しゅいろ
飼い殺しの主とその幼い侍女。たぶんほのぼの。
※「月一回の流血」など性的要素への言及が少々あります。苦手な方はご注意下さい。
※序盤は少し読みづらいかもしれません。すみません。
「わたしは、あなたをわずらわしません」
それが、わたしが言いふくめられた主へのあいさつ。どうしても舌足らずだったけれど、それ以外に言うなときびしく言われていたから、わたしはひたすらつづける。
「だから、おつかえすることをおゆるしください」
言いおえるとどっとつかれたような気がして、頭を下げながら目をとじる。
こちらを見ているようで見ていない目が、ただこわかった。
使用人頭が何かとりなしているようだったが、よく分からない。
いらないと言われたら、どうしよう。それだけで、頭がいっぱいだった。
このうつくしいひとに、みんながこまっていることは聞いていた。そこへつれて行かれるということはやっかいばらいでしかない。わたしは、おくさまにきらわれているから。もしかれにだめと言われたら、そのまま放り出されるんだって、そう言われていた。
なきたかったけれど、このうつくしいひとはわずらわしいことがきらいだと聞かされていたので、ぐっとがまんした。かんだくちびるが、いたい。
「……許そう」
やがて、きれいな声で、かれは言った。
思わず顔を上げてしまったわたしは、すごくまぬけな顔をしていたのだろう。
「許そう。その誓いを守れるならね」
にこりとも笑わず、そのままくるり、せなかを向けて歩き出したかれを見て、ついていかなければならないんだと分かった。
あわてて使用人頭に頭を下げ、足りない歩はばでせなかをおいかける。
おたがい名のることすらしないまま、かれがわたしの主ときまった。
名門といわれる一族の中でも、主――青鹿さまは奇異な存在だった。
何でも、傾城と呼ばれる体質の持ち主だそうだ。ただ美貌なのではない、彼の意思は無関係に、老若男女問わず魅了し惑わしてしまう。わたしには詳しく知るよしもないけれど、青鹿さまが幼い頃は大変だったらしい。青鹿さまを一目見た使用人たちが浮ついて仕事にならないわ、青鹿さまが何処かお出かけになる度に色恋沙汰に狂う人物を増やすわ、当時は常に騒動の種だったとか。先代のご当主さまも持て余し、屋敷の離れへ実質幽閉することになったという。青鹿さまが煩わされることを嫌い、周囲に対して無関心になられたのもその辺りのごたごたがあったから、らしい。
わたしはほんの幼い頃から仕えている所為か、青鹿さまの体質に振り回されることなく、彼の傍を許されていた。
「ねえ、お前」
「あ、はい、書物ですね!」
掃除中だったが、青鹿さまに声を掛けられて箒を置き、先程本邸のほうから運んできた荷物を解く。
青鹿さまは、体質さえなければとご当主さまをして嘆かせるほど聡明なお方で、外に出られない生活の中でも知識には貪欲だった。
「あと、お前もおいで。掃除はあとで良い」
「はい!」
返事が弾んだ声音になってしまう。分かっているけれど、わたしは嬉しさを隠せなかった。
青鹿さまの書斎に入り、書物と反故紙の束を広げる。書物は青鹿さまが普段読んでいらっしゃるものとは字の大きさも随分違う、手習い用だ。
「今日はこの辺り、出来るようになるよ」
「はい!」
わたしが字を読めないことを知った青鹿さまは、それでは荷物をやり取りする際に不便もあろうと、時間を見つけては教えてくれるようになった。読み書きだけじゃない、難しい言葉を少しくらい使えるようになったのは、主のおかげだった。周りに煩わされることを何より嫌う青鹿さまだったが、自分が必要と考えたことはおろそかにしない。少しずつ、知らないことを教わる時間は、わたしの何よりの楽しみになった。
他人に関心が無く、妙な体質で、飼い殺しにされるしかない主だと、他人は言う。だけど、わたしは、青鹿さまの傍仕えを、苦痛だなんて思ったことはなかった。
殊更に優しくしてもらえるわけじゃなかったけれど、温かみが無いわけは無かった。置いてもらえるだけで充分だったのに、知らないことをひらく術すら、もらえた。わたしが青鹿さまを慕うのは、そのひとつだけでも、理由に充分だった。
充分だった、のに。
「ねえ、お前」
「あ、はい、書物」
「違う」
洗濯中に呼び止められて荷物を解きに行こうとして、けれど青鹿さまに遮られた。
「お前、私の傍仕えを辞めるの」
びくん、と肩が跳ねた。それが肯定だと伝わってしまったのだろう、青鹿さまが小さく息を吐いた。
「私に回されたぐらいだから、此処から外れたらお前の行き場なんて無いだろう?」
それは、使用人頭にも言われたことだ。お前が悪くないのは分かっているけれど、青鹿さまの世話係でなくなったら、もう放り出すしかないよと。
「お前、分かっているんだね。それでも、良いの」
良くない、ちっとも、良くない。
もう少しで取り乱してしまうところだった。淡々とした声音に含まれたのが、温情だと分かってしまったから。
思い返せば、五歳でこの人を主にして、七年。毎日傍に仕えて、文字を教えるようにもなったわたしに、少しは情を移してくださったんだろう。
「だめなんです」
「何故」
「わたし、そ、その、月のものが」
何とかそこまで口に出すと、青鹿さまは一拍置いて、ああ、と呟いた。
「わたしが青鹿さまにお仕えできたのは、童だったからで。でも、そうじゃなくなったから」
頭の中でならもっと上手く言えるのに、口に出せるのは拙い拒否ばかりだった。
何もできない童だから、色事なんて分からない幼子だから、青鹿さまに仕えられるのだろうと、そういわれていた。だから、身体の成長を思い知らされて、怖くなった。
「もし、わたしが青鹿さまを煩わせるようになったら、だめですから」
行き場が無いのは怖い。放り出されたら、わたしはきっとまともな生き方なんて出来ない。
だけど、青鹿さまに拒絶されるのが、一番怖い。
わたしは、多分実の両親よりも、青鹿さまのことを慕っている。
だから、もし青鹿さまに煩わしいと思われたら、わたしはきっと凍えてしまう。それぐらいなら、温かさをずうっと抱き締めたまま、野垂れ死んだほうが遥かに上等だと思えた。
「だから、辞めます。誓いを、破らないためにも」
ぎゅっと目を瞑って、言い切る。
そう、ならばしょうがないね、と言われると思った。それでいいと思った。
「……全く。そういえるなら、問題ないだろうに」
「青鹿さま?」
予想していたのと全然違う、よく意味の分からないことを言われて、わたしは顔を上げた。
「お前の身体は確かに娘らしくなったかもしれないが、まだ思いつめるような段階じゃない。ほんとうに女になってから、考えなさい」
どういう意味だろう。わたしはずっと、女として生まれ育ったはずだけれど。
「……まだ、此処に居ても、良いんですか?」
「男を知る、ということを分かっていないうちは、まだ童だからね」
「…青鹿さまが男の方だとは知っていますが、そういう意味ではないのですね」
「ほら、身体ばかりでまだ童だ。むしろこの状態で放り出すほうが非情になってしまう」
呆れたような目で見られても、わたしは分からない。
「…全く。読み書きばかりじゃなくて、その辺りも教えるべきかな」
「で、でも、分かったら、出て行かなければならないんでしょう?」
それは嫌だ。
殊更に優しくは無い、だけど確かに温かい。此処に居られるなら、それでいい。
「そういう『教える』ではないんだけど…嫌なら無理強いはしないよ」
青鹿さまはそう言って何故か溜息を吐いたが、わたしは少しだけほっとした。
教えることで追い出そうとか、そんな遠回りな嫌がらせをなさるような方ではない。だから根回しの口実ではなく、本当に必要だと思ってくださったからだろうけれど、わたしには正直、分からなくても良かった。
一生、分からなくても良いと思った。
「ありがとうございます。許される限り、お仕えいたします。青鹿さま」
他人に関心が乏しく、厄介な体質ゆえに飼い殺しにされるしかない主の傍は、行き止まりでしかないのかもしれない。そもそも、先程のやりとりの意味を知るのが多分自然なことである以上、ずっと蓋が開かないなんてありえないのだろう。
きっと、温かな行き止まりにすら、わたしは留まれない。
だけど、この時かぎりは。
「許そう」
ほんの少しだけ笑って返してくれた青鹿さまのため、精一杯を捧げ続けようと思った。
世界の主役は初の未登場。設定としては青鹿の一族の現当主周辺です。二人ともシビアな環境なのですが、現状維持に落ち着いた似非ほのぼのテイストがある程度オブラートになっています、たぶん。