さちの勇気
「なんか……気持ち悪いな」
全てが左右逆なだけで、私の知っている町とは全く違っているみたいに感じる。車が右車線を走っている。信号の青が右側にある。標識もポスターも地面の文字も全部左右逆だ。時計も……5時が7時に見える。文字盤が入ってればそれも逆だから間違わないけど。そういえば、「時計回り」も左回りになるのか……。いや待てよ、「左回り」という言葉自体、右回りを指しているんだから……。えーと、どっちだ? ややこしい。
「はぁ、私がいなくて……向こうの世界、大騒ぎになってないかなぁ」
まぁ、お母さんが帰ってくる時間までは大丈夫だろう。でも、それまでに戻れなかったら、ほぼ確実に騒ぎになる。参ったなぁ。
「ほんとに、元の世界に戻りたいの?」
私は自分に問うてみた。
こっちの世界の伸司兄ちゃんに、本当に彼女がいないんだとしたら。いや、例えいたとしても、ちさのあの強引さなら……彼女になれるかもしれない。そうなったら……ちさの振りをして伸司兄ちゃんと付き合うことだってできないかな。
「はっ。なさけなぁ。何考えてるんだろ」
ちさのおこぼれに預かろうなんて、考えた自分を恥じる。人の彼氏を取ろうとするのと同じだ。最悪だ、私。
「なら私も告白しちゃうってのはどうかな」
でも、その為にはまず、私がこっちの世界の「さち」とは違う「さち」だってことをわかってもらわないといけないし……。
「やっぱダメだな……。おとなしく身を引こう」
さて、その前に、確かめなくちゃいけないことがある。ちさの為に。
「伸司兄ちゃん……まだいるかな」
*
「聞いてくれよ」
「なになに、どしたよシンジ」
「さっき、凄い面白いことがあったんだよ。近所に住むガキがいるんだけどさぁ。まだ小学生の。そう。女の子。これが来てたんだけどさ、何て言ったと思う?」
「なによ」
「傑作なんだよ。告白してきちゃったんだ。彼女になりたいんです、だってさ」
「うわーお。シンジ、モテモテじゃーん」
「マユミが怖い顔してるぜー」
「バカ言わないでよ。シンジ、つきあっちゃえばぁ?」
「よしてくれよ。小学生なんて相手にするかよ。俺にはマユミっていう大事な彼女がいるんだ」
「はん、どーだか。シンジ、浮気性だからねぇ」
「おいおい、マユミ、焼いてんのかよ」
ゲラゲラと笑う中学生の集団の中心にいたのは、伸司兄ちゃんだった。
私は今、帽子もサングラスも外している。なので姿を見られないように注意しながら、聞き耳を立てていた。
やっぱりあの女は、伸司兄ちゃんの彼女だったんだ。
……来なきゃ良かった、と思った。でも、一人で来て良かった、とも思った。私の世界で見たよりずっと酷い。私もちさも、すっかり伸司兄ちゃんの見た目の爽やかさに騙されていたらしい。
「その子、どんな子? 見てみたいなぁ」
「なぁ、シンジ、その子呼び出してみろよ、デートとか行ってさ。喜んで来んじゃないの」
「あ、それマジ受ける。みんなで見ててみよーよ?」
「私ぜったい笑っちゃう」
「うわやべ。超楽しみ」
「だってよ。シンジぃ。やってみればぁ?」
「マユミもこう言ってるんだしよ、ほら彼女のOK出たぜ? 誘ってみろよ、シンジ」
「わかった。じゃあ丁度明日は土曜だし、呼び出してみるよ」
私は頭に昇りそうになる血を沈める為少し離れて、深呼吸をした。頭をフル回転させる。今、何が起ころうとしているか。そして私にできることは何か? プランを組み立てていく。
それからしばらく様子を伺っていると、彼らが話しこむのをやめてゲームに熱中し始めた。やがて、一人二人と仲間たちがバラバラと帰っていく。私はクレーンゲームの筐体の影に隠れて見つからないようにやり過ごした。
好都合なことに、ゲームに夢中になりすぎて友達に置いていかれたらしく、伸司兄ちゃんだけが残されていた。よし。私は近づいていった。
「伸司兄ちゃん」
「わっ。さち……ちゃんじゃないか」
ビックリした顔。冷静に見るとちょっとマヌケな顔かも。
「どうしたんだい、こんな時間まで」
「うん、ちょっとね……。それより兄ちゃん、私、さっきは待ってるって言ったけど、やっぱり待ってられなくなっちゃった。さっきの返事、聞きたいな」
「え、ああ……返事? あ、そうだ、じゃあ……」
伸司兄ちゃんは笑顔を作った。
「さちちゃん、明日の土曜日、学校が終わったらデートしないか」
そら来た。
「え? ほんとう? やったー」
私は素直に喜ぶフリをする。
「お昼食べた後で……そうだな、午後の1時半に駅前の噴水広場でいいかな」
「うん。いいよ。わかったぁ。じゃあまた明日ねぇ」
私はそれだけ聞くと、手を振ってゲームセンターを出た。さぁ、早く帰らないとお母さんに見つかっちゃう。
*
ちさは、門の前で私を待っていた。
「さち、遅い。お母さんもうすぐ帰ってきちゃうよ」
「ごめんごめん。急いであんたの部屋に戻るから、何か食べるもの持ってきてよ」
「わかった」
お母さん……こっちの世界のお母さんにも会ってみたかったけれど、さすがにそれはやめておいた方が良さそうだ。見た目がそっくりでも、お母さんには私とちさの違いがわかる気がする。母親というのは誰よりも子供を見ているものだしね。
しばらくちさの部屋で横になって考え事をしていると、階下でお母さんの声が聞こえてきた。やっと帰ってきたらしい。今日は特に遅かったな。……ちょっとして、ちさがカップ麺を持って上がってきた。
「とりあえずこれ。お湯入れてきたから、三分待って食べて」
「ありがと」
夕食をとりに階下へ降りるちさ。私はカップ麺をすする。こんな生活がずっと続くとしたらやだな……。
鏡の中の世界のものだからか、カップ麺は全然美味しくなかった。表面に印刷された文字も鏡文字で、外国の食べ物に思える。
夕食を終えたちさは、すぐに部屋に戻ってきた。私はちさに向かって言う。
「ところでちさ。伸司兄ちゃんから伝言」
「伝言? え、さち、伸司兄ちゃんに会ったの?」
「うん。偶然だけどね。当たり前だけど、私のことはあんただと思ってたから大丈夫」
「え……やだ、ちょっとさち、何か言われた?」
「明日デートしよう、だって」
「…………」
ちさがぽかんとした。私はもう一度言う。
「ほんと。デートだって」
「やっったぁぁ。ほんとに? え、彼女にしてくれるってこと?」
「そこまでは言ってなかった。デートしようって言われただけ」
「何て答えたの?」
「もちろんOKしといたよ」
「明日って何時? 場所は?」
「午後一時半に駅前の噴水広場」
興奮気味のちさにデートの場所と時間を伝えて、私は疲れたから寝ると言って横になった。ちさはまだ色々聞きたがっていたが、私は明日の為に英気を養う必要があるのだ。今日はもう寝てしまおう。
お母さんに見つからないよう、お風呂も我慢しなくちゃ。辛いなぁ。
*
次の日の放課後。私はお母さんが買い物に出掛けた隙を狙って家を出た。ふう。人に見つからないように行動するのって大変。台所でパンとお菓子をくすねてあったので、なんとかお腹は大丈夫だけど。
さて、午後一時半。待ち合わせの時間だ。
「やあ、さちちゃん、時間ピッタリだね」
そう。私は時間にピッタリ来ることを信条としている女なのだ。遅れもしない、早過ぎもしない。
「こんにちは、伸司兄ちゃん」
私は伸司兄ちゃんに挨拶する。
「うん。さて……」
私たちがいる噴水前から少し離れたところに五、六人、昨日の仲間たちがいた。隠れる様子もなく、こっちをジロジロと見て、時々指差したりして笑っている。やれやれ。
「さっそくだけど、僕の彼女を紹介するよ」
いきなりそう来たか。こらえ性の無い男だ。伸司兄ちゃんは仲間たちのほうに目をやって、手招きした。くすくす笑いながら近づいてきたのは、あのマユミという女。
……見てる? ちさ。これが現実よ。
「……はじめまして。シンジの彼女のマユミです。よろしくね?」
たむろしていた仲間たちが、ゲラゲラと声をあげた。もう遠慮もなくなり、こちらに近づいてくる。
「おい、固まっちゃってるぜ、この子」
「かわいそー」
「ほんとに、「シンジにいちゃん」の彼女になりたかったのか?」
「ショックだった?」
口々に言う中学生に囲まれながら、私はなんとなく噴水広場の時計を見ていた。11時25分に見えるが……ほんとは13時35分なんだよね、とか考えながら。さて。呆然としたフリ終わり。
「伸司兄ちゃん、どういうこと?」
ショックを隠せないフリをして、問いかけてみた。まわりのバカどもがまたひとしきり笑う。
「あはは。ごめんごめん。みんなが見てみたいって言うから……。実は、デートってのは嘘さ。ちょっとからかってみただけ。ほんとに僕が君とデートするなんて思った?」
「シンジ、ひどーい」
またゲラゲラゲラ。
「……」
私は泣くフリをしてみた。
「伸司兄ちゃん……ひどい」
しかし意味は無かった。
「ははっ。泣いちゃったよ」
「かわいそー」
「バカだなぁ。小学生なんて本気で相手するわけないだろ?」
2つしか違わないくせに。
「その人が彼女なの……」
「そうだよ。僕が愛しているのはマユミだけさ」
シンジ兄ちゃんはマユミを引き寄せて、肩を抱いた。
「うわ。シンジ、くさいよ」
またのゲラゲラ笑いが収まった。
そろそろかな。
ちさも、もうわかったよね。それじゃあ、ちょっとだけ、お姉ちゃんが一矢報いてあげる。見ててね。
私はポケットに手を入れた。シンジ兄ちゃんを見上げる。
「そう。だったら……」
ポケットに入れていたナイフを取り出す。
「死んでもらおっかな」
伸司兄ちゃんもマユミも、笑い顔が凍りついた。まわりで見ていた仲間たちも。
私はスタスタと距離を詰めた。
そうなのよね、こうやって静かに動くものに対しては、案外人って機敏に反応できないのよ。ほら、もう目の前よ?
私はナイフを持った手を上げた。そのタイミングでようやく。
「わゃあああ」
変な声を挙げて、伸司兄ちゃんが走り出した。
……へえ。そう。
逃げ出したのだ。伸司兄ちゃんは、あろうことかマユミを放って逃げ出したのだった。
その声で呪縛が解けたように、マユミが手を前にかざして、顔をかばう。そう、女なら守るべきはまず顔ってわけね。お腹ががら空きよ。
そこらにいた仲間の誰かが、叫んだ。
「おい、止めろ!」
でも、もう遅い。
私はマユミの腹を狙って、ナイフを突き刺した。
カション。
そのマヌケな音が響いたおかげで、まわりの皆の動きが止まった。良かった。殴り倒されたりしなくて。
「ちょっとビックリさせるだけのつもりだったんだけどなぁ。正体わかっちゃったね」
このセリフは、ちさに聞かせる為のものだったけど、マユミというこの女にも意味のある言葉だったかもしれない。
「あんな男やめたほうがいいよ」
しゃがみこんでしまったマユミを見下ろしながら、言ってやった。ナイフはもちろん偽物。刃が引っ込むタイプの、安っぽいオモチャだ。
「え…………なに?」
「おもちゃだよ。びっくりジャックナイフ。340円」
「…………どういうこと?」
マユミは、何が起こったのかわからず呆然としている。
「おもちゃよ、おもちゃ。びっくりしたでしょう?」
くすくすと私は笑う。
「おい、伸司……てめえ、何逃げてんだ」
仲間の誰かが叫んだ。伸司兄ちゃんは……20メートルくらい離れた、広場の端のあたりまで逃げていた。なんという逃げ足。
私は言ってやった。
「彼女が襲われてるのを放り出して逃げ出すような男、私が本気で好きになると思う?」
おもちゃのナイフはポケットにしまう。
それを見てか、伸司兄ちゃんがトボトボと近づいてきた。
「マユミ、大丈夫か……俺はその……警察を呼ぼうと思って……」
「触んないでよ!」
マユミに手を伸ばした伸司兄ちゃんは、手を振り払われて、その勢いで尻餅をついた。仲間の一人が代わりにマユミを助け起こした。マユミを見上げながら口をパクパクさせる伸司兄ちゃん。
さて。このままじゃちさに迷惑がかかるからね。
「あのね、一つ言っとくことがあるのよ」
私は、伸司兄ちゃんに声をかけた。
「私、さちじゃないの。私の名前は「ちさ」よ。よろしくね」
そう、こっちの世界では私こそが「ちさ」であるべきだ。この世界のさちは、私じゃないのだから。
「……」
ちさが、広場の入り口のほうからやってきた。こっそりベンチの影から出て、まわってきたらしい。
「え!? 君は……?」
伸司兄ちゃんが後ずさった。ふふっ。幽霊でも見たみたい。何を怖がってるんだか。
「こっちがさちよ」
私はちさを指差す。ちさは、伸司兄ちゃんを軽蔑の目で見ている。
「双子……?」
「凄いそっくり……」
その辺にいた仲間たちが驚いている。
「さち、ありがと」
ちさが小さくつぶやいた。
「どういたしまして」
今朝、私はちさが朝ごはんを食べに居間に下りている隙に、ランドセルの中の筆箱にこっそりメモを挟んでおいた。「伸司兄ちゃんの正体を知りたかったら、今日のデートは早めに来て隠れて様子を伺うこと。さち」そう書いたメモを。ちさが授業中に読んでくれるように。
こんなやり方をしたのは、一つは、私が見たことを話してもちさは信じないだろうと思ったこと。もう一つは……。
「……伸司兄ちゃん」
ちさが、伸司兄ちゃんを見下ろした。
「この子、ちさって言うの。私のいとこ。そっくりでしょう」
ちさが、私をそう紹介した。
「ちさがデートだっていうからこっそり様子を伺ってたんだけど……。ちさのこと、私だと思ってたの? ま、伸司兄ちゃんがどういう人かはよくわかったよ」
そう。それでいい。昨日の告白も、この騒ぎも、犯人はさちではなくて「ちさ」。この世界の「さち」は、この場にただ居合わせただけ。あの恥ずかしい告白だって無かったことにしてしまえる。……もう一つの狙いだった。
「それじゃ、私たち、帰りますね」
私たちは、あっけに取られている伸司兄ちゃんと仲間たちを残して、家路についた。
*
「はーぁ。私の初恋も終わりか……」
帰り道、ちさはずっとぼやいていた。こうして自宅の部屋に戻った今も。
「まぁ、元気出しなって。私も、おかげで伸司兄ちゃんを諦めるのが簡単になったわ」
私の初恋は、昨日伸司兄ちゃんの彼女を見た時に終わっていた筈だった。でも、本当は違ったのかも。心のどこかで、まだ未練が残っていたんだろう。それを捨てられたのは、こっちの世界へ来た一番の収穫だった。
「でも、これからどうしようか……」
そう。その問題が残っている。
「本気で帰る方法探さないと……。さすがに一晩帰らなかったわけだし、捜索願とか出されてるかも」
私は頭を抱える。やだなあ、向こうの世界では行方不明扱いだろうなぁ……。お母さんを心配させてると思うと泣きそうになってくる。
「どうやったら帰れるんだろう」
「やっぱ鏡でしょ」
「それはそうなんだろうけどさぁ……」
鏡から来たのだから、帰るときも鏡だろう。というのはまあ何の根拠もないんだけど。
私は姿見をコツンと叩いた。
「ダメだなぁ。入れない」
「私もこのままじゃ鏡に顔が映らなくて困るんだけど」
「ホラーだね」
もう、いっそこっちの子になるか、とも一瞬思う。でも……あくまでこっちのお母さんは私のお母さんじゃなくてちさのお母さんなのだ。やっぱり本来のお母さんに会えないままなのは嫌だ。
「あ、そうだ。良いこと考えた」
ちさが、ぽんと手を打った。
「え、何?」
私は身を乗り出す。
「あれ、やってみようよ。合わせ鏡」
「合わせ鏡?」
「うん。ほら、合わせ鏡をやって奥の方を見ようとしてもさ、自分が邪魔になってよく見えないじゃん?」
「うん」
「ほら、今なら鏡に映らないし、面白いかもよ」
「面白い……?」
「うん」
こいつ。さては。
「帰る方法じゃないの?」
「あ、ごめん。帰る方法とは関係ないんだけど痛っ」
私はちさの頭をコツンと叩いた。
「もー。人が真剣に悩んでるのに」
「でも、面白そうじゃん」
「まあね」
「でしょ? 姿見がもう一つお母さんの部屋にあるから、取ってくる」
そういうとちさは廊下に出て行った。やれやれ。私たち二人じゃあ、真剣に頭を使うのには限界がある。
*
「へぇ……」
ずっとはるか奥のほうまで、姿見のフレームが道を作っている。でもその先に何があるかといえば、ただただ暗さを増していくだけだった。
「何も無い道だね……」
「思ったよりつまんない気もするけどね」
私とちさは顔をよせあって奥のほうを覗き込んでいた。ちさも私も鏡には映っていないので、真正面に合わせ鏡の作る道が伸びている。
「やっぱり映らないね」
「待てよ。鏡に映らないってことは……」
「ことは……?」
「鼻毛が伸びてても気付かないのか……」
……。ちさの心配はこんな時にどうでもいいことだった。
「そだね……。化粧もできないね……」
「コンタクトもはめられないよ……」
まあ、些細だが深刻な問題ではあったが。
「あ、ビデオカメラで自分を撮影すればいいんだ!」
「あ、ちょっと、誰かいるよ」
閃いたちさを無視して、私は合わせ鏡のかなたを指差した。まあ、怖がらせるための冗談のつもりだったのだが。
「ちょっとやめてよ、不気味なこと言わないでよ」
ちさはあんまり怖がらなかった。
でも……私は見てしまった。本当に……合わせ鏡のはるかかなた、人影のようなものがある気がする。よく見るとわずかにフレームの一部が黒く欠けて……。いや、だんだん大きくなってる気がする。あれは真っ黒な……服? というか、人……?
「ねえ、ほんとに誰かいるんだけど……」
「え? うそ」
間違いなかった。合わせ鏡の奥から誰かが近づいてくるのだ。
私とちさは、悲鳴を上げた。