Ⅻ.誘惑
リーゼンヴァルトの国花は鈴蘭だ。建国当初、荒れた大地に最初に芽吹いたのが鈴蘭の花だったそうだ。
初代国王がいたく気に入り、その後国花に認定され、数千年経った今でも変わらず国民に愛されている。中でも香油は一番種類が豊富で、幅広く使われていた。
しかし白く小ぶりな花は可憐で純真な乙女のようだが、見た目とは裏腹に毒花である。
可憐で無垢な乙女が抱く裏の顔。ただ美しくしとやかなだけでは務まらない王族の正妃に、昔から時折例えられてきた。
一般人が食らえば猛毒でも、竜ならば体内で解毒が出来る。毒を食しても毒にならず、それさえその身に受け入れては抵抗をつける。
竜とは何者にも屈しない、人とは一線を画した者。この国全体が箱庭と称したとおり、竜族の王は全てを受け入れ全てを見通す力を持つ。
「驚きましたな、王よ。まるで興味がなかったあなたが、この場であのようなことをなされるとは」
ニヤニヤとからかう老齢の男は、しっかり杖で身体を支えゼルガを見上げる。好々爺とした雰囲気につい心を許しそうになるが、余計なことは喋らない方が賢明だとゼルガはわかっている。既に隠居の身だが、先代の王の時代から側近としてこの国を支えてきた男の一人だ。
「うるせーよ、セオドール。単なる気まぐれだ」
「おや、気まぐれでそんな重大なことをされるほど、我が王は愚かじゃったかの?」
「知るかっ」
苦虫を噛み潰した顔でゼルガは黙り込む。豊かな口ひげをなでる男には心の奥が全て覗かれているようで、落ち着かない。
先ほどの行為……いや、その前の紹介から、自分はどこかおかしかったとしか思えなかった。威勢がよくうるさい小生意気な少女に、女としての魅力を感じたことはない。
スカーレットはゼルガの好みとは正反対だ。性的な魅力に欠け、まだまだ青く精神的にも未熟。ぎゃんぎゃん吠えるし、半裸で歩くだけで顔を真っ赤にさせて憤慨する。番候補として手元に置いてはいたが、ゼルガ自身にも彼女が本物かは半信半疑だった。
だが、着飾った姿で現れた瞬間――、目が奪われた。真紅のドレスに身を包んだスカーレットは、がさつで女らしさの欠片もない普段の彼女とは比べ物にならない。
美しく結い上げられた髪はより大人っぽく、うなじをきれいに晒している。首から鎖骨のラインは華奢でどことなく庇護欲を誘い、そして二の腕は適度な肉がほどよくついてて柔らかそうだ。
貧相だとばかり思っていた胸元は――実際確認した時は確かに残念だったが――、慎ましいながらも形がよく禁欲的な色気を醸しだしていた。腰は細くくびれており、尻にかけての曲線はなかなかそそる物がある。
タイトなシルエットのドレスは着る者を選ぶだろう。細身の彼女だからよく似合う。太ももから緩やかに広がるドレープは上品で華やかだ。
自分を見上げる眼差しは、疲労の色が濃い。いつもの騒がしさは消え、逆にしっとりとした大人の印象を与えていた。濃いめの化粧と真っ赤なルージュが余計そう思わせるのか。
ここまで化けるとは。女とは恐ろしい。まだまだ未熟だと思っていたが、そう思っていただけらしい。
隣りを歩くスカーレットから、かすかに鈴蘭の香りが漂う。香油か何かを使ったのだろう。国花である鈴蘭は、竜が好む匂い。控えめで甘いその香りに理性が揺らいだが、確実に花の所為だけではない。
認めたくはないが、スカーレット自身から漂う色香に一瞬惑わされそうになった。その白いうなじは毒に等しい。
自然な動作で彼は彼女の肩を抱く。そして口から飛び出た紹介も、全く意識していない物だった。
番候補ではなく番と公表した後の、あの行動――。花に引き寄せられた虫のように、漂う色香にあてられた彼は無意識にそっと……がぶりと、彼女の首筋に噛みついた。
驚いたのはスカーレットだけではない。ゼルガ自身も、この行動には驚いた。一瞬で平然を装う事ができたのは、腐っても王だから。
そして零れた言葉は、その時の自分の行動を取り繕う物だが、同時に自分にもそうなのかと問いかける物だった。
噛まれた張本人は頭が真っ白になったまま動かなくなったが、それ幸いと椅子に座らせ話を切り上げる。首筋を噛む意味を彼女はまだ知らないはずだ。今すぐ教えてやる事もない。それは少しばかり、しゃくだった。
「さてと、一体何人の者が、その意味に気付いたかのぉ~」
食えない顔で笑うかつての王の右腕に、ゼルガは苦虫を噛み潰したような顔をした。これで暫く弄られると思うと、ため息が漏れる。
「さて、混乱中の嬢ちゃんに一声かけてやるか」
「まてジジイ。余計な真似はするんじゃねーよ」
「ほお? 王が狼狽えるとは。なかなか可愛らしい反応をする。何じゃ、自分から告げたいのならそう言わんか」
そうとは言っていないが、時期が早すぎる。そして自分の無意識の行動をまだつかめきれていないのだから、大人しくしておいて欲しい。
ちらりとゼルガは広間の一角で招待客に囲まれるスカーレットを見やる。同年代と思しき貴族のご令嬢に質問攻めにあっているのだろう。にやりとゼルガの口角が上がった。
「何だ、早速仲良くなったらしい」
「おぬしは意地が悪いぞ……。仲良くが黒く聞こえるのは儂だけじゃないはずじゃ。そんな時ばかり笑みを浮かべおって」
「何言ってやがる。自分で何とか切り抜けられなければ、この先が思いやられるだろう。ここで叩きつぶされるならそれまでの器だ」
おお怖い、と呟いたセオドールは、用事を思い出したとかでどこかへ消えた。ゼルガも真面目に仕事に戻りながら、なおスカーレットの様子を確認する。
緊張しつつも笑顔を浮かべる彼女と、彼女の傍に近寄った親しげな雰囲気の女。知人か友人だろうか。その姿を見とめたスカーレットは、素直に喜びを見せた。
「陛下、体調でも優れないのですか?」
「……いや、問題ない」
挨拶に来た男に心配された。
怒らせてばかりの為、ゼルガは笑顔なんて見たこともない。別に見たいわけじゃないが、何故かモヤモヤとした気分になる。
あんな顔も出来るんじゃないかと思うと、自然と眉間にしわが刻まれた。生誕祭という名の交流会および領主との報告会は、始終気分屋の男の顔色を窺いながらの、実に気を遣う場になった。
◇◆◇
促されるまま広間に降り、つつがなく終わらせたいスカーレットを取り囲んだのは、まだ若い貴族のご令嬢。歳は二十歳前後というところか。
左からランドルフ侯爵家のアリアナ嬢、オーコナー伯爵家のミランダ嬢、シュタインベルク伯爵家のスザンナ嬢に、ソレンセン子爵家のアレクサンドラ嬢。優雅に自己紹介されたが、既に初めに紹介された方の名前を覚えていない。主要な貴族の名前は、まだ勉強中だ。
引きつりそうな顔を何とか抑えて、スカーレットは麗しいご令嬢のおしゃべりにつき合わされていた。
「陛下のお相手がようやく見つかったなんて光栄ですわね。生誕祭と合わせて、喜ばしいですわ」
「ええ、しかもこのような美しい方なんて。陛下ってば面食いですのね」
「あら失礼ですわ。外見だけではなく、勿論内面も美しいから選ばれたのですわ。ねえ、スカーレット様?」
口々に笑顔で祝い話しかける彼女達に、スカーレットは戸惑うばかり。本心からそう思っているのかはわからない。
可愛らしいお嬢様方が本当に可愛いだけとは限らない。とんでもなく切れ味抜群のナイフを隠し持っている可能性もあるので油断は禁物だ。
「しかも先ほどは素敵でしたわ。とても溺愛されているようで、羨ましい」
「ええ、堂々と牽制されていましたものね。愛されてますのね、スカーレット様は」
「……、ありがとうございます」
ダメだ、もはやお礼を返すことしか出来ない。何か喋ればどこかでボロが出る。あれは確実に嫌がらせだろうと言いたいのをぐっと堪えて、無難に相槌を打っておいた。もうさりげなくどこかに避難してしまいたい。
と、金髪の巻髪が麗しい美女のアリアナ嬢が、さりげなさを装って切り込んでくる。
「それで、お二人はどちらでお知り合いになりましたの? わたくし、メイゼンタール家に聞き覚えがなくって、お二人がどうやって出会ったのか、見当もつきませんの。貴族の名前は頭に入っているはずなのですが、お恥ずかしながら勉強不足で申し訳ありませんわ」
口調は柔らか。だが探る空気に一瞬で居心地の悪さが増す。
彼女達はスカーレットが貴族ではない平民だと気づきながらも訊ねて来る。家柄がつりあわないと糾弾してくるのだろうか。
正直それならそれで構わないのだが。この厄介な居場所から解放されるのならば、むしろどんどん異を唱えてくれていい。
にっこりと微笑み、スカーレットは告げた。
「ご存知ないのも当然ですわ。うちは一般家庭の平民ですので」
腐っても教育を受けている貴族。驚愕も蔑みも露にはしない。だが、平常心を装いつつも侮りが滲む。
「そうでしたの。でもそれなら、大変ですわね? いきなり王妃に望まれるだなんて……。わたくしたちでよろしければいつでも力になりますわ」
「ええ、貴族社会にいきなり順応するのは苦労しますものね。お力になれると思いますわ」
味方か敵か。味方はほしいが、彼女達は味方にはならない。むしろ善人を装い貶める側に回りそうだ。
解放してくれるなら利用されてもと一瞬でも思ったスカーレットだが、はっきり言おう。彼女達の手助けは欲しくない。表面上は良く言ってても、自分の存在を面白く思っていないのが伝わって来る。落とし穴を嬉々として掘りまくる女性の傍は余計危険だ。
「皆様のお心だけでありがたいですわ」
無難に断り文句を告げた後、背後から自分を呼ぶ懐かしい名前が聞こえた。
「スカーレット」
まあ、婚約者のスカーレット様を呼び捨て? と眉を潜めたご令嬢を退けてやってきたのは、ミルクティー色の髪をこれまた複雑かつきれいに結い上げた親友のレイラだった。薄紫色のドレスがとてもよく似合っている。
「レイラ?」
着飾った親友は黙っていれば誰もが認める美女だ。可愛いと評されることが多い彼女は、ふんわりと周りを牽制する笑みを浮かべる。
「アリアナ様、ミランダ様、スザンナ様、アレクサンドラ様、ごきげんよう。わたくし、彼女と個人的な話がありますので、失礼させていただきますわね」
あっという間にスカーレットはレイラによってその場から連れ出された。ここに来てようやくほっと安堵できた瞬間だった。




