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きらきらの取扱説明書  作者: 聖稲


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第3話 最後の手順:ほどく

 朝。カーティスの荷車の鈴が鳴っても、返事がない。

 いつもなら、クラグルは広場の端で布を畳んでいる。布の端をきちんとそろえ、手首の動きだけで雪を払う。見回り役より早く起きているのに、今日は布がない。

 ヤスパーは鏡灯の裏手にある小屋へ走った。扉が半開きで、冷気が中に流れ込んでいる。棚には磨き粉の瓶が並び、床には昨日の布の切れ端が落ちていた。

 机の上には、湯気の消えた茶のカップが一つ。縁に口をつけた跡があり、飲みかけのまま冷えている。

 「朝の途中で……出たな」

 カーティスがカップを両手で包み、温度を確かめる。もちろん温かくない。それでも、触れた手が少しだけ落ち着く。

 リトビノフは床の跡を見た。雪が溶けてできた水の線が、鏡灯のほうへ続いている。

 「一人。ここから」


 ヤスパーは広場を一周し、最後に鏡灯の前で止まった。鏡面の曇りが、昨日より深い。夜の間に、何かを飲み込んだ顔をしている。

 「……いない」

 口にした瞬間、胸の奥に、昨日見た注意書きが刺さる。

 『貼りつきます』

 カーティスは息を吸って、ゆっくり吐いた。

 「深呼吸。……もう一回。二回目で笑う」

 ヤスパーが横目で見る。

 「笑えるか」

 カーティスは口の端を上げ、無理にでも笑い声を出した。

 「はは。……ほら、ちょっとだけ楽になる。泣く前に、息を通す」

 リトビノフは鏡灯の台座を見て、短く言った。

 「映すのを止める。布。厚い」


 カーティスが荷車の毛布を持ってきた。ヤスパーは見回り用の旗を外して棒に巻く。リトビノフは、なぜかパン屋から大きな天板用の布を借りてきた。店主は布を渡しながら、声を震わせた。

 「昨日……言われたこと、まだ胸があったかい。返すのはあとでいい。連れ戻して」

 ヤスパーはうなずき、言葉を短く返した。

 「任せろ」


 三人は、冊子を開いた。白紙だった最後のページに、薄い文字が浮かんでいる。光るというより、呼吸の跡が残ったみたいに淡い。

 『条件:鏡ではなく、その人を見て呼ぶ』

 『道具:あたたかい言葉、短く』

 カーティスが指でなぞり、唇の動きを確かめるように読み上げた。

 「鏡を見たら、鏡が返す。……だから、鏡を見ないで、クラグルを呼ぶ」

 ヤスパーが拳を握った。

 「鏡より先に人だ。いま言える言葉を、短く投げる」

 リトビノフが一言だけ足した。

 「説教しない」


 三人は鏡灯の前に立った。鏡面は、近づくほど何も映さない。なのに、足元の雪だけが妙に鮮明に映り、足が吸い込まれそうになる。

 リトビノフが先に動いた。布を高く掲げ、鏡面にふわりとかぶせる。鏡が、目隠しをされたみたいに静かになる。

 ヤスパーは布の前に立ち、わざと視線を上げない。鏡の中を見ないために、目をまっすぐ前の空気に置いた。

 カーティスは、息を吸って、短く言った。

 「クラグル。ここだよ」

 返事はない。けれど布の内側で、かすかな震えが走った。風ではない。布が、内側から引っ張られたみたいに波打つ。

 ヤスパーが声を落とす。

 「クラグル。お前の布、ここにある」

 彼は布の端を握りしめ、引っ張られないように踏ん張った。踏ん張る足の裏で、雪がきゅっと鳴る。

 リトビノフが短く言った。

 「名前。もう一回」

 カーティスが、呼ぶ。短い言葉を、同じ温度で。

 「クラグル。帰ろう」

 ヤスパーが続ける。

 「クラグル。止まっていい」

 リトビノフが、息を吐くみたいに言う。

 「クラグル。大丈夫」


 鏡灯の中――そこは、外側だけが立派な展示室だった。磨かれた額縁、つやつやの取っ手、傷ひとつない床。どれもきれいで、どれも冷たい。

 クラグルは、その中央で、鏡を磨いていた。布は手に貼りつき、指の関節が熱いのに、止め方が分からない。磨けば磨くほど、鏡は彼女の顔を消していく。映るのは布と手だけになる。

 布を動かすたび、展示室のどこかで小さな鈴が鳴った。褒められたときの鈴ではなく、作業が遅れたと叱る鈴だ。

 「あなたなら上手にできる」

 誰かの声が、鏡の裏から聞こえる気がして、クラグルは磨く速度を上げた。速度を上げるほど、肩が硬くなり、笑う場所がなくなる。

 昨日、広場で聞いた笑い声が、遠い。パン屋が照れて焦がした星の匂いも、遠い。遠いものほど、手を止めると消えてしまいそうで怖い。

 「きれいにしていれば、みんなが困らない」

 そう言い聞かせる声が、喉の奥で乾いていく。

 息を吸うと、胸がつかえる。吐こうとしても、吐く場所がない。

 そのとき、遠くから“名前”が届いた。

 呼ばれた瞬間、布を動かす手が止まった。止まったことで、初めて、自分が息を止めていたと気づく。

 展示室の壁に、小さなひびが入る。ひびの向こうから、雪の匂いがする。


 外側で、布が強く引かれた。ヤスパーの足が少し滑る。カーティスが背中を支え、二人で踏ん張る。

 リトビノフが布の端に、さらにもう一枚の布を重ねた。鏡面の反射を、二重に止める。

 「映さない。呼ぶ」

 短い確認のあと、三人は同時に、あの見本の一行を口にした。

 「君だけを見つめてた」

 昨日は笑った言葉が、今日は胸の奥まで届く。言い終えたとたん、布の内側の震えが、泣き声みたいに揺れた。

 クラグルの手が、布の向こうから伸びた。指先が、外の冷たい空気に触れて震える。

 カーティスが短く言った。

 「こっち」

 ヤスパーが短く言った。

 「離せ」

 リトビノフが短く言った。

 「握れ」

 クラグルは、磨くために固くしていた指を、初めて“掴む”ために使った。三人の手が重なり、布の端が、ほどけるみたいに緩む。

 次の瞬間、クラグルは雪の上に倒れ込んだ。息を吸った。吐いた。吐けたことで、肩が震え、声が漏れた。

 「……息が、できる」

 カーティスは膝をつき、笑いながら泣いた。ヤスパーは拳を握ったまま、顔を背けて鼻をすすった。リトビノフは何も言わず、黙ってクラグルの布を彼女の肩にかけた。手袋越しの指先が、少しだけ震えていた。


 鏡灯が、ゆっくり光り始めた。眩しさではない。雪の上に落ちる光が、あたたかい。クラグルの涙が、頬の途中で小さな結晶になり、きらりと光った。

 広場に人が集まる。パン屋の店主が、星形のパンを持って走ってきて、途中で転びそうになり、ぎりぎりで踏みとどまった。

 「転ばない! 今日は転ばない!」

 その叫びに、みんなが笑う。笑いが広がると、町の街灯がひとつ、またひとつと目を覚ました。

 冊子の最後のページには、いつのまにか一行だけ増えていた。

 『最後の手順:ほどく』

 文字を読み終えたとき、冊子の端から光の粒がふわりと抜け、雪の上で小さな輪になって消えた。

 クラグルはそれを見て、布の端を指でつまみ、ゆっくりほどくように畳んだ。急がない。誰かに見せるためでもない。自分の息の速さに合わせて。

 カーティスが言った。

 「今日の配達は遅れるね」

 ヤスパーが言った。

 「見回りは増える。転ぶ場所が増えた」

 リトビノフが言った。

 「増えるのは、光」

 クラグルは、声を出さずに笑った。笑った拍子に、胸がすっと通る。鏡灯の光が、町の雪を銀に染め、石畳の灰色を押し戻していった。



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