Ⅰ.変化
第二部始めます
スカーレットが王城に戻ってから早1ヶ月が経過した。王の番、婚約者として公表された直後に起きた事件に、城内が騒然としなかったわけがない。足跡を辿れるから安全などと悠長な事を言えるのは、国王陛下だけだろう。
また、どうやら楽天的に捉えていたのは当のスカーレット本人だけだったらしい。ちょっとした旅行で冒険だと思っていたスカーレットだが、親しくしていた侍女達から、「心配した」「無事でよかった」と泣かれてしまっては、流石に良心が痛んだ。
若干、いや多少「逃げてやる!」という気持ちもあったのだが、それはキレイに隠して「野生の氷華を見てみたくって」と苦し紛れに伝えた。それなら一言教えて欲しいと更に泣かれてしまったが、最終的にはもう二度と無茶な行動はしないと約束をした事で、何とか泣き止んでもらえた。
自分の力で得られた物しか興味がないと、咄嗟に告げた苦しい言い訳に何故か感心されてしまい、彼女のささやかな胸が申し訳なさから痛んだ事は言うまでもない。
また不在中、実は故郷に恋人がいた、駆け落ちした、国王陛下に嫌気が指して実家に戻ったなどの噂が城内で飛び交っていたとコッソリ教えられて微妙な気分になった。駆け落ち……なんて縁のない言葉だろう。偽装の駆け落ちでもしてくれる相手すら思い浮かばず、乾いた笑みがこぼれる。
『女性にも身なりにもだらしのない陛下にいい加減愛想を尽かして出て行ってしまわれた』と大半の侍女は思っていたようなので、完全否定はしない方向で、でもそうではないときっぱり答えておいた。しかしこの男、侍女からもだらしないと思われているのか……。ダメすぎないか、国王様。
その後、宰相からは浅はかな行動を慎むようにと静かに説教され、スカーレットは深く謝罪した。今までの下町で暮らしていたように、のうのうと生きられるは思わぬこと。たとえ城にいても安全ではないのだといい聞かされ、肝が冷える。実際隣国につれて行かれるところではあったのだから、余計頭が痛い。
当然というか、成行きというか。その事は宰相の耳に入り、彼から盛大なため息を吐かれた。美形が額に手を当て苦悩する姿も絵になるのだな、と現実逃避に考えてしまったが、厳しいお小言は素直に聞き入れておこう。反論などしたら余計立場が危うくなる。
若干、少しだけ、「というか簡単に脱走出来たこの城の警備にも問題があるんじゃね?」と思う本音は声には出さずに飲み込んだのに――。その結果がこうだ。
(何でシュナイゼル副団長が私の護衛ー!?)
美貌の宰相は超能力者か何かに違いない。どうやら頭の中を読まれていたらしい。
「そうですね、一理ありますね……」なんて呟いていたのは、気のせいではなかった。
笑顔のまま書庫で試されたあの日から、国王直属の近衛騎士団、シュナイゼル・シュタイナー副騎士団長はスカーレットの苦手な男になった。正直言ってかかわりたくない。腹の中で何を考えているかわからない真っ黒な男の札が張られた今、迂闊に近づくのは危険すぎる。
若い未婚女性が思わずうっとりと見惚れる美貌と爽やかな微笑みの裏には、底知れない怖さと残酷さを併せ持つ。国王陛下に忠誠を誓い、彼を裏切り仇なす者はたとえ番であろうとも決して許さない。そう顔は微笑んでいるのに全く笑っていない目が語っていた。
今思い出すだけで鳥肌が立つし、心臓に悪いこの男が何故護衛役に……。気が乗らなければ適当に言いくるめて部下にでも押し付けそうなものを。嫌な顔一つ見せず引き受けたシュナイゼルが怖くて堪らない。副団長とはそんなに暇なのか? と、数十回目のため息を吐いた。
それにしても、城内で護衛が必要とか笑えない冗談だ。そしてはっきり言ってしまえば、スカーレットの護衛とはつまり監視役。何をしでかすかわからないという認識をあの一件で回りに与えてしまったのは痛い。
シュナイゼルは無駄に行動力が溢れた彼女を、それこそ朝から就寝まで一時も離さず見守り続ける。なんていう拷問。お前も飽きないのか。食事時間も短く休憩時間もほぼない毎日を、よくもまあ耐えられるものだ。
声には出さないが、双方にとって試練であり、また精神的な苦行になっていた。1ヶ月経った今もこれからも、スカーレットは慣れる気がしない。
「私のことは空気だと思えばいいんですよ」
緊張していた初日に言われた言葉だ。そんな存在感がありすぎる空気があってたまるか! と本人に言えたら多少すっきり出来ただろうか。
(せめて、せめて知り合いじゃない誰かだったら……!)
慣れない護衛がいる生活も、まだ疲れを感じないと思う。
数十回願った護衛の交代は、今後も叶えらる気配がない。残念ながら彼を名指しで指名したのは、散々頭を下げまくった宰相閣下なのだ。『多少でも顔見知りのほうが緊張しないでしょう?』と選んだらしいが、嫌がらせの可能性が捨てきれていない。もはや完全に善意からの選択とは思えなくなっている。中性的な美しさが際立つ彼は、その鋭い観察眼から絶対スカーレットの苦手意識に気づいているはずだ。
本当に、副団長とは名ばかりで暇な役職なのでは……
騎士団とは、勤勉、実直、誠実な男達の集まりだと思っている。勿論例外の一人や二人はいても驚かない。彼女は平常心を装いつつも内面は疲弊していた。神経を使うし精神的にどっぷりとダメージを負う。
唯一の逃げ場所は、周に一度彼女の講師を引き受けている侯爵夫人が現れた時だ。前までは優雅な仕草と口調で課題をどんどん増やす姿に内心恐れおののき絶叫していたが、今では心強く思えてくる。ああ、この時ばかりはほっと一安心だ。侯爵夫人が味方についてくれれば頼もしい。何せ母親。当然シュナイゼルに意見できる数少ない人物だ。
「――それにしても、スカーレット様の行動力には関心しますわ。あの陛下を必死に追いかけさせるなんて」
「はい?」
ダンスレッスンを終えた休憩時間。侯爵夫人はカップに入ったお茶を飲みながら、世間話のように会話を振る。
通常休憩時間はマナー講座になる。お茶会に招かれた時の作法を徹底的に叩き込まれダメだしされるので、ほっと一息ついて茶菓子をつまめる気安さはないのだが、今日は好きに会話していいらしい。恐らく彼女自身が喋りたい内容なのだと思うが。
「市井の娘達は男性を振り回す女性の事を、確か小悪魔と呼ぶのでしたっけ? 可愛い年下のレディに振り回される陛下も実に微笑ましいですわ。でも殿方を我慢させ焦らせて追わせるくらいが、わたくしもちょうどいいと思いますのよ」
(え、私って小悪魔だったの!?)
侯爵夫人へ内心ツッコミつつ、慌てて否定する。そんな高度なスキルは持ち合わせてはいない。
「ふふ、陛下が焦った姿なんてあまり想像できませんわね。ステキですわ~愛の為に単身で乗り込み、愛する者を隣国の魔の手から奪うなんて! これぞ大衆娯楽の王道ヒーローですわ! わたくしも出来る事なら陛下の勇姿を間近で拝見させて頂きたかったですわ。何て惜しい。愛が芽生える瞬間をこの目で見られなかっただなんて……!」
「あ、愛?」
そんな物が芽生えた記憶はない。
戸惑う間に侯爵夫人は一人勘違いしたまま、話を進める。
「愛ですわ、愛! スカーレット様も凛々しい陛下の姿に惚れ直されたでしょう?」
「いえ、だから元から惚れてな……」
「そうですわよね、ステキ過ぎて心臓も破裂寸前でしたわよね! ええわかりますわ。あの逞しい陛下の腕と胸板に抱かれながら救出されたら、わたくしだって恋に落ちてしまいそうですもの。あら、主人には内緒ですわよ? 仮に主人と知り合う前だったらの話ですわ。以前のお二人はどこか距離感が感じられてよそよそしかったですけれど、今のお二人は交際直後の初々しい恋人同士に見えますわ。何てステキなのかしら!」
人の話を聞いてくれやしねぇ!
否定する言葉を挟む暇がない。うっとり夢見心地に語る侯爵夫人は、背筋を伸ばしたまま優雅に紅茶を飲み干す。一気に喋り、カップが空になった所で新たなお茶が侍女から注がれた。
「それに陛下も随分と変わられたとか」
もはや食べる事に集中していたスカーレットは、新たなビスケットを手に取ったまま首を傾げた。あの男が変わった? 一体どこだ。
「あら、以前のように頻繁に朝帰りはしなくなっただとか」
「ああ、そういえばそうですね」
「城内の秩序を乱す格好で出歩かなくなったとか」
「最近はあまり裸マント見ない気がします」
「それに花街通いもピタッと止まったんですってね?」
スカーレットのビスケットを食べる手も、ピタッと止まった。直接確かめた事はないし、今までだって問いただした事はなかった。だが、そういえばと思い当る節がある。朝にゼルガと会えば香水の残り香を身体にしみつかせる事も、また情事の痕跡を肌に残してきた事もあったのだが、ここ最近それがない。
元からあまり気にしてこなかった……というか恥ずかしいから考えないようにしていた事を、流す事なく改めて考えてみれば。戻って来てからの1ヶ月は、健全な生活を送っている……のだろうか?
だがだからこそなのか、侯爵夫人と少し離れた場所で無言で佇んでいたシュナイゼルから、意味深な視線を向けられた。気の所為でなければ、少し憐れみや同情が混じった眼差しな気がする。
小さく嘆息した侯爵夫人は、じっとスカーレットを見つめる。
「その我慢の反動を全てスカーレット様が背負う事になると思うと、少々不安になるものですわね……。いえ、手加減してくださるはずだと信じておりますが……」
「今まで通り娼館に通ってくださっていた方が、ある意味スカーレット様の身の安全は守られていたと言えますね」
さらりとこの親子は怖い発言をした。思わずお菓子を喉に詰まらせる。有能侍女がさっと水が入ったグラスを渡してくれた事で、すぐに苦しさは治まった。
落ち着きを戻すと、スカーレットの顔が次第に真っ赤に染まる。
「な、な、なんで……!? 何でそんな怖い事言うんですかー!?」
つまり。外で発散しない場合の欲望は全て自分に向けられると。
あの歩く公害で変態で、体力のありあまっている男が本能を抑え、我慢を重ねた挙句ギリギリで爆発すればどうなるか。考えただけで恐ろしい。恐ろしさからぶるりと背筋が震える。
「陛下は竜ですからね。わたくし達よりも人一倍本能が強いお方ですし、その分欲求も強いですもの。我慢を続ければそれこそ限界が来た時が少々不安ですが……大丈夫ですわよ。無体を強いるお方じゃありませんわ!」
「そうですね。それにスカーレット様はまだ成長途中ですから。すぐに手出しされる事もないかと」
それは励まされてるのか?
シュナイゼルに至っては、ゼルガが好む成熟した女性とはくらべものにならない為、まだ食指が動かないはず、と言っている。成長途中とは妃や番候補としての話ではない。直接的な意味で言いやがったと、スカーレットの頬は軽く引きつった。
どうしよう、不安だ。何か言われた事も行動で示された事もなく、甘い空気が流れた事もないのだが。何かあの男の心境を変化させてしまったのだろうか。正直よくわからない。
自分から「どうぞ娼館にでも行ってください」とお願いしたら少しは身の安全が守れる気も……などと、バカげた事にまで思考が飛ぶ。
甘い物を摂取しているはずなのに、休憩中のこの疲労感。何だろうかと疲れ気味に内心嘆けば、扉のノック音が響いた。侍従が現れ、その後ろにはまさに噂をすれば影――。話題の人物が顔を出す。
「げぇっ……」
咄嗟に呟いた声は運のいい事に、「まあ! 流石番ですわ!」とはしゃぎ始めた侯爵夫人の声によってかき消され、周囲に聞こえる事はなかった。




