ちさの勇気
いったい、何が起こったのか。
目の前には、私と全く同じ顔をして、全く同じ服を着て、全く同じようにあっけに取られている小学生がいる。
「……ちさ?」
「……さち?」
私達は、お互いを指差した。
「ど、どういうこと?」
「わ……わかんない」
まわりを見渡す。私の部屋? ……なんか変だ。家具の配置がおかしい。机の右隣にベッドが……ない。ベッドは机の左側だ。一方、左側にある筈のドアが……右側。机やベッドは見慣れたものだが配置だけがおかしい。あ、本棚の本の並び方も違うな……。
うん。すぐにわかった。左右が逆なんだ。……てことは、ここは鏡の中の世界。
私は、本棚に並ぶ教科書を手に取った。文字が……ぜんぶ、左右逆。印刷ミスみたいに見えるけど、中も全てそう。国語の教科書なのに、表紙が左側で、縦書きなのに左から右に向かって書かれている。算数の教科書なんて、横書きの方向も逆だし……。
「ここ……鏡の中の世界なんだ?」
「……ってことになるのかな。さち、なんだよね? あんた」
「うん。そっちは、ちさ、なのね」
「うん」
今まで頭の中で聞こえていたちさの声は、もう聞こえない。その代わり、生身の人間の声として、目の前の少女の口から聞こえていた。
「こんなことってあるんだ……」
「うん……びっくり」
私はぺたんと腰を落とした。結構、凄いことなのかな? 鏡の中の世界に入り込んじゃったとは……。
「私の頭の中の幻じゃ……なかったんだ。……ごめん、ひどいこと言った」
「いいよ。それはお互い様だし。あ、知ってると思うけど、私の名前もさちだから」
そう言ってちさは、学校の名札を見せた。「ちさ」って書いてあるようにしか見えないが……。
「文字が逆に見えるんだよね? これで、さちって読むからね。あなたと同じ名前。さち」
「わかってるって……。でも混乱するから二人の時はちさって呼ぶけど」
「……ま、いいよそれで」
私は、ちさをしげしげと見つめた。鏡を見てるみたいに……そっくりだ。でも、鏡の中と違うのは、もう私と全く同じ動きをしてないってことだった。
「今まで、鏡の中で私の真似しててくれたの?」
「そんなつもりないよ。さちが私の真似してたんじゃないの」
「鏡の中の世界って本当にあったんだ」
「あ、もしかして、私もさちの世界に行けるのかな?」
ちさが、姿見の前に向き合った。
「あ、映ってない」
確かに、ちさの姿は鏡に映ってなかった。
「私がいないからかな」
ちさの鏡像が私なんだから、私が向こうの世界からいなくなった以上、ちさは鏡に映らないんだ。
「ダメだ……私は入れないや」
ちさは、鏡の表面を叩いた。ぺしぺしと音がする。突き抜けないようだ。
「どれどれ」
私も、ちさの隣から、鏡の表面に恐る恐る手を伸ばした。
ぴた。
「あれ? 私も入れない?」
ぴた。ぴた。私の手は鏡を通り抜けなかった。……ふと、背筋が寒くなる。
「もしかして私、帰れなくなったってこと?」
「あ。そういうこと? やばくない?」
「やばいよ。ちょっと、嘘。なんで? なんで入れないの?」
私は姿見をばしばしと叩いた。次第に不安がつのる。ちさと顔を見合わせる。
「どうしよう。帰れなくなっちゃった……」
「落ち着いて。時間が経てば帰れるかもしれないし」
「時間ってどのくらいよ」
「わかんないよ」
「……だよね」
こうして二人の人間として向き合っていて、声も頭の中で聞こえているわけじゃないのに、やっぱりちさの性格は自分とほとんど同じ感じがする。ちさは根拠なしに言ってるだけだけど、そうやって元気付けようとしてくれてるんだ。素直にありがたい。このピンチ、一人じゃないと思うと心強い。
「まあいいや、帰る帰らないは一旦置いとく」
「お、前向きだね」
私はちさの方を向き直った。
「ちさ、さっきの話」
ちさは、真剣な顔になった。
「いっとくけど、さち。私、嘘なんかついてないよ。私は伸司兄ちゃんと話したし……伸司兄ちゃんの彼女なんて、見てない」
「私は、見た」
「彼女だったの?」
「直接確認したわけじゃないけど、あれは間違いないよ。彼女だ」
「私は見てない」
うん。こうして、私と違う動きをするちさを見ていれば、確信がもてる。ちさは、嘘をついてるわけじゃない。
「なるほど、じゃあ、話は簡単だね」
「……そうだね」
ちさも、私の言おうとしていることはわかったらしい。
「さちと私の世界で起こったことが、違うんだね」
私はうなずいた。
「私は、伸司兄ちゃんが彼女といるところに出くわした。ちさは、伸司兄ちゃんが彼女といないところで会った。そういうことね」
でも、ちさは首を振った。
「こっちの世界の伸司兄ちゃんにも彼女がいるとは限らないよ」
……諦めの悪い子だ。
「……いる可能性は高いと思う」
「なんでよ」
「鏡に映った世界なのよ。右と左は逆だけど、同じことが起こってるに決まってるじゃん」
ちさは、首を振った。
「それは、今日まででしょ。確かにこれまで、こっちとそっちの世界には違いが無かった。でも、今の私たちの状況はどう? そっちの世界にはもう、さちがいないんだよ?」
なるほどそう来る? でも甘い。
「私の世界で伸司兄ちゃんに彼女ができたのがいつかはわからないけど、それは昨日以前のことでしょ。二つの世界がバラバラの道を歩む前のことだよ? ちさちゃん」
そう言うと、ちさが泣きそうになった。ちさもわかってるんだ。でも、はっきり言ってやる。
「こっちの世界でも同じように伸司兄ちゃんは彼女を作ってるよ」
「せ……世界のあらゆることが同じとは限らないじゃん」
「ふーん。じゃあ、違うこと見つけてみよっか」
「いいよ?」
「今の総理大臣は?」
「え。知らない。さち、知ってるの?」
「あ、知らないや」
「……」
質問が悪かった。
「えっと、昨日の天気は?」
「晴れだった」
「こないだのテストで学年一位は誰だった?」
「四組の飯島さん」
「美容室『まめり』の店長に最近あった嬉しいニュースは?」
「孫が生まれた」
ふむ。全部あっている。
「やっぱり何も違ってることはないね」
「ていうか、まめりの店長の話、昨日したじゃん。二人が知ってる範囲で違ってたら、もっと前からわかってるよ」
「……かもね」
「さち、こうして話しててもしょうがないよ。確認しよう」
「確認ってまさか」
「直接聞くのよ。伸司兄ちゃんに。そうしなきゃ、何も始まんないよ」
「ちょっと待ってよ……。ねぇってば」
ちさは、私を置いて、階下に下りていった。
「ちょっと、ちさ、私達一緒のとこ見られたらまずいってば」
まだお母さんは帰ってきてないけど……近所の人に見られたら大騒ぎになっちゃう。いきなり二人に増えちゃったんだから。隠し子かって話。
「じゃー私だけ行ってくるからさー。留守番してなって」
そう叫んで、パタパタとちさは駆けていった。
「もうっ。ちょっとまちーなっ。ちさってばー」
私も慌てて追いかける。
「おっと」
階段の曲がり方が逆方向だ。
「あたっ……こっちはトイレか」
トイレのドアにぶつかった。反対側が玄関か。
「ゲタばこが無い……? あ、これも逆か」
ええいもう。ややこしい。ドアノブが無い無いと数秒迷ったが、それも逆側についてるだけだ。
「えーと、伸司兄ちゃんの家行ったんだよなアイツ……」
たしか伸司兄ちゃんの家は右だ。私は少し走ってから…………気がついた。
「…………右って逆か」
こちらの世界の右……つまり左のほうに引き返した。簡単に迷子になりそうだな、この世界じゃ。
*
ちさは、隣の隣の家……伸司兄ちゃんの家のインターホンを鳴らしていた。どういうつもりだろう。いきなり呼び出して「彼女いますか?」って聞く気か? それはあり得ないだろ……。
丁度工事中の家が向い側にあったので、私はそのブロック塀の影に隠れて様子を伺っていた。
伸司兄ちゃんのお母さんが出てきた。
「もしもし、伸司くん、いますか? あ、私、二つ隣に住んでる……」
「あら、さちちゃんね。お母さんはお元気?」
「ええ、おかげさまで。お気遣いありがとうございますぅ」
「ごめんなさいね、伸司、出かけちゃったの」
「えー、そうなんですかぁ」
「何か伝言しておこうかしら?」
「あ、結構です。それには及びませんー」
「さちちゃん、礼儀正しいわねぇ。偉いわー」
「ありがとうございますぅ。それでは失礼します」
「はいはい、ごめんなさいねぇ」
ぶりっ子しているちさとおばさんの会話はそれで終了した。うーん、私ってはたから見るとあんななのか。大人受けを狙う小学生って、横から見てると腹立つなぁ。
自宅に向かって歩いていくちさを引き止めた。
「ちょっとちさ、どうするつもりだったの、伸司兄ちゃんいたら」
いなくて本当に良かった。心臓に悪い。
「やだ、さち。なんで家でじっとしてないの? こんな近所で一緒にいたらやばいって言ったの、さちじゃん」
「いやぁ……その、じっとしてらんなくて」
私は頭をかいた。
「まぁ、いいけどさ。とにかく部屋帰った帰った」
私達は自分の部屋(じゃない、ちさの部屋)に戻った。
*
「いいこと考えた」
「なに?」
部屋に戻った私を残して、ちさは廊下へ出て行った。戻ってきたその手には帽子が握られている。
「これ、かぶりなよ」
「野球帽……? これで変装しろってこと?」
「私たち前髪ぱっつんだしさ、前髪上げてこれかぶるだけで印象だいぶ違うよ。そんでこれ、サングラスも。ほら、これで誰も私だってわからない」
帽子とサングラスを私に装備させるちさ。
「サングラスかけてる小学生なんて怪しすぎだと思うんだけど……」
これじゃあ私だとわからないとしても、目立ちすぎる。
「ぜいたく言わないの。あ、言っとくけどあんまり近づかないでよ。友達にそんな子がいると思われたくないし」
酷い。
「うぅ……。自分の世界だと思って偉そうにしやがってぇ……」
「自分の世界だも~ん。いつも私を妹扱いするからよ」
あぅ。それ根に持ってるのはホントだったか……。
「今日は私のほうがお姉ちゃんだからねっ」
「くそぅ。覚えてろよ……」
「さてと、伸司兄ちゃんを探さないと」
「あてはあんの?」
「無い」
やはり。無いのはわかってる。
「なんとなくだけど、駅前のゲームセンターかなぁ」
「かなぁ。よくいるしね」
「でも小学生一人であそこ行くのやだなぁ」
「まぁねえ。でも……」
私はぽんとちさの肩を叩いた。
「今は二人よ」
「……そうだね!」
ちさと私、ちょっと性格が違ってる気もするけど、ノリは一緒だ。私が今、落ち込んでるだけかなぁ……ちさの方がちょっとテンションが高い気がするのは。
「じゃ、行ってみますか。ゲームセンター」
*
「ビンゴ」
予想は的中した。伸司兄ちゃんがいる。ゲームセンターは相変わらず近所の中学生や高校生の溜まり場になっている。危ないから行ってはいけませんとよく先生が言っている。私はドキドキしているというのにこいつは……。
「伸司兄ちゃん!」
「あっ。ばか」
ちさが、いきなり伸司兄ちゃんに話しかけた。ちさに言われたとおり離れて歩いてきた私は、近くのクレーンゲームを見ている振りをしながら、会話に耳をそばだてる。
「伸司兄ちゃん、何してんの?」
「あれ、さちちゃんじゃないか。一人で来たの?」
「うん。伸司兄ちゃんは? 一人?」
「今は一人だよ」
あれ……昼間のあの女は……一緒じゃないのか。まああれは私の世界のほうの話だし、色々違ってきているのかもしれない。
「ふーん。伸司兄ちゃんに聞きたいことがあるんだけど」
ん? ちさ、何を聞く気だ。
「何だい?」
「伸司兄ちゃん、彼女いる?」
ぶっ。
直球かよ。
ちさ、あんたホントに私なのか? もしかして、全然違う人間なんじゃないのか? 私が知らないだけで、鏡の前以外ではずっとこんななのか?
「え? いやあ……どうだろう」
伸司兄ちゃんはとまどっている。
「いないの? ほんとー! やったー」
よく聞け。ちさ。いないとは言ってないぞ。それに、やったーってなんだよ。それじゃ告白してるようなもんじゃないか。ちさ、少しは考えろ。
「いないといえば……いないかな」
あれっ。嘘。いないの? まじ? ほんとに世界が違うんだなぁ。
「じゃあ、私、伸司兄ちゃんの彼女になりたい!」
……。
…………。
なんですと?
「……はい?」
伸司兄ちゃんも面食らっている。
「あ、年の差なんて私は気にしないから。ま、今すぐに返事してなんて言わないからさ、よく考えて答えを出してね! いい返事期待してるから。じゃーねー!」
ちさはテンション高いまま、ゲームセンターを出て行ってしまった。
「あ、ちょっ」
私は慌ててちさを追いかける。嘘でしょ。どうしたらいいの、この子。
*
「ちさ。どういうつもり?」
軽く息を切らしながら、川べりの土手の上で追いついた。ちさに声をかける。
「私、もう逃げないことにしたの。自分の欲望に素直になる」
ちさは背を向けたまま答える。
「だからって、いきなりあんな……伸司兄ちゃん、完全に訳わかんないって顔してたじゃん」
「いきなりすぎたとは思う。わかってるよ」
「わかってないって。あれじゃあ、絶対ダメだよ」
「うるっさいなぁ!」
「えっ……」
いきなり怒鳴ったちさに、私は二の句が告げなくなった。
「さち、聞いてたんでしょ? 伸司兄ちゃん、彼女なんていなかったじゃん! あれこれ悩んでたら、それだってわかんなかったんだよ? 聞いてよかったじゃん」
ちさが、振り返った。私と同じ顔が、夕日に照らされている。
「さちとは違うんだよ。私、伸司兄ちゃんの彼女になれるかもだよ?」
「む、むりだよ」
「無理? なんで? さち、私、わかったよ。なんでさちの世界じゃ伸司兄ちゃんに彼女がいたのか」
「あ? 何言ってるの」
「さちじゃあ、伸司兄ちゃんの彼女になれやしないからだよ」
「……なんでよ!?」
「さちに、勇気が無いからだよ!」
…………!
「なんだと……」
怒ったのは……言われたくなかったことだからだ。
「私は、さちとは違うよ。さちは、告白する前から諦めてたでしょ。……ねぇ、本当はほっとしてるんでしょ? 伸司兄ちゃんに彼女がいたの見て。諦める為の理由ができて、良かったじゃん」
私はちさを平手で打った。
「そんなこと言われなくてもわかってるのよ!」
そう。そんなこと、言われなくてもわかってる。それが、私が落ち込んでた原因だってことも。
「…………なに、すんのよぉぉ!」
ちさが私に飛び掛った。私は押し倒される。
ちさの手が私の胸を叩く。私はちさの肩を掴んだ。離そうともがく。私がちさの上になった。と思ったらひっくり返される。ちさが私の上になる。私達は互いを押さえつけて……相手を、自分を、屈服させようと必死だった。
土手の草むらの上で転げる。私のサングラスも帽子も、とっくに落ちてどこかへ行っていた。
「ずっと気に入らなかったのよ! 私は、「さち」! ちさじゃないのよぉ!」
ちさが叫んだ。
「じゃあそう言えば良かったでしょ! どっちかって言えば、あんたのほうこそいつも私に聞いてばっかりだったじゃない! 今更上から目線で何言ってんだか!」
「うるさいうるさぁい! 私はあんたとは違う! あんたはあんたの世界へ早く帰れ!」
ちさが泣いていた。たぶん私も。
「私だってできるもんならそうしたいよ! こんな世界ごめんだね!」
ちさが上になったまま、私もちさも動かなくなった。私はちさを睨んでいた。ちさが私を見下ろしながら言う。
「……私は、伸司兄ちゃんに告白したからね。私には可能性があるんだから」
「…………」
私は力が抜けた。
「そうだね……。良かったじゃん……」
もう、ばかばかしくなった。
私の世界では……伸司兄ちゃんには彼女がいて……。
「……私にはもう、チャンスが無いんだよ……」
ちさは、私を押さえつけるのをやめた。横に寝転がる。二人とも、息が激しい。
「さち……ごめん」
ちさが謝った。
「ふん……。あんたの言うとおりかもね。私はあんたみたいに、いきなり告白してみせる勇気なんか無かった。ほんとは、逃げる口実が欲しかっただけかもね」
「……私だって、あんな勇気出したの初めてだよ。さちが来たからだよ。さちが来なかったら、あんな勇気出せなかったと思う」
「でも、あんたは偉いよ」
私は立ち上がった。
「どこ行くの」
「ちょっとね。考え事がしたいだけ。一人で帰ってて」
「早くしないと、お母さん帰ってくるよ」
「はいはい」
私は、一人で土手を歩いていった。
もう、ちさに何か言う気にはならなかった。私はちさの姉である資格なんか無い。ちさはとっくに……自分の人生を自分で進んでいこうとしてる。私と違って。
これ以上一緒にいると、下手したらちさに慰められそうだ。今は、それはごめんだった。
それに、気になることもあった。
さっきのゲームセンターで、伸司兄ちゃんは「今は」一人だよ、と言っていた。ということは、もしかして誰かと待ち合わせしてたんじゃないだろうか。なんとなく、あの女――私の世界で伸司兄ちゃんの彼女になっていた女――が、頭をよぎる。
でも、ちさには、そのことを言えなかった。