なんてこった! 嫁と姉ちゃんが修羅場ってるんですけどっ 13
太陽が西の山に傾き掛けた頃、七霧邸の広大な庭で腰を据えて拳を握った両腕を構えた。
庭に作られた池へと流れ込む水のせせらぎの音、一定の間を開けて石を打つ鹿威しの音、残暑厳しくも元気に鳴く蜩の鳴き声と庭の一部を緑色に染める庭草を風が揺らす音、夕方になってちょっぴり秋の気配を感じさせる風が耳元で音を流れていく。
構えて姉さんと対峙してから、まだほんの少ししか時間は流れていないというのに、やたらと長い時間の中に身を置いているような錯覚に囚われている。
額から流れ出す汗の感覚は暑いから出たものではない。それに喉が渇く。
姉さんも構えたまま動かず、俺の出方を窺がっているようだぜ。
同じ七霧の体術、古神道を習い、何度も何度も組手もやってたんだ。お互いの手の内は分かっているから仕方がねぇー。
先手必勝とはよく言うが、俺たちにとって先手を取るってことは、自分の技が最も力を発揮し、そして有効に効果的に力を発揮出来る“必殺の間合い”を取ることで先に仕掛けるってことではなんだ。
そのお互いの間合いも既に分かっている。そんな人間と組手ではない本気の格闘をするってことが、こんなにも難しく、膠着した緊張感を生むなんて実戦経験のない俺には予想もつかなかったぜ。
だけど……負けられんねぇーんだよ、今日だけは絶対に……。
少し距離を置いて見ている幼馴染は、祈るように胸の辺りで両手を固く結んで心配そうな表情を見せている。
今にも泣き出しそうじゃねぇーか、ちくしょうっ。
そのとき風が、音が動いた。いやこれは風じゃなく姉さんが庭草を踏んで間合いを詰めて来る足音だ。
「知? このわたくしを相手にした戦いの最中に余所見とは余裕ですね」
振り向けば既に握られた拳は目の前だった。
「……っ、痛って」
辛うじて両腕でガードしたものの、その衝撃はハンパねぇー。ガードごと俺の体をふっ飛ばすかよ。姉さん? あんたどんなパワーしてんだ?
我が姉ながらとんでもねぇーぜ。
こんな重い打撃を美九音のやつに……、あんなに細い体に、何度も何度も叩き込んだ――。
「――のっかよっ! 姉さんっ」
飛ばされバランスを崩した俺を見逃す姉さんじゃねぇー。間髪入れずに今度は低い所に向けて回し蹴りを繰り出してきた。
地面に向けて崩れ倒れそうになっている体を、片手で地面を掴み体を捻って、蹴りを躱しながら立て直す。
しかし技を出し終えた後に出来る一瞬の隙を突いた反撃までは出来なかった。
「よく躱しましたね、知」
片膝を地面に着いた俺の頭上から姉さんは普段となんら変わらないおっとりとした口調でそう言った。
「ちっ」
なんだよ? そっちこそ余裕見せてくれんじゃねぇーか……。そのまま追い打ちされていたら終わってたかも知れねぇ―のによ。
「今度は容赦しませんよ」
「可愛い弟にでも?」
「ええ、可愛い弟だからです」
言い終わると同時に姉さんが一気呵成に手数を出してきた。
ちっ、捌き切れねぇ。
立ち上がる時に姉さんの間合いは外したはずなんだけど、やっぱり無理だったか。
防戦一方になっちまってるな。今は比較的軽いジャブみたいな牽制打だけれども、隙を見せれば重い一撃が来る。
軽いとは言ったものの、鞭みたいに腕をしならせキレのある打撃、ソリッドパンチは結構じわじわ効くぜ。何度かガードを潜られ有効打を貰っちまった。
文字通りのキレ。ソリッドパンチとはよく言ったもんだぜ……。
徐々に頬の皮膚が剥がされていくようなチリチリとした痛みの感覚、腫れ上がっていく皮膚が張り詰めていく感覚を感じる。
既に何か所かは皮膚を割かれて血が滲んでいる感触もある。
「ぐがぁ……」
腹部に一撃貰っちまった……。
上のガードに集中していると、今度は狙いすましたようにガードが空いた腹部や下段回し蹴りが飛んでくる。
上下に打ち分けられて手も足も出せねぇーぞ、これ。
……ヤベ、あいつにあんなこと言わなけりゃ良かったぜ。このままじゃ俺……本当にあいつに顔向け出来ねぇー。
「しまったっ」
気を抜いたわけじゃねぇー、油断したわけでもねぇー。しかし美九音のことが頭を過った、ほんの、ほんの一瞬の隙を突かれた。
意識を戦闘に戻した俺の眼には容赦の無い顔面への正拳突きが顎の辺り目掛けて迫って来ていた。
「御主人様ーーーーっ」
「知くーーーーんっ」
紅葉と未美の悲痛な叫び声が聞こえる。だけど……ごめん、躱せねぇーっ。
「知泰ーーーーっ」
……美九音。また泣いてんのか? 俺はお前を泣かせてばかりだ、ごめんな美九音。
って……泣かせてばかりで終われるかっつーんだよ!
体を反らせながら姉さんの拳との距離を少しでも取りつつ、両腕をクロスし突き上げるようにして伸びて来る腕を跳ね上げて、拳の軌道を逸らしにかかった。
拳は伸びて来ながらも軌道はブレて目線の位置にまで来た。
よし。あとは首を傾げて拳を完全に躱し切るだけだぜ……えっ!?
目線のところまで来ていた拳が開いた。正確に言えば人差し指と中指の2本の指が突然、拳から跳ね上がった。
2本指を伸ばしヒットポイントを前に伸ばした貫き手での……眼突き。
姉さんは本気だ。本気で俺の眼球を狙って来た。
「……っ」
2本の指は眼球を外して、瞼を切って突き抜けて行き、辛うじて回避が間に合ったお蔭で失明は免れた。
しかし気を抜いている暇なんてねぇー。次の攻撃が来る。
眼突きから逃がした頭部を通り過ぎた姉さんの手が返す刀で逃がした頭を捕らえられ、もう一方の手も使われてがっちりと抱え込まれた。
そして抱えられたまま、膝が飛んで来た。
シャレにならねぇーっ! マジで姉さんパねぇー。
駄目だ……苦しい、体も重てぇー意識が飛んじまいそうだぜ、美九音……。だけど……だけどっ! こんなことで俺はーーーーっ!
今にも崩れそうになる膝に力を入れ歯を食い縛ってなんとか踏み止まった。
「終わりにいたしましょう、知。この一撃が最後よ。あなたの意識を刈り取ってあげますね。もう楽になりなさいな。今の知には誰も守れはしませんから、大人しく寝ている方が身のためですよ。今後に待ち受けている戦い、もね」
……もう、動けねぇ。
「あ、あああ、あきらめんなっバカーーーーっ! あ、あああ、あんたなんか、い、いいい、いつもいつも……カッコ悪いくせに……今更、カッコ良く勝とうなんて思うんじゃないわよっバカっ。……あんたなんかカッコ悪くていいのよっ、ヘタレで冴えない奴でモテない奴でいいのよっバカっ」
「まあ少しは鍛錬の成果は見られましたが、期待外れ……でしたよ、知」
「姉さん……」
姉さんの右足が動いた。もう踏み込んで来さえこないんだな? 軽く脳を揺らすだけで今の俺は倒れちまうかも知れねぇ……けどさ?
軽く振り上げた右足をノーモーションで、そのまま俺のこめかみ目掛けて振り出した。
でもさ? ……らんねぇーんだよ。
「負けられねぇーんだよっ! 今日の俺はーーーーっ!」
いつも穏やかで、おっとり顔の姉さんが一瞬、顔を強張らせたように見えた。そしてそのまま振り出した右足を振り切らずに、器用に折り畳んで距離を取った。
「悪かったわね、知。手加減しようとして。本気で戦って本気で負けるなら兎も角、手加減されて負けたのでは知の面目もプライドもなにもかもを奪ってしまうところでした。いいでしょう、あなたを潰す気でやりましょう」
姉さんは一歩、踏み込んで爪先、踵で大地を掴み腰に捻りを加えながら、その力を右足一本に乗せていく。
そして……俺のこめかみ目掛けて再び繰り出した。
最後の気力を振り絞って虚勢を張ってみたものの、蓄積されたダメージが軽減するわけも、ましてや無くなるわけもねぇーんだよな? これがアニメや小説の主人公だったら、なんとかなってしまうかも知んねぇーのに……やっぱ体が動かねぇ。
迫って来る姉さんの右足を見ながら、これが当たって意識が飛ぶその瞬間までは見てやろうと覚悟を決めた。その時。
目の前で白銀の長いなにかが粉々に弾け飛んで宙に砕けた。
「あ、あああ、飛鳥ちゃん? その子は……知泰さんは、わ、わわ、私の……生徒ですぅ! 幾ら飛鳥ちゃんと言えども、姉であれども理由や意図があるとしても、そ、それ以上、知泰さんを傷付けることは許しませんっ」
波音……ちゃん。
「波音先輩? それに真冬先輩も……」
姉さんは唖然とした顔で波音ちゃんを見つめていた。
「ごめんね、飛鳥ちゃん。でもほら波音が泣いちゃってるし……私も一応、九尾ちゃんと弟くんに味方したわけだし、ね」
真冬さん? まで……なんで? そして体を張って俺をガードするようにして姉さんの前に立っている紅葉と未美、そして美九音。
砕けた白銀の長い物体を辿れば、庭の池から伸びて来ていた。
どうやら水を自在に操る濡れ女っていう蛇の妖である波音ちゃんが池の水を使って水蛇を作り出し、その水蛇を真冬さんが凍らせて氷の蛇を作り出したらしい。
「波音先輩? 真冬先輩? 言い辛いのですが……」
「な、なんですか? 飛鳥ちゃん」
「あの池に飼っている鯉……」
「恋? がどうしたのかな? 飛鳥ちゃん」
「恋ではなく鯉です。淡水に住む淡水魚の鯉ですよ。真冬先輩」
「ですよね~」
「一匹200万円はするのですよ?」
「……鯉?」
「そうですよ、鯉です。その一匹200万の鯉が20匹くらいは居たはずなのですが……池は空っぽになってますね。うふふ、さてお幾らになるかしら? 波音先輩?」
「……あのっ! 分りませんっ」
おいこらっ! 数学教師っ! 分りませんってなんだよ分りませんって!
「えと……えと、200万が20匹ってことは……4000万っ!?」
おいこらっ! 喫茶店オーナーっ! 指折り数えてんじゃねぇーよ、しかもソックス脱いで足の指まで使うなやっ。
気付けば美九音と紅葉、未美は素知らぬ顔をして、戦いを見守っていた場所にいつの間にか戻っていた。
……波音ちゃんと真冬さんを見捨てて逃げたんだな、おまいらは。
でも、ありがとう。
「鯉くらいいいじゃねぇーか? 姉さん。それよりさ?」
「と、知泰さ~んっ」
「弟きゅ~んっ」
「知泰さんっ。ありがとうございますぅ。私、これから知泰さんのためならなんでもしちゃいますぅ」
「弟くん。私も弟くんは以後、うちの店食べ放題飲み放題にしてあげますっ。あとうちの従業員の中で好みの子が居たら、紹介してあげますっ」
……それは有り難いんだけど、今は。
「続けようぜ? 姉さん。まだ俺はこうして立っているぜ?」
「分かりました。もう勝負は着いているも同じですが、知が得心行くまでブチのめして差し上げますわ」
いやあのね、姉さん? なにもそこまで気合いれなくても……。
To Be Continued
ご拝読アリガタウ。
次回は第二章最終話となります。
次回もお楽しみにっ!




