さちとちさ
私は、双子だったという。
「あなたは本当は双子だったのよ」
小さい頃から、お母さんはよくそう言っていた。
「そうなの?」
「そうよ。あなたがお母さんのおなかに宿った時、お父さんが教えてくれたの」
「もう一人の子はどこにいるの?」
私が訊くと、お母さんは鏡を指差して言ったものだ。
「ほら、そこにいるわ」
鏡の中には私にそっくりな女の子がいた。その子の服の胸には、私とは違う名前の刺繍。私の胸には「さち」。その子の胸には「ちさ」。
鏡の中の「ちさ」に手を振ってみた。彼女も手を振っていた。私が笑いかけると、ちさも笑い返した。ほんとだ。私たち、そっくり。双子なんだ。
*
「おはよう」
鏡に向かって手を振り、朝の挨拶。
「おはよう、さち」
鏡の中のちさも、手を振ってきた。二人とも寝癖が凄いことになっている。
「あー、もう最悪だわ。ほんっとに最悪。どうしてああいうことするのかしら」
「何? 何があったの?」
聞き返すちさの声は、私の頭の中だけで聞こえている。
「お母さんったらね、私のスカートに勝手に猫つけたの。猫」
「あ、うちもうちも。もう、最悪だよね~」
猫とは、アップリケのことだ。スカートの開いた穴をふさぐ為にお母さんがつけた猫の顔。いつだって、鏡の中のちさにも同じことが起きているから、これで話は通じるのだ。
「アップリケなんて今どき、無いと思わない? もうダサくて着られないよ」
「ほんとほんと」
部屋の鏡の前を離れて、洗面所に向かう間は、会話中断。
ちさの声は私だけに聞こえている。ちさは鏡の向こうにいるからだ。本当はちさの名前も「さち」らしいのだが、二人で話す時は私が「さち」、鏡の中が「ちさ」ってことにしている。
洗面所の鏡の前で、会話再開。
「そういえば昨日の晩御飯、ピーマンの肉詰めだったよね」
「そうそう。あたしあれ嫌いなんだよ」
「あたしもだよ~」
ちさと私は、食べ物の好みから服のセンスから、何から何まで感覚が同じ。さすが双子。
顔を洗って、台所のお母さんにおはよーと声をかけた後、自室に戻った。着替えなくちゃ。
「ところでさ、ねえ、どうなの?」
部屋に入ると、早速ちさが話しかけてきた。鏡が見える位置にいる時は、たとえ後ろを向いていてもちさと話ができる。
「何が?」
何を話そうとしてるかはわかってたけど、一応たずね返す。
「伸司兄ちゃんのこと」
そう。ここんとこ私たちの頭の中はそれで一杯なのだ。
「別に何も進展しないよ~。そっちはどうなの?」
「こっちも。なんとか伸司兄ちゃんとお話できないかな~。でもやっぱり小学生なんか興味ないかな~」
「そんなことないって。2個しか違わないんだから。テレビで言ってた。女の子の精神年齢は男の子に比べて2歳上なんだって」
「そうなの? じゃあ、ぴったりだね」
「でしょ?」
私たちがこっそり伸司兄ちゃんと呼んでいる彼は、近所に住む中学2年生。私たちは小学6年生。彼がまた、とっても格好いいのだ。私は彼に恋をしている。
「なんか話しかけるいい手はないかな~」
私はちさに聞く。ちさも向こうの世界(鏡の中の世界)で、やっぱり伸司兄ちゃんに会って、同じように恋に落ちた。以来、私たちは恋の悩みを分かち合い、相談しあう関係であり、同時にライバルでもあった。どっちが先に伸司兄ちゃんに思いを打ち明けるか。伸司兄ちゃんの彼女になるか。
「あったら私が教えて欲しいよ。なかなかご近所さんとは言っても、チャンス無いんだよね。朝も会わないし」
「伸司兄ちゃん、朝遅いらしんだよね。かなりギリギリに行ってるらしいよ」
「そうなんだ。部活とかやってるのかと思ってた」
最近、気がついたことだが、二人の記憶が一致しないことがある。起きた出来事は同じでも、私の知っていることをちさが知らなかったり、逆に私が知らないことをちさに教えてもらったりしている。
着替え終わった。しばし、ちさとの会話は中断。
「じゃあ、また放課後ね」
「うん、じゃね~」
私は鏡に手を振って、居間に向かった。
*
学校での休み時間、トイレでちさと話すこともある。クラスの男子の悪口とか、女の子たちの噂話とか。でも、私だってちさだって、学校には友達がいる。二人で話すのは家の中だけにして、できるだけ家の外では話さないようにしようってちさと決めた。
ちさの学校も時間割はこっちと一緒で、授業の進み具合も同じだ。だから残念ながらお互いにテストの問題を教えあうことなんかはできないのだった。
その日、私は思いついたことがあって、学校からの帰り道に道端に止まっている車のサイドミラーを覗き込んだ。
「ねえ、ちさ~」
「何よ? これから帰るとこでしょ?」
「そうだよ」
「じゃあ、帰ってから話そう? 外では話さないって言ったじゃん」
「待って。私、いいこと考えたんだけど」
「何よ。さちの考えることくらい、私も思いつきそうなんだけどな。あ、わかった」
「わかった?」
「もしかして、伸司兄ちゃんの学校に会いに行ってみようってこと?」
「うん。ね、どうせ今日ヒマでしょ?」
「あたりまえじゃん。じゃ、いっちょ行ってみますか」
私達は伸司兄ちゃんのいる中学校へと向った。私達といっても、鏡の無い場所ではもちろん私一人だけだ。
……。
いや、本当は、ずっと私一人だけだ。
わかっているのだ。私だってもう小学校6年生。本当は鏡の中に世界なんてない。ちさだって、本当に向こうの世界にいるわけじゃない。私の姿が鏡に映っているだけ。声は、私の頭の中だけで聞こえている……ただの幻。
私はそれ始めた思考を頭を振ってかき消した。こんなこと、考えない方がいいに決まっている。ちさを、殺す気なの?
*
「あ…………」
中学校の門にたどり着いた私は、思わず足を止めた。伸司兄ちゃんがいた。そして、その隣には微笑みながら一緒に歩いてくる女生徒。
彼女だ。
いや、そうとは限らない。そうとは……。
でも、聞こてくる。まわりの男子の冷やかす声。
「よっ。おあついねー」
伸司兄ちゃんはニヤニヤと笑いながらその女生徒の肩を抱いた。女生徒は余裕の笑み。
「そうよっ。おあついのよ。ねー、しんちゃん」
なにあれ。デレデレして。バカみたい。伸司兄ちゃん、格好悪い。
私は伸司兄ちゃんに見つかる前に、門に背を向けて駆け出していた。
ショックだった。ショックだった。ショックだった。
初めての恋にして初めての失恋。この悲しみはちさと分かち合いたい。
私は、鏡を探した。カーブミラーを見つける。あれでいいや。歪んだ鏡に映るちさは小さくて、ちさとの距離感を感じるミラーだけど、とりあえず話はできる。
「ちさ……。まさかこんなことになるなん……」
「伸司兄ちゃん、やっぱかっこよかったなぁー」
……?
「ちさ? 何浮かれてんの?」
「ね、伸司兄ちゃん、私たちの名前、覚えててくれたねっ。やったね!」
なんかちさと会話がかみ合わない。
「え……ちょっと、本当に、何を……」
覚えてて……? 私は伸司兄ちゃんと話もしてない。
「ちさ、伸司兄ちゃんと話したの?」
「……したじゃん」
「……私はしてない」
「え? 嘘。さち、ついさっきのことなのに、もう忘れたの? 話したじゃん。伸司兄ちゃん、たしかうちの隣の隣の家の子だよねって。さちちゃんだっけ、って。あと、こんなとこで何してるの、とか言われた」
え? え? 何。なんで? ちさが話したって言ってるんなら、私が忘れてるだけ? ばかな。そんな筈ない。
「……え、それで……なんて答えたの」
動悸が激しくなるのを感じた。
「もう~。さち、どうしたの? えーと、こんにちは、私は図書館に行くところですって。あ、嘘だけどね。そしたら伸司兄ちゃん、偉いねって言ってくれたよね」
おかしい。おかしい。
「なんで? 私、何も話してないよ?」
「おかしいなー。あたし達、違うことしたこと無いのに。忘れてるだけでしょ?」
今まで、私が覚えてないことをちさが覚えてたりしたこととかその逆はあったけど、行動まで違ってることは無かった(いちいち全部確認しあったりはしてないけど……お互い学校での出来事、授業の内容とか、宿題とかテストとか、友達と話したこととか、話が食い違うことなんか一度もなかった)。
だって、当たり前じゃないか。
ほんとはちさなんていない。鏡の中の世界なんて無い。私が鏡を見てる間だけの……幻でしょ?
私は、頭の中で考えたことをちさに聞かれないよう注意しながら、どういうことなのか自己分析。ちーん。答えは出た。私、要するに認めたくないんだ。
「どうしたの、さち? なんかあったの?」
ちさが心配げに声をかけてきた。まったく、我が頭の中の幻ながら、世話焼きなやつだ。
「ちさ。いいんだよ、嘘なんかつかなくて。見たものを受け入れようよ」
「え? 嘘なんかついてないよ。さち、何言ってんの?」
「私は、伸司兄ちゃんを見つけたけど、話しかけることはできなかった。あれを見てしまったから」
「何を見たのよ。私は見てない」
見てないことにしたいだけなんでしょ?
「ちさ! 頭を冷やして現実をよく見なさい!」
声を出してそう叫んでしまった。こんなとこで小さく映るちさと話してる場合じゃない。とにかく家に帰ってゆっくりちさと話をしよう。
私はカーブミラーの前を離れ、家に向って走った。
現実を受け入れられない「ちさ」を、説得しなくちゃいけない。
悔しいけど、近所に住む格好いい年上の男の子への憧れは、おしまい。私達の初恋は、終わったのだ。
*
自分の部屋で着替えながら、ちさは私に話しかけてきた。
「ねえ、さち、やっぱりわからない。何を言ってるのか。伸司兄ちゃんと何があったっていうの?」
「見なかったとは言わせないわよ。いくら認めるのが辛いことだからって、見なかったことにしちゃダメ。何も始まらないでしょ」
「見てないものは見てないよ。伸司兄ちゃんが一人で校門から出てきて、私と少し話をして、別れた。それ以外に何かあったの?」
「逃げちゃだめよ」
「何から逃げてるってのよ」
「現実からよ」
「現実逃避してるって言うの?」
「してる」
「ばかにしないで。私は現実を受け止める勇気くらいあるわ」
「じゃあ認めなさいよ」
「だから、何を認めろっていうのよ。私は見たとおりの現実を受け入れてる」
埒があかない。はっきり言ってやるべきだ。
「ちさ、あのね……」
しかしちさが割り込んできた。
「さち、あんた、もしかして身を引こうとしてる?」
……。
「……引くしかないでしょ」
彼女もちの男を狙うわけには……。
いや、そうじゃないな。私はもう冷めてるんだ。あのニヤけた伸司兄ちゃんを見た瞬間に。もう私は彼を好きじゃなくなってる。
「何言ってんの、さち」
ちさはまだ冷めてないらしい。
私は制服から部屋着に着替え終わり、ベッドに腰掛けて姿見を、その向こうのちさを見つめている。ちさも私を見つめている。
「なんで勝負もしないうちから逃げんの? 二つ年の差があるから? 私達だって来年は同じ中学に行くんだし、そしたら先輩後輩だよ。チャンスはあるって」
「ふん。そっちこそ何言ってんの。もう結果は出ちゃってたじゃない」
「出てないよ! 諦めてる人には何もないけどね」
私は頭にきた。
「何もわかってないくせに、えっらそうに」
ちさが、少し黙ってから、声を低くした。
「さち、私のこといつまでも妹扱いしないでよ」
「はぁ?」
「あんたと私は対等でしょ。本当は私が「さち」であんたが「ちさ」でもいい筈。でもあんたが最初に声をかけてきたから、私が「ちさ」をやってるだけじゃない」
私は、その言葉に思わず笑ってしまった。
一瞬ダメだと思ったが、言ってしまう。
「幻聴が何を言ってんだか」
「……何?」
「ちさ、もうやめましょ」
「やめる? 何を」
何を……ね。言わせたいの。そうよね。あんたは私だもんね。
「あんたは私が頭の中で作り出した幻に過ぎない」
ちさが、それを聞いて、ふんと鼻をならしたのがわかった。
「へぇ……さち、あんたがそれを言っちゃうんだ」
私は無視して続ける。
「鏡の中の世界なんて本当は存在しない。あんたは、私の頭の中に住んでるだけなのよ。小さい頃、友達がいなかったから、一人の寂しさを紛らわすのにうってつけの存在だった。だからここまで育ててしまったけれど、あなたは本当は存在しない」
私は、顔を上げて、鏡の中の「ちさ」を睨んだ。ちさも私を睨んでいる。
「私は双子じゃない。一人っ子よ」
ちさが、くすりと笑った気がした。
「…………そうよ、私は「ちさ」なんかじゃない。ちさっていうのは、私が辛い現実から逃げる為に鏡の中のお友達とお話する為の名前だった。鏡の向こうにいる別世界の「さち」とお話する時だけ、私は「ちさ」になる。私は、現実から逃げようとする弱さと、闘わなくちゃいけない」
さすが私。気があうね。もう、こんな「ごっこ」を続ける意味なんかない。
「賛成。現実を受け止めなくちゃいけない。どんなに辛いものであってもね」
私は立ち上がった。
「ちさ、あなたは幻」
「いいえ、幻はあなたよ」
何を言ってるんだか。
「私よ」
「私」
私は、クッションを姿見にたたきつけた。
「私だって言ってるでしょ!! ちさ! もう、私の頭の中でがちゃがちゃ言うのはやめて!!」
まったく同じタイミングで、ちさもクッションを投げつけてきた。鏡の中からこっちに向かって飛んできたクッションはこっちのクッションと姿見のところでぶつかった。
「こっちのセリフよ! 私はさち! あんたなんか消えちゃえ!!」
私は鏡の中のちさに向って右手を伸ばし、手のひらをたたきつけた。全く同じように手を伸ばしてきたちさの左手と、手のひらを押し付けあう格好になる。私とちさは、利き手が逆。私は左手も伸ばし、同じようにちさの右手にぶつけた。
「幻聴は黙ってろ! いつまでもあんな男のこと未練たらしく!」
「いつもいつもうるさいんだよ! 勝負しないうちから諦めるやつに説教されたくない!」
ちさと私は、鏡越しにお互いを押し合った。姿見が揺れている。
私は目の前のちさに向かって叫んだ。
「だって、私は見たのよ!」
「何を見たってのよ!」
言った。
「伸司兄ちゃん、彼女と一緒に歩いてたじゃない!」
その途端。
「えっ うそ」
目の前のちさが驚いた顔をして、力を抜いた。
私は………………勢いあまって、ちさのほうに倒れこんだ。
姿見を通り抜けて、向こう側……鏡の中の、世界に。