Ⅱ.失態
アルメリア大陸の西の果て。
峻険な山脈に囲まれ、頂には万年雪が降り積もる自然の要塞に守られし場所に、小さくはない国がひっそりと独自の文化を築いている。
大陸一の大国の、約四分の一分ほどの国土。人口はおよそ五千万人。国の名前は、リーゼンヴァルト王国。
豊かな大地と澄んだ水に恵まれしその地は、かつて竜が降り立った国と言い伝えられていた。
建国から早数千年。数あるアルメリア大陸の国の中でも、一、二を争う古い歴史を持つ国だ。
この国では竜による神話が語り継がれる。
曰く、建国の王は人ではなくて竜だった、とか。
荒れた野にどこからともなく現れた竜が降り立ち、竜を慕う精霊が大地を潤わせ、緑豊かな地へと生まれ変わった。
時代と共に竜の姿は人に変わり、人として生きる術を身に着けた。
険しい山に包囲されたこの国は、外部から一切の接触を持たず、恐らくアルメリア大陸の地図にも存在していない。未だに外から山脈を越えた者はおらず、この国は外部から存在を消していた。そして古の竜が作りし結界に、現在も国民は守られ続けている。
竜は人に紛れたまま、ひっそりと血族を絶やさず生き続ける。侵略に怯える事もなく、独自の文明を発展させ、数千年の月日が流れた。
今ではかつて、この地に竜が棲んでいた事など、信じる人間は無に等しい。
◆◇◆
「なあ、先生が言ってた神話の話。この国作ったのは竜だったって本当かな?」
「さあ? ただの迷信だろ。神話なんてそんなもんじゃね?」
あはは! だよな~、と笑いながら通り過ぎる元気な子ども達の会話を聞いて、テーブル拭きに勤しんでいた少女はぴたりと止まった。
大衆食堂を営む姉夫婦と同居しているスカーレット・メイゼンタールは、窓の外から聞こえる賑やかな喧騒に、時間を確認する。
「あれ、もうそろそろ正午か……」
日課である掃除に没頭していたあまり、時間の感覚が薄れていた。軽く前掛けのエプロンをはたき、テーブルを拭いていた布巾をたたむ。
少女と言っても通じる外見に反して、スカーレットは既に二十歳を超えている。このリーゼンヴァルト王国で結婚適齢期と呼ばれるお年頃の年齢真っ盛りの彼女は、今年で二十二歳。
十代後半で結婚した姉と違い、現在恋人と呼べる特別な相手はいない。周囲が幸せをつかみつつある中で、スカーレットはマイペースに楽しく毎日を過ごしていた。
「あら、スカーレット。あんたまだ店にいたの? とっくに着替えて出かけてるんだと思ってたわ」
「姉さん」
金色の巻き毛が麗しい姉のエメルダは、六歳になった娘を連れてスカーレットに声をかけた。
動きやすい普段着に前掛けのエプロン。髪は適当にひっつめて、手には布巾を持った妹を見やり、思わずため息が漏れる。
「あんたね、今日は建国記念日のお祭りでしょ。例年と違って今年からこの日は一日休む事にしたって伝えてあるじゃない。折角のお祭りなんだから、あんたもオシャレして楽しまないと。今年こそは国王陛下のスピーチにだって聞きに行くんでしょ?」
「え~、お祭りでお酒飲めるのは楽しいけど、別にオシャレはしなくてもいっかなって。陛下のスピーチだってわざわざ顔を観に行かなくても、スピーカーで聞けるじゃない。正直そこまで興味ないし」
聞きようによっては不敬罪とも捉えられそうな発言だ。だがこの場には彼女の姉と姪しかいないので問題なしである。
「あんたそう言って一度も行った事ないでしょ。まったく、国中探しても国王陛下の顔すら知らないのはあんただけよ? 一年に一度、貴族でもない私達でも顔を拝めるチャンスだってのに」
「いや、だから別に興味がないし」
絶世の美男子! という噂も、かつてはという話なので、今はどうなっているのかわからない。恐らく周りのはしゃぎ具合から、かなりの美丈夫にはなっているだろう。そもそも国王陛下は御年いくつだったっけ? という関心の薄さだ。三十は過ぎてそこそこの年齢で未だ独身。若い娘が憧れる気持ちも、まあわからなくはない。
だが色気や恋愛より食い気と酒に走るスカーレットは、その例外の部類に属する。着替えるのも面倒だなと己の服装に目を落とした。
「ねえ、これじゃダメ?」
「当たり前でしょ! 折角この日は未婚女性にとって絶好の出会いの機会だっていうのに。オシャレしないでどうするの。ちゃんと髪も結って、赤いリボンつけるのよ」
うえぇ~と嫌そうな顔をするスカーレットに、くりりとした丸い目が可愛い姪のエミリーが「レッティ、はい」と真紅のリボンを差し出した。反射的に受け取りお礼を告げた彼女は、細めで光沢のあるリボンを見つめ、エメルダに「これは?」と尋ねる。
「エミリーが選んだのよ。あなたにはこの色が似あうって」
「ええ? そうなの? ありがとう、エミリー」
にこにこ満面の笑みを浮かべる幼い少女の頭をそっと撫でた。姉に似た眩い金髪。十年もしたらこの赤はきっと映えるだろう。
親子の血縁が一発でわかるほど、姉と姪はとても似ている。ハニーブロンドの巻き毛はゴージャスで、こんな王都の端っこで大衆食堂を営んでいるようには見えない。独身で恋人募集中という意味の赤いリボンを身に着けて出歩いていたエメルダには、毎日のように求婚者が殺到したものだ。
ふとスカーレットは胸元にある自身の髪を一房すくう。姉とは似ても似つかない、地味でありふれたこげ茶色。赤みを帯びた茶髪に真紅は同系色なので正直目立たない。赤いリボンを付けても、姉ほど映える事はないのだ。
だが今日は一年に一度のお祭りだ。折角なので、確かにオシャレして美味しい食べ物でも食べつつ、お酒を飲んで騒ぎたい。
「今日は帰って来なくても心配しないから、存分に羽伸ばしてきなさい~」
にやにや笑う姉を背に、スカーレットは何とも言えない顔をしつつも、素直に返事を返した。よし、そっちがそのつもりなら、思う存分遊んでやれるわ。遊ぶ、の意味が勿論エメルダが思っている意味とは異なるが。
早速彼女は身支度を整えて、親友に会いに行ったのだった。
「珍しくちゃんとリボンつけてきたのね」
出会いがしらに関心したと呟く親友に、スカーレットはふふんと微笑み返す。タレ目が可愛らしい親友のレイラだ。彼女はミルクティー色の髪に、赤いリボンを複雑に編み込んでいた。いつ見ても器用に髪を結いあげているレイラを見て、スカーレットは感嘆する。
「私無理。くくっただけでも及第点欲しい」
「それじゃすぐ解けるわよ? 仕方ないからやってあげる」
その場で手早く髪を弄られた。左右の髪にリボンをふんわりと編み込んだ髪型は、どこか少女めいているのに年相応の大人っぽさも秘めている。分け目が横だからかもしれない。きっちり結わない所がポイントなんだと力説され、手鏡で確認したスカーレットはお礼を告げた。
「陛下のスピーチは十四時からだし、それまではまず腹ごしらえよね」
「私、串焼き食べたい。あと揚げ餅と焼き菓子と、勿論酒も」
「屋台混んでるわね~。とりあえず片っ端から行きましょう」
好き放題歩き回り店を梯子した後。行きつけの酒屋に到着した。お祭り用として売られている果実酒を買いに来たのだ。ついでに店の空いている席をお借りして、屋台で購入した食べ物も食べつつ休ませてもらう。
「嬢ちゃん達、いい食いっぷりに飲みっぷりじゃが、番探しはいいのかね」
両手いっぱいに食べ物と飲み物を抱える二人を見て、店の店主はつい口を出す。口ひげが豊かな祖父世代の男だ。若い年頃の未婚女性二人が、一年に一度の大きな出会いの場を、食べ歩きだけで終わらせてしまっていいものかと嘆いている。
建国記念日のこの日は各地から王都に人が集まることで有名だ。王のスピーチを直接聞きに来る目的ともう一つ。番探しである。
「いいのいいの。番って言ったって、そんな運命の相手はそうそう見つかりっこないって」
「恋人=番ってわけじゃないしねぇ。出会えば一目で番だとわかるなんて言われてきてるけど、私の周りじゃ確証持って番を見つけられた人、いないわよ」
祭りだし、とりあえずリボンはつけて参加する。でも目的は伴侶探しよりこの日しかめぐり合えない珍しい食べ物と酒だ。そう言いきったスカーレットとレイラに、店主はそっと嘆息した。若いのに何て枯れている。
「まあ、いいさ。好きなだけ食べて満足するんじゃな」
「はーい。おいしかったわ。ごちそうさま」
チャリン、とコインを渡し、支払いを済ませた。手には店主に売って貰った林檎酒を持って、再びにぎやかな店を見て回る。
可愛らしい小物が売られた雑貨店で、レイラは小さな赤い竜のぬいぐるみを手に取った。
「ねぇスカーレット。この子あんたに似てない?」
「は? いくら私の目つきが鋭いからってそれはないでしょ!」
小動物を彷彿させるレイラと違い、スカーレットの顔つきは確かに少々きつめだ。可愛いというより美人。平均的な身長にスレンダーな体型。顔立ちも平凡だが、きちんと化粧を施し着飾れば、随分と印象が華やかに変わる。姉のエメルダとの血筋を感じるくらいには。が、気づいていないのは本人のみ。
丸々とした竜のぬいぐるみは、にやりと笑う牙が鋭い。どこか愛嬌のある顔だが、これは子供に好まれるのか少々疑問だ。
「竜ね~。そういえばさっきも子供達が、竜の言い伝えが本当かどうかって話してたけど。そんな何千年も昔のことなんて神話レベルよね」
「言えてる。○○跡地とか、竜の祠とか、それっぽい名前の場所もあるっちゃあるけど、完全に観光地になってるし。一番信憑性があるのは、竜が棲んでたっていうあの霊山?」
背後を指差したレイラは、くっきりと存在を見せ付ける峻険な自然の要塞を指差した。一際高い山は、霊験あらたかな霊山と呼ばれている。山の頂は雲で覆われていて見えない。ぐるりとこの国を囲む高い山々があるからこそ、この国は他国から守られていると言われているが、スカーレットにしてみれば逆にそれが理由でこの国は国交ももたず、取り残されていると思う。
「何だっけ。竜の生き血が荒れた大地を潤わせ、竜の咆哮があの山脈を作ったんだっけ? その後に精霊がなんたらかんたらって学校で習った気が」
「あんた歴史の授業じゃ寝てたもんね。一夜漬けでよく卒業できたわよ」
ふにふにとしたぬいぐるみの触感を味わった後、元にあった位置に戻す。呆れた眼差しでスカーレットを見やったレイラだが、店員から話しかけられすぐに愛想のいい笑みを向けた。
(ぶさいくな赤い竜ね~……)
牙は鋭いのに舌がぺろりと出ている。どこかアンバランスな竜は、きちんと座ることもできないらしい。こてんと倒れ、見かねたスカーレットはぎゅむっと上から押さえつけるように再びその場に竜を座らせた。
「そろそろスピーチの時間かしら」
大通りに出ると、ざわざわとした喧騒が激しくなる。落ち着かない様子ではしゃぐ若い少女達が目についた。若いわ……。数歳しか変わらないはずなのにあの若さ。若干羨ましい。
国王陛下が顔を見せる広場へ向かう途中、スカーレットはレイラに訊ねた。
「ねえ、やけに女の子達がはしゃぐのって、やっぱり陛下の所為?」
「他に何があるってのよ」
あ、また呆れた眼差しで見られた。
仕方ないじゃないか、いつも人ごみは避けてた為、毎年この周辺には近寄らなかったのだから。
「スカーレットってそういえば陛下の顔、見たことなかったんだっけ? 信じられない」
「チラッと新聞に載ってるのを拝見したくらい? そんなにかっこいいの?」
「あの子らのはしゃぎようを見ればわかるんじゃないの? まあそろそろ出てくるだろうし、自分の目で確認すればいいわよ」
熱心に髪や衣服を整えている少女達は、まさか陛下の寵妃にでもなるつもりなのだろうか。
え、冗談でしょ? いくら独身だからって狙いすぎじゃね? もっと身近を狙えよ。彼女達に熱い視線を送る少年達が不憫に思えてくる。恋とは違う憧れなのかもしれないが、あのくらいの歳の少女は騎士団のおじさまたちを見ても「ステキ!」とはしゃぐ。
「レイラはおじさまの伝で誰かステキな婿候補を騎士団から選べないの?」
彼女の父親は、竜騎士団の中でも重要なポジションに就いているのだ。部下の中からいくらでも将来有望で息子にしたい青年がいるのではないか。
「私、騎士には興味ないんだ~。もっとひょろっとした男性が好きなの。筋肉はいらない」
げんなりした顔つきを見ると、むさ苦しいと思っているのがありありとわかった。何か嫌な記憶でもあったのだろう。優男風の貴公子がレイラの理想の男性らしい。
この国での平均的な結婚年齢は二十歳から三十まで。平均寿命が150歳ほどの彼等にしたら、それでも早いほうである。ただし、番を見つけられなかった場合だと離婚歴も多い。番同士の婚姻は、生涯伴侶が代わることはない。だが番ではない婚姻は――これが大多数なのだが――、離婚と再婚も珍しくないのだ。
他国の事情など鎖国された国では知る由もないので、他の人間の平均寿命が半分程度ということもリーゼンヴァルトの国民は知らない。祖先に竜の血が混ざっているからという理由も、当然ながら竜は神話、御伽噺の生き物と思っているため、誰もそこには気がつかないのだ。
広場には既に大勢の人が集まっている。各地方から鮮やかな伝統衣装を身につけ駆けつけた国民が、陛下はまだかまだかと心待ちにしていた。
色とりどりの衣装で広場が埋まるのは、この時くらいのものだろう。原色から淡い色合いのものまで、男女共に色を纏う。白や黒、茶色といった無難な色合いを身につける者は一人もいない。
スカーレットもこの時ばかりは真紅のワンピースを身につけていた。膝丈までのワンピースは、頭からすとんと被れる物。腰紐でキュッとウェストを絞り、裾はふんわり。この国にコルセットのような物は存在しない。また脚を出すのははしたないという意識も、彼等の間には浸透していなかった。
機能性と楽さに華やかさを重視した格好。これらも元は祖先が竜だった為窮屈なのは好まないという本能が働いているのだが、竜は神話、御伽噺の生き物と思っているため――以下略。
ざわざわした喧騒がぴたりと止んだ。広場の前方には、白亜の宮殿のような建物。その奥には王城に続く扉があるとされている。いわば前方の建物は城にとっての砦で、門の役割を果たしている場所だ。同じく役場として機能もしている。
その建物の屋上に、人影が現れた。四階建ての高さから見下ろすように、数名の人間が姿を見せた。真っ赤に燃える鮮やかな髪に、深い真紅の軍服を纏った中央の人物を見た瞬間、方々から歓声が湧きあがる。
蕩けそうなほど熱い眼差し(主に若い未婚女性から)を一身に受ける人物こそが、リーゼンヴァルト王国の国王陛下、ゼルガ=ヴォルフリート・リーゼンヴァルト。鋭い眼光に野性味のある精悍な顔立ちは、まさに美丈夫という呼び名に相応しい。たくましい均整のとれた体躯から、男の色香が滲み出ている気がする。
うっとりと見つめる中、ただ一人スカーレットはぽかんと口を開き目を瞠った。
彼女の目には、国王の背後に控える人物すら映らない。
光沢のある肌は陽光をキラキラと弾いている。巨大な体躯に鋭い金色の眼光。少しでも口を開けば、牙が見えそうだ。また広場全体に重低音の咆哮が轟いてもおかしくはない。
一人呆然としたまま、スカーレットは思わず呟いた。
「ってゆーか、あれって竜じゃない?」
――その呟きこそが、彼女を非日常へ引きずり込んだきっかけだと、この時の彼女はまだ知らない。