第4話 十三分遅い金曜日
階段の踊り場で、琴音が男子生徒と向かい合っていた。
三年生だ。名前は知らないが、バスケ部のレギュラーだったと思う。
二人の間には、人が一人通れるほどの距離がある。
琴音は模造紙の筒を胸元に抱え、困ったように眉を下げていた。それでも相手の話を遮ろうとはしない。
「告白じゃね?」
隣を歩いていた佐々木が足を止めた。
「知らない」
「絶対そうだろ。うわ、見ちゃった」
「行くぞ」
「気にならない?」
「何が」
「相沢さんの返事」
「俺には関係ない」
五時間目を終えたばかりの廊下には、購買へ向かう生徒が何人もいた。
その流れを避けるように男子生徒が一歩横へ動き、琴音の姿が見えなくなる。
佐々木は何も言わなかった。
代わりに、俺より先に階段を下り始める。こちらがついてこないと気づき、途中で振り返った。
「高瀬?」
「今行く」
足を動かす。
購買でパンを買い、教室へ戻った。
午後の授業中、黒板に書かれた文字をノートへ写す。教師がページをめくる音や、窓の外で鳴く鳥の声まで聞こえるのに、授業の内容はほとんど残らなかった。
明日は金曜日だ。
琴音は来るのだろうか。
彼氏ができた翌日に、幼なじみの男の家で夕飯を食べるものなのか。
そこまで考え、シャープペンシルを置いた。
まだ返事も知らない。
そもそも、告白だったと決まったわけでもない。
放課後、スーパーへ寄った。
明日の夕飯に使う鶏肉と野菜を籠へ入れる。乳製品の棚で、二個入りのヨーグルトを手に取った。
琴音がよく選ぶ桃味だ。
しばらく眺め、棚へ戻した。
明日来るか分からない。
一人なら一個でいい。
隣に並んだ一個売りのプレーンヨーグルトへ手を伸ばす。
そのまま数秒止まり、結局、桃味の二個入りをもう一度籠へ入れた。
母さんも食べる。
そういうことにした。
◇
翌日の放課後、中庭で文化祭実行委員が集まっていた。
琴音は模造紙を抱え、別の女子と何か話している。昨日の男子は見当たらなかった。
声をかける用事はない。
そのまま帰宅した。
鶏肉に下味をつけ、キャベツを切る。
包丁の切れ味が悪いのか、千切りがいつもより太くなった。途中から細くしようとしたが、余計にばらついた。
味噌汁を作り、御飯をよそう。
二人分。
十九時になった。
チャイムは鳴らない。
文化祭の集まりが長引いているのかもしれない。
十九時五分。
まだ来ない。
スマートフォンを確認する。
連絡はなかった。
そもそも遅れると連絡する決まりなどない。毎週十九時前に来ていたから、必要がなかっただけだ。
十九時十分。
味噌汁の表面から湯気が見えなくなり始める。
先に食べればいい。
琴音が来なければ、残りは明日の朝に回せばいい。
箸を取ったところで、玄関のチャイムが鳴った。
立ち上がるまでに少し間を置く。
急いでいたと思われるのも癪だった。
玄関の扉を開けると、琴音が立っていた。
「ただいま」
いつもどおりに言う。
「遅い」
我ながら、最初に出す言葉ではなかった。
琴音は靴を脱ぎながら壁の時計を見る。
「十三分だけでしょ」
「連絡くらいしろよ」
「待ってたの?」
「待ってない」
「じゃあ、先に食べた?」
「今から」
「待ってるじゃん」
「料理を冷ましてた」
「御飯まで?」
「俺、猫舌だから」
「熱い方が好きでしょ」
余計なことばかり覚えている。
琴音はリビングへ入り、食卓を見た。
二人分の皿。
二人分の茶碗。
二人分の味噌汁。
そこまで確認してから振り返る。
「待ってたんだ」
「しつこい」
「待ってたなら、そう言えばいいのに」
「たかが十三分だろ」
「十三分も」
「十三分しか」
琴音は自分の席へ座った。
鞄を脇へ置き、太さのばらついたキャベツを見ている。
「今日、キャベツ太いね」
「包丁の切れ味が悪かった」
「機嫌悪いとき、いつも太くなるよ」
「そんな統計ないだろ」
「私の中にはある」
「食わなくていいぞ」
「食べるけど」
琴音は箸を持った。
食べ始める前に、こちらを見上げる。
「昨日のこと、聞かないの?」
「昨日?」
「階段」
「見られてたの、気づいてたのか」
「佐々木君が、こっちを何度も見てたから」
「俺は?」
「見てなかったんじゃない?」
琴音は鶏肉へ箸を伸ばした。
わざとらしい答えだった。
「別に、俺には関係ないだろ」
「そうだね」
「先輩とは何を話してたんだよ」
「関係ないんじゃなかった?」
「階段を塞いでたから気になっただけだ」
「あの距離なら通れたでしょ」
「だから、何だったんだよ」
琴音はすぐには答えなかった。
鶏肉を一口食べ、飲み込んでから味噌汁の椀へ手を伸ばす。
「告白された」
思ったよりあっさりと言われた。
俺も味噌汁を持ち上げる。
冷めかけていた。
「ふうん」
「それだけ?」
「何か言うことあるか?」
「別に」
食器が触れる音だけが続いた。
さっきまでより、キャベツの固さが気になった。
「それで?」
「それでって?」
「返事」
「聞きたいの?」
「途中まで話したなら、最後まで話せよ」
「颯馬には関係ないのに?」
「もういい」
箸を置きかけると、琴音が小さく息を吐いた。
「断ったよ」
「そう」
「何、その返事」
「他にどう答えればいいんだよ」
「もう少し何かあるかと思った」
「お疲れさま、とか?」
「それは嫌」
「難しいな」
琴音は口元を隠すように味噌汁を飲んだ。
「何で断ったんだよ」
「聞くんだ?」
「話の流れだろ」
「そういう気になれなかったから」
曖昧な答えだった。
琴音はそれ以上説明するつもりがないらしく、味噌汁の椀へ口をつけた。
先輩とは付き合わなかった。
分かったのは、それだけだ。
それなら、俺には十分なはずだった。
明日から何かが変わるわけでもない。琴音は今までどおり学校では別のクラスにいて、次の金曜日になれば、またこの席で夕飯を食べる。
それなのに、喉の奥に小さなものが残ったようで落ち着かない。
琴音が椀を置く。
言葉にする前なら、まだ聞かなかったことにできた。
結局、俺は箸を置いた。
「好きなやつでもいるのか」




