眩暈がした。
今は国王の居住区になっている一角の、端っこの部屋を借りているのだが……何だか話の風向きが怖いのと思うのは自分だけか。聞いてはいけない気がする。ぞくりと背筋に震えが走った。
距離を稼ごうと彼の腕からもがくが、がっちり拘束されている為ほどけない。腰を抱かれたまま歩かされ、足がもつれそうになった。支えられている為転ばなかったが。
「どちらに荷物は動かしましょう?」
にこやかに尋ねるサーシャに、ゼルガはあっさり告げる。
「それは当然俺の部屋だ」
流石に結婚前の王と婚約者が寝室を共にするとは思わず、しばし沈黙が流れた。
耳を疑ったスカーレットだが誰よりも早く我に返り、「何考えてるのよぉおー!?」と叫ぶ声が室内に木霊した。




