おうどいろ
人外を愛した娘。中華風ファンタジー。切ない風味ですがあっさり。
少しだけ、夢を見ましょう。
「こんにちは、瑯河」
呼びかけると、彼はふわりと振り返った。彼より美しい存在を、私は知らない。見た目じゃない、彼の周りの空気が彼の美しさを語っていると思う。澄み切って、優しくて、たとえようがなく安心する。
駆け寄ると、彼は微笑んだ。
「こんにちは。今日は良いものがあるんだ」
「あら、なあに?」
興味津々で尋ねると、彼は袂からひとつ、小さな果実を出した。
梅の実くらいの大きさで、赤っぽい、ごつごつした殻のような皮に包まれている。瑯河がたおやかな手で器用にそれを剥くと、中からは白い、つるりとした身が出てきた。
「お食べ」
にこりと笑って、彼はそれを差し出してくる。何だかまるで幼子に対するような扱いだ。もう慣れたけれど。彼にとっての私はほんの幼い子どもであるようなのだ。
袖で口元を隠してひっそりとむくれておいてから、受け取る。身を飲み込むと、何とも言えない涼やかな甘さが喉を通る。
「…美味しい」
「そうか」
素直に感想を言うと、彼は本当に嬉しそうに笑った。
数か月前から現れた、不思議な人。
私が川べりに洗濯をしに来ると必ず現れて、私が其処に居る間だけ、話し相手になってくれる。どうやら私と話すことを気に入ってくれたようだった。
彼が誰なのか、どういう人なのか。彼は何も言わなかったし、私は何も尋ねなかった。
怖かったのだ。彼はあんまり綺麗だったから、ただびとではないのかもしれないと、思わずにはいられなかった。正体を探るようなことをしたら、御伽噺みたいに消えてしまいそうで。
だったら、何も聞きたくなかった。
彼が鬼でも狐でも妖怪でも構わない。短くも優しい、大切な時間の積み重ねを失うくらいなら、いくらでも口をつぐむ。
そう思えるくらいに、大事だったのだ。
私が彼に語るのは、日常のあれこれでしかない。
家族や友人などの身近な人々の話、咲いた花や移り変わりの季節の話。
「きみの語りごとは、鮮やかだな」
「ふふ、何それ。私が言ってるの、いつでもすっごく些細なことよ? 瑯河じゃなきゃ、些細過ぎて無意味だって呆れてるかも」
わたしはどうやらおしゃべりな性質らしくて、事実、父親にはよくそうやって注意されるものだ。そんな細かいことまでああだったこうだったと語るのははしたない、なんて。
「無意味なものなどないさ。きみの言葉は、周囲を優しく捉えている。だから、聞いていて心地よい」
「…もう、そんなこと言われたら、調子に乗って喋りつづけちゃうわよ?」
ああもう、照れ隠しが叶わない。
「良いさ。いくらでも。きみの話が聞きたい」
そうやって、彼は微笑んでくれたから。
いつでも、偽りなく。
そして、季節は移り変わる。
積み重ねる毎日が愛しかった。彼も言葉にこそ出さなかったが、この時間を憎からず思ってくれていることは感じられていた。
恋だとか、そんな言葉は考えなかった。
このままでいい。このままで。
そんな幼い駄々をこねていた報いだろうか。
「手短に言おう。まだ自覚はないだろうが、君は瑯河の子を身籠っている」
彼の代理人だと名乗った少年は、静かに言い渡した。
咄嗟に私は自分の手を腹にやった。まだ平たいとわかっていたのに。
いや、それより――子どもが出来るなんて、覚えがないのだ。私とて年頃の娘だから、大体どんなことをすれば子を授かるのかはわかっている。けれど、瑯河とそんなことをしたことはない。傍に居て、話をしていただけ。ふれあいと言えば、彼からの餌付けぐらいか。
「彼の一族は身体を合わせず、気を合わせて子をなす」
私の疑問に答えるように、少年は言い添えた。
「無論、人や獣とは違う。だから、本来どれほど傍に居たとしても、どれほど想い想われていたとしても、彼とただびとである君とは平行線のはずだった。だが、現実、君は身籠った。ありえないことが起こったんだから、どんな子どもが生まれてくるかと問われれば、分からないとしか言いようがない。君と同じくただびととして生まれてくるか、彼の血を強く引くか、はたまたとんだ変異が生まれてくるか、何一つ、君には保証できない。
けれど君には選んでもらおう。産むか、産まないか」
少年にそんな意図がどれほど明確にあったのかは不明だが、どちらかといえば、私が尻込みするのを望んでいるような話運びだった。
でも。
「産みます」
迷うことなんて、ない。
少年は一瞬だけ、虚をつかれたような表情をして、それから浮かべていた微笑みを取り戻した。
「分かった。君に意思を問うた以上、僕らはそれを尊重しよう」
「あの、それで、瑯河は」
私とのことで、何か罰を受けるのだろうか。それだけは確認したかった。
「安心すると良い。彼は彼の場所に戻るだけだ。少なくとも、罰されることはないだろう」
良かった、と胸をなでおろしかけたところで、少年は最後の通告を言い渡した。
「ただ、もう、君は彼に二度とは会えないし、会わせられない」
「……最後に、もう一度と言っても?」
言いながら、無理だろうと頭の隅の何処か冷静な部分が囁いていた。
わかっていた。
「不可能だよ。君たちの子どもは、いわば理を逸脱して宿ったんだ。…先程言った通り、君の意思を確認した以上、その子どもに手出しするのは道義に反しているが、かといって不安定なものは排すに越したことはない」
「………………そう、ですか」
この子を、残してくれる。それだけで、感謝すべき措置なのだ。だから。
「……瑯河に伝えて、ください。出会えて、良かったと」
最後に伝えられる言葉すらこれだけ。そんな、何も言えない関係だった。だから、彼が私と同じように思ってくれている保障なんて何処にもない。もしかしたら、彼にとっては単なる事故でしかないのかもしれない。
けれど、後悔なんてしない。
ずっとこのままで、という願いは潰えてしまった。
けれど、優しく誰かを想う気持ちを知った。慈しむべきひとを得た。
だから、誰に後ろ指をさされても、きっと、その愛しさで生きていける。
「私は、この子と共に生きるから、心配しないで、って」
一番強く想う気持ちは、それでも伝言してもらわない。
直接告げるべきだもの。それが叶わないなら、いつかを夢見て口をつぐむ。
そうして、私は、笑った。
ふっと意識が浮かび上がった。
途端に熱く、重たい身体の感覚が戻ってくる。呼吸は苦しく喘鳴交じりで、視界は霞みがちだ。
あの後、告げられぬ相手の子を身ごもった私は、生家を半ば追い出されるようにして去らざるを得なかった。流れ着いた先で赤子を産み、縫い物などの小さな仕事をこなしながら、爪の先に火をともすような生活をしてきた。
無理がたたったのだろうか、今年は寒くなると同時に体調を崩し、床に臥せる日が続いた。
多分、私はもうもたないだろう。
ぼろぼろのあばら家で、薄い衣を申し訳程度にかぶって、高熱に浮かされている。他人から見たら、惨め以外の何でもない現状。
それでも、私は後悔していない。
恵まれた人生ではなかったかもしれない。でも、幸せだ。
「母さん…大丈夫?」
心配そうに覗き込む小さな息子の髪を撫でてやる。
彼と出会えて、この子を産めたのだから。何も、後悔してなどいない。
「…ごめん、ね」
たったひとつだけ。幼い息子を置いていかなければならないのが、心残りだ。
国同士の戦乱は一区切りついたらしいとはいえ、寄る辺のない幼子に、それほど優しい世の中ではない。きっと、幾度だって辛い思いをするだろう。そしてその傍に、私は居られない。
腕を伸ばし、息子の頬に手を添える。
「母さん…?」
「あんたのお母さんになれて良かった」
「だめ…!」
父親の血だろうか、息子は不思議と生死に敏感だった。だから、私の死期が近づいているのも、わかっているのだろう。泣きそうに顔をゆがめた子どもへ、笑いかける。
「一人にして、ごめんね。でも、大丈夫よ。あんたはきっと、運が強い」
何せ、通じ合えないはずの異種族間で、奇跡的に生まれてきた子どもだ。
その天運は、しなやかに伸びるものだろう。
きっと、いずれ、彼の天命に出会うだろう。
「だから、いきなさい」
そして、幸せになって。それだけが、私の願いなの。
ふ、と力が抜けて手が滑り落ちた。息子の声は聞こえていたが、逆らえず、瞼を閉じる。
無駄なものなんて一つもない。
このめぐりあわせだって、無駄じゃない。
ねえ、そうでしょう、瑯河。
ずっと傍に居ることはできなかったけれど、私と貴方が出会ったことも、私があの子を産んだことも――何一つ、無駄なものなんてない。
夢見るような一生だった。
いえ。夢より素敵な、一生だった。
何度でも、繰り返せる。
貴方と出会えて良かった。あの子の母親になれて、良かった。
私は、本当に、幸せだった。
世界の主役は未登場、主人公の息子がいずれ出会う『天命』です。
『濃淡』を始めた時に、この話で終わろうと決めていました。最後は王道に、幸せだと言い切る女の子で終わりたいなあと。
書きたかったことの半分もあらわせたかは微妙ですが。
やっぱり物書きって難しいですが、楽しいです。




