しろいろ
決意の中で、嘗て出会った少年を思い出す娘。悲恋風味、シリアス。
※流血、死ネタ注意。
噎せ返るようであるはずの血の匂いは、水の匂いに吸い取られて、ひたすら静かだった。
「…半妖」
浮かんでいる子どもは、異形だった。
耳と右腕は羽毛で覆われている。血塗れなので判然としないが、恐らく元は美しい光沢を持つ白色。見れば鳥の尾羽のようなものが伸びてもいる。ただ、その他の部位はほとんど人と変わらず、翼らしきものも見当たらない。鳥の妖と人の子なのだろう。
私はそっと水に入り、少年の頬を軽く数度叩く。
黒い瞳が私を見た途端、年齢には似合わない様々なものが去来する。
警戒、諦観、絶望…そして、憎悪。
恐らく、異形ゆえに手酷い排斥を受けてきたのだろう。幼いがゆえに真っ黒に染まりそうになっている心が透けた目を見て、我知らず持っていた小刀を抜いていた。少年の身体がぴくりと震える。
一時の情だと分かっていた。けれど、悲しいと、思った。ただ通り過ぎることだけは、できなかった。
「…選べ」
囁きのような声量だったが、充分聞こえたのだろう。耳の羽根がさざめいた。
「生きていたくもないというなら、私がお前を冥府に送ろう」
殺生、それも相手が自分と同じくらいの年齢となると、鬱々とした嫌悪感は覚える。
けれど、異形ゆえの痛みなど、私に理解できるものではない。半妖は、人にも弾かれ、妖にも交われないときく。生きていればいつか良いことが、なんて望めないかもしれないのだ。優しくすれば良いというものではない。
「生きたいなら、当面の手助けぐらいはできる」
優しく微笑んで、甘い言葉を掛けるべきなのかもしれない。ささくれ立つ心に向かう時、大丈夫だよと語りかけて抱き締めるべきだと、世人は言うだろう。
けれど、多分、それは少年を頑なにするだけ。恐らくこの少年の心は、移ろうかもしれない優しさに頼むことをよしとしない。
だから、敢えて冷たく言い放つ。
「選べ。お前の思うようにしてやろう」
少年は、生きることを選んだ。
無言のまま、私の手から小刀を奪い取り、それを砕くことで、選んでみせた。
だから私は、突きつけた刃にかけて、その意思に誠実であろうと努めた。まず、幾許かの手当てを施し、新しい衣と食料、寝床を提供した。
食料は開き直ったように全て平らげていた。渋々だろうが手当ても受け容れていたし、衣も身に着けてくれたところを見ると、一応頼ってはいてくれたのだろう。
けれど、少年はその間殆ど喋らなかった。心を開くつもりはないという意思表示のように思えた。初対面で刃を向けたのだから、当然だろう。私もあまり多弁なほうでもなかった。
「どうして、僕に選ばせた」
書物を開く手を止めて、少年を振り返る。十日目にして初めて聞いた声が幻でないと証立てるように、少年は黒い双眸でじっと私を見ていた。あの時見た、昏い炎を思わせる光は息を潜め、身構えつつも淡々としていた。
「お前を見つけた時のことか?」
「止めを刺そうとする、人を呼ぶ、無視する、ということなら分かる。仏心を出したから問答無用で助ける、というのも分かる。だけど、選ばせたのは、お前が初めてだ」
言いまわしからして、今まで助けられたこともあったのだろう。けれど、近寄ってきた私にあんな目をしたところから見ると――まあ、後味の悪い思いを、色々としてきたんだろうな。
「まず、生きる気の無い奴を生かす方向にもっていけるほど、私は聖人ではない」
「選択肢がおかしいんだ。助けるか放置か、ならまだしも、僕の返答如何では、お前、自分で僕を殺す気だっただろう」
確かに自分でも極端だったかと思う。少年が不審に思うのも当たり前だ。
「助けるなら、私がお前の命を預かることになる。ならば、もう一つの選択肢として釣り合うのは、やはり命を預かるようなものでなければと考えた、と言えば良いのか…上手く、言えないな」
直感的な決断だったので、その時は此処まで論理的に考えてはいなかったけれど、言葉にするならこんな感じだった。牽強付会に聞こえてしまっているかもしれないけれど、紛れも無く本音だ。
「…………変な奴」
その声に初めて、見た目通りのあどけなさがあった、なんて、私の思い違いだろうか。
嬉しいような気まずいような思いがこみ上げてきた。それが何なのか分からなかったが、直視するのは照れくさい気がして、慌てて私は口を開いた。
「私も、あの時のことは気になっていた」
途端少年の目つきが鋭くなった。警戒だ。一息での表情の変化に、内心たじろぎながらも、打ち切ることも不自然すぎるので、何の気ないように続ける。
「迷い無く選んだだろう?」
この国は、少年にとって優しい場所ではないだろうに。現実に夢を抱けないなら、彼岸に求めることだって往々にしてあるのに。
少年は黒い瞳を瞬いて、肩の力を抜いたように見えた。
「……僕には、やるべきことが、あるから」
「そうか」
彼はなすべきことのために生を選んだ。
その目に宿ったのは、意志だ。痛みも諦観も憎悪も、ひとまず捨てておけるほどの。
経験の無い私には、全てを了解できるわけではない。けれど、納得は出来た。
「…何かは、聞かないんだな」
「本当に叶えたい、強い願いほど天邪鬼だから、徒に教えないほうがかえって捕まえられる。そういうものらしいぞ」
だから聞かないのだ、と暗に言ってやると、少年が虚を衝かれたように呟いた。
「…………………本当に、変な奴」
少年とは、それきり。翌日、忽然と彼は姿を消してしまった。一言の代わりのように、綺麗な羽根を一枚だけ残して。
怒りは無かった。ただ、治りきるまでもいられないほどだったらしいことを思い知らされて、意外なほどに淋しかった。やはり最初に刃を突きつけるべきではなかっただろうか、と後悔した。
そして、そのまま。たった十日間だけの日々が、記憶から離れてくれない。
彼はあの後、どうしたのだろうか。目立つ容姿と治りきらない傷を抱えて、何処で養生したのだろう。やるべきこととやらは、果たせたのだろうか。――機ある度、繰言のように、思いを馳せた。
熱も痛みも無い。けれど、正体の分からない感情は、小さな疼きを繰り返し、決して忘れられなかった。彼の羽根を見る度に、胸の奥が鳴るような気がした。まるで。
「五娘さま」
声を掛けられて、私は物思いを断ち切り、顔を上げた。
「…ああ。終わったか。ありがとう」
着付けてくれていた侍女が、首を振って目元を拭った。
「おぞましい妖物などに見せてやるには、もったいのうございます」
「ありがとう。うん、すばらしい出来だ。詐欺かと思うぐらい、美人めいた姿に仕上がっている」
死出の姿としては勿体無いくらいに。
そんな続きを飲み込んで、私はわざと明るく笑った。
「五娘さま……! ああ、やっぱりこのようなこと、惨すぎます!」
「ありがとう。でも、誰かがしなければならないことだ」
この城市の近隣に、大きな猿に似た、醜貌の妖の群れが住み着いた。
そして作物や家畜のみならず、通りがかる人間や近郊の住民まで襲い、食らい始めた。討伐隊を組んでも退治できず困っていたところに、かの群れの長から伝言が来た。若い娘を一人差し出せ、そうすれば人は襲わないでおいてやろう、といった内容だった。
とりあえず一時は信じられるだろう、と父は言った。これは様子見、要求によって味を占められるかどうかを試す意味もあるはず、ならば少なくとも暫くは条件どおりにするだろうと。
そして、父はこの城市を守る者として、覚悟した。討伐できず失敗してしまい、あまつさえ生贄を要求させるほどつけこまれたのは、父の失態。であればこそ、まず自分が娘を差し出すのが、当然だろうと。
上の二人の姉は既に他へ嫁いでおり、三番目の姉も来月結婚することが決まっている。四番目の姉は、身体が弱く繊細で、とてもではないが務められそうに無い。だから、私がそれを引き受けた。
恐れなかったわけではない。自暴自棄になったわけでもない。
『己が失策のため、娘に死ねと言わねばならぬ、腑甲斐無き父ですまない』
普段は寡黙で厳格な父が、地を這うような声で言って、娘の私に頭を下げたのだ。
『先だって太子となった御方は地方の窮状にも理解を示してくださる方だ、既に訴えを出している。時をおかず、より強力な討伐隊を組むことが出来るだろう』
噂通りなら、彼の動向次第で、この混乱はすぐに収束するだろう。けれど、それまでの被害を最低限に抑えねばならないことに変わりは無い。時間を稼ぐため、誰かが行かねばならない。
お前に間に合わずすまない、という言葉は、発せられずとも分かった。
『お前のつくった時を使って、必ず、必ず、奴らを仕留めてみせる! お前を犬死などさせぬ!』
握り締めた父の拳から血が一筋滴ったのを、私は見つけていた。
父の気持ちは、文字通り痛いほど分かった。信じられた。だから頷いた。
それを悔いるつもりは無かった。
――僕には、やるべきことが、あるから。
あの少年は言った。ならば、私のすべきことは何だろうと考えていた。
城市を守る将の娘として生きてきたこの身、民のために使うのが道理だろう。自分の命を諦めるわけじゃなく、民の生を繋ぐために使う。
きっと完璧な正解じゃない。だけど、多分やっと、少年の目に込められた思いの片鱗が理解できた。
「じゃあ、行くよ」
泣き崩れる侍女に空元気で微笑んで、私は薄布を頭から被る。
怖くないわけが無い。どうしたって手が震える。本当は、死にたくない。
それでも、私に出来る最善はこれだから、腹を括って顔を上げる。
私は、なすべきことのために死を選ぶ。
世界の主役は、父親の話に出た太子。主役たちにとってのエピソードの前日譚、見も知らぬ犠牲者というだけの立場であっても、其処にドラマも思いもあるという、「ちゃいろ」と少し対比的な構成になっています。