[掌編]ながくもがなと
奇妙な水音が、時折、僕の耳にまとわりついて響く。
空耳なのか幻聴なのか、まるで細い管の中を流れる水が歌うように耳の奥に届く。
これは一体何なのか。
自分の家の部屋にいる時に聴こえたことはない。
聴こえるとすれば学校や街中、不特定多数の人が行来きする中で、日常の音の中に紛れて流れる音が聴こえてくる。
奇妙なことに、色んな音の混じる空間で、その他の人の声・生活音・雑音にかき消されることなく、それは僕の耳に届く。
それは他の様々な音を背景にして浮かび上がるように、奇妙なせせらぎみたいに。
高校の教室や廊下でもその現象は起こった。
始めは気のせいかと思うほどだったのが、日毎にその音は鮮明になってきた。
音が変わったわけではなさそうだった、これは僕の耳が変わってきたかのようだった。
この耳はより緻密に、より繊細に音をとらえるようになってきた。
その時の僕は、落ち着かないような何かを探したくなるような、理由の分からない焦りに見舞われている。
何かの病気でもないのに。
じゃあ、いつ頃から僕はこんなことになったのか。
こんなのは先月くらいまではまるでなかった、それから僕の身体に何かが起こったのか。
この異変が起こるようになった時期に思い当たるような、変わった出来事は?
一つ、妙な記憶がある——というか、記憶の欠落がある。
一と月前、高校からの下校時、僕は帰宅する途上で、気を失っていたことがあった。
その時は道端で倒れていたわけではなく、気がつくとある小さな人気ない公園のベンチに一人座っていた。
登下校のルートではない、まるで知らない場所で、何故そこにいたのかが分からない。
校門を出て——いつものバス停でバスに乗って——いつものバス停でバスを降りて——そのあたりで記憶が欠けていた。
まるで馴染みない場所に一人、気を失っていた。
読んできた小説の本のページを遡るとそこが破り取られていた、そういう状態だ。
僕の知らない間に何かがあったのではない、僕の歩いてきた時間が抜き取られて思い出せなくなっていた。
どうしても思い出せないそれは、僕自身の脳に何かの変化が起きたように思えた。
脳内に起きたその不具合で、記憶の欠落や耳元にまとわりつく異音が起こった。
その出来事以降、記憶の欠落はないけれども、水の音は教室や街中で起きることがあった。
これは病院に行く必要があるのか、思い過ごしなのか、僕は家族にも級友にも、誰にも相談できずにいた。
ある放課後、高校を出てから自宅に向かわずに地元の図書館に寄った。
市内に複数あるうちの分室の一つで、子綺麗で大きい中央図書館よりも人が少なく落ち着いていた。
少し暗く、書架の立ち並んだ谷間の番号「490」——「医学・薬学」の前に立った。
一つの可能性が怖かった。
聞きかじりの話で、脳の血管が破れた人物の話を聞いたことがあった。
その人の述懐では、頭の中で川音が響くような音がして——
自分の頭の中でそんなことがおこりつつあるのか、迫りくる恐怖を感じていた。
しかし、いくつかの家庭用医学の大判本を開きながら、僕は確証を掴めないままでいた。
変調の兆しなら、迷っている暇はない、一刻も早く診察を受けなければならない。
開架室は静かだ、そして幻の水音がない——いや、かすかに水音がしている。
不意打ちのように書架の谷の入口を通り過ぎた影がある。
男子高校生がこのコーナーに陣取って医学書を覗き込んでいることに、妙な気恥ずかしさを覚えて咄嗟に本を閉じて元の隙間に収めた。
人がいなくなった時を見計らい、続きを調べようかと、何気ないのを装い室内を回遊した。
「700」番の書架あたりに人影が見えた。
広い大判の本を開いて両手に持っているのは、同じ高校の制服を着た女子でしかもよりによって同級生だった。
『最悪だ』僕は彼女を知っていた。『見られた』
ミズキ、学年でもクラスでも目立たない地味な女の子で、身なりを気にする同年代の女子の中でも見た目が野暮ったかった。
無造作にカットした髪が目の上に被さり隠しており、ほとんどの男子からも女子からも侮られている生徒でミズキはいつも校内で一人だった。
僕自身は陽キャが苦手な分、おとなしい生徒の方に好感を持っているくちなのだけど、ミズキは何を考えているのか分からない女の子で、正直、少し怖かったのだ。
このまますぐに退館するか、それとも別のコーナーを回ってごまかしてから出ていくべきか——こんなことを考えるのも自意識過剰なのか。
離れようとした時にミズキが顔を上げてまっすぐ僕を見返した。
狼狽しながら挨拶のように軽く頷くと、ミズキも無言で頷き返した。
何か声をかけるべきか迷ったけれども、言うべきこともない、もうごまかすのも面倒になった。
僕はそのまま開架室を出てロビーを抜け、市民センターから出た。
日暮れまでにはまだ時間のある明るい外だった。
センターの敷地の駐車場で立ち止まり、奇妙な感覚に襲われた。
ミズキと目があった時に、何か思い出しかけた。
ちょうど一と月前くらいに、彼女と何かがあったような気が——。
「トオルくん」後ろから声をかけられた。
振り向くと無表情のミズキが立っていた。
彼女の声を聴くのは初めてではないけれど、彼女から人に声をかけることはほとんどないはずだった。
「——こんにちはミズキさん」少し声を上ずらせながら僕は答えた。「何か?」
「具合、悪いの?」
「何で?医学書見てたから、かい」
「顔色が悪い」無表情のミズキが僕を見ながら言った。
「そうかな、たまたまだよ」狼狽ながら適当に応じたつもりだった。
「トオルくん、流れる音が聴こえる?」ミズキは自分の耳に手を当てて見せて言った。「耳、変わってきたでしょう?」
ミズキがそんなことをいったので、僕の心臓が凍りついた、そしてフラッシュバックが弾ける。
彼女に導かれるままに、あの日目覚めた公園に来ていた。
僕はここで一と月前、ミズキと対話をしていたことを思い出した。
この公園で気を失っていた前、彼女と会ってベンチに座り話していたのだ。
どうして忘れてたんだろう。
下校時には高校の生徒はいつも僕一人だった車内にミズキが乗ってきた。
特に何も思わずに下車をした時に、ミズキも同じところで降りた。
名前を呼ばれて、驚いて彼女を見た。
ミズキは確かに学校では地味で良い意味では目立たない女子だ。
同級生の男子も女子もそう見なしていた。
おどおどとしてそそくさと目立たないようにしているクラスメイト。
いじめの対象にまではなかったけれども、いわれなく嘲りを受けていた、そんな少女。
でもその時の彼女は別人だった。
ちょっと話がある、そんな風に話しかけられ、不思議に思いながらも言われるままに彼女について行き、公園へ——。
そうだ、あのベンチには二人で座っていた、他に誰もいない、通りかかる人もいない寂れた公園。
でも目覚めた時には僕はひとりだった。
真ん中が丸く焼け落ちた写真みたいに、記憶が落ちている、何があったのかが目を凝らしても見えてこない。
焦げた穴の周り、前後の時間だけが思い出すことができる。
あの日、並んでベンチに座った僕たち、とても不思議な感じだった。
ミズキはこんな風に話しかけてくるタイプじゃないのに、と彼女の方を見た。
前髪を上げたミズキは、信じられないほど自信に満ちた目で僕の目を見返していた。
学校で見せる内気でおどおどした態度など微塵もない、別人みたいだ。
僕はその時に彼女を理解した。
彼女は学年の誰よりも鈍く、野暮ったいことを演じていた。
そうして自分の容姿もできるだけ艶やかさを隠し秘めるようにしていた。
あの学校での振る舞いは全て演技だったのだ。
目の前にはおそらく少女などではない、僕よりもはるかにずっと大人のミズキという存在があった。
その時と今この時、僕の目を覗き込む彼女の瞳の強さは意志を持って僕のことを制していた。
あの時のミズキが今、ここにいる、今の彼女こそが本当のミズキなのだ。
「トオルくん、あなたが聴いている水音は血の流れる音。それは他の人間の体内を流れる血流の音なの。
「私たち吸血族は血への渇望が湧いた時、身体が血を欲する時に血の在り処を敏感に感じとる。その時に五官の中で一番敏感になるのは鼻じゃなくてね、耳。耳が血の在り処を求めて聴覚が鋭くなる」
僕はまず、学校では見たことも聴いたこともないない顔と声の、ミズキが話していることにすっかり意識を奪われた。
それから一拍遅れて言葉を聴き咎めた。
——『吸血族』って何だ?
「あの日私はあなたを公園に連れ出して、誰もいないところであなたを襲って、何の覚悟も準備もないあなたを吸血族にしてしまった。念のために、肝心の場面はあなたの記憶から「焼かせて」もらったわ。
「きっと今、あなたは血への飢餓が溢れ出て耐えきれなくなってる。それは全部私の責任。
「吸血族にとって血への衝動は野生返りみたいなもの。人間と同じものを飲んで食べて、人間として生きていく訓練をして私たちは人間の社会に紛れることができる。
「だからあなたもこれから人間として生きる訓練をしなくちゃいけない」
僕はめまいで倒れそうになりながら聞いていた。
怒りがある、勝手に標的にされて餌食にされて吸血鬼にされた。
それなのに、人間の家に渇き飢えていてもそれを耐えて克服しろっていうのか。
自分は血を吸ったくせに?
「何で?何で僕の血を吸った」僕はミズキに問いかけた。「人間の血を吸わないで生きていける吸血鬼ならば、なんで僕を巻き込んだんだ」
「僕も吸血鬼になったら死なない身体になったの?」
「不老不死に近くはなっているけれど、不完全なもの。私たち自身が吸血族を知る途上にある。だからひそかに人間を襲って同族を増やしていかなくちゃならない。自分たちを知るために種としての運命の巻き添えを増やして、そこから未来への道を模索する。
「私たちだけの社会があって、私たち自身を守るためのルールがある。暴走して人間を襲う吸血鬼は危険な存在として仲間内で密かに処分されていく。あなたはもう運命に巻き込まれた、従うか消えるかしかないの」
僕は言葉を失った。
「クラスメイトとしてのミズキはきっと罪悪感を感じている、あなたの人生を奪ったことを」感情の抑揚のない、冷たい声で彼女は僕に告げる。「そして吸血族の一人としてのミズキはあなたをひとりの贄として選んだ。あなたが広く人付き合いのできない、孤立した人間だったこと、それが一番の理由。もしもあなたが制御しきれないで暴走するならば密かに処分される、そんな時でも家族意外に誰も気にすることのないあなたを」
水音が耳に響いている、その源はきっとミズキの身体からなのだ。
「トオルくん」突然声色を変えてミズキが言った。「あなたは私が選んだ贄なの、私が憎いのなら殴ればいいし、殺そうとすればいい。あなたにひどいことをしたのは確かだし、それは私が一番わかってる」
高校生のミズキに戻ったような様子で言ったが、きっと言葉通りには受け取るべきじゃない。
彼女は人間からの暴力を恐れてない、そんな絶対の自信がある目をしていた。
「なんですか、それ。贄って、あんまりじゃないですか」情けなさと悔しさで泣き喚きそうな気持ちだった。「殴るなんてできませんよ。きっと君……を殺すなんていうこともできないんでしょう」
「やっぱりトオルくんは頭が良いんだね。話が早いと助かる」
「どうしたらいいんです、僕は。誰かを襲って血を吸わなくちゃ生きていけない身体になったんですか」
「私たちはもう飢えでは死なない身体」ミズキはスマホを取り出して操作した。画面上に何かを呼び出してそれを僕に見せた。
古い奇妙な西洋画だった。
暗い吹き抜けのロビーのような場所で丸テーブルを囲んだ、ボロボロのオレンジの繊維を纏った、奇妙なウサギの耳のような羽のある帽子を被った奇妙な痩せた三人の男たちが、皿の上の赤い果実に長いストローを刺して中身を吸い上げている。
「レメディオス・バロの『菜食主義の吸血鬼』。私にとっての啓示。この画みたいに、西瓜とバラの花とトマトの果汁を吸いながらいきていく吸血鬼になっていく道もある。
「トマトジュース……人間の血だと思って飲むことによって衝動は抑制される。私もそうやって乗り越えてきた」
意志力を持った目と声の彼女を見ているうちに、僕の中で彼女に対する不思議な感情が芽生え始めていた。
「……もし僕に仕返しの権利があるなら」僕は言いかけて少し躊躇った。
「何?」ミズキの方が聴いてきた。
「僕に一つだけ仕返しを許してくれるなら」
ミズキが僕をじっと見ていた。
「人間を襲わない代わりに、君の血を。君の血を少しでもいい、僕に吸わせてくれないか」
ミズキはしばらく無言だった。
ある意味、仕返しは達成できた。
「吸血鬼の血を吸うなんて、我々の仲間で思いついた人はそういえばいなかった」
ミズキは僕の目を見て頷いた。
ベンチで並んで座りながらミズキは僕に首筋を晒した。
……彼女は本当に吸血鬼なんだろうか、どう見ても同じ年頃の女の子なのに。
「血の吸い方、分かる?」
「噛みつくんですか?」
「トオルくんはもっと犬歯が発達しないと難しいかも。私が少し切れ目を入れてあげようか?」
「いいんです、そのままで」
彼女が動く前に僕はそのままミズキの首筋に顔を埋めて、それから血管の上あたりに唇を押し付けた。
噛みつき皮膚を切り裂くことをためらったのは、人の身体を傷つける勇気がないこと、そして僕の頭の中の半分はまだミズキが吸血鬼であることを信じ切れていない疑い、そして。
本当のリアルの思春期、同級生を異性として見ることにはやはり障壁がある。
まるで家族のように身近で距離のある相手にセクシュアルな感情を向けることには心理的なタブーがある。
だからこそ、その障壁が崩れた時にむき出しになる欲望は根源的になりえた。
理不尽で不条理な状況の中で、僕はミズキに異性を感じてしまっていた。
唇と首筋を通じて、彼女の罪悪感につけ込んだ僕の醜い下心が見透かされてしまうのを恐れながら、この倒錯した口付けができるだけ長く続くことを願った。
嫌悪されて突き飛ばされる覚悟もしていたけれど、ミズキはそのまま動かないでいてくれた。
唇を通じて、彼女の血管に血が流れる音が響いてきた……。
この皮膚の下に流れる彼女の血を口に含んでみたい、僕の頭の奥にそんな欲望が揺らめき浮かんできた。
目覚めたのは吸血鬼の血の渇きなのか、それとももっと別の欲望なのか、それは僕にはまだ分からない。




