第2話 きらきらは磨くな、見つけろ
翌朝、ルミネの雪は少しだけ軽かった。街灯が、昨日より白い輪を地面に落としている。輪の中を歩くと、足音がきゅっと澄んで聞こえた。
カーティスの荷車の上で、毛布に包んだ冊子が、勝手にぱらりと開いた。白紙だったはずのページの手前に、昨日はなかった紙が一枚、増えている。
クラグルが指でなぞると、文字がにじむように光った。
『外側をこすっても増えません(腕が疲れます)』
クラグルは声を立てて笑った。広場の空気が凍っていたのに、その笑いでひびが入る。
「ほら、書いてある。腕が疲れるって」
ヤスパーが胸を張る。
「俺は昨日、頭が疲れた」
リトビノフが短く言った。
「雪だるま」
カーティスは笑いながら、冊子の次の行を読み上げた。
『内側のきらきらは、見つけて言うと集まります』
「磨くって言うと、鏡灯をこすりたくなるけど……違うんだね」
ヤスパーは鏡灯を見上げた。相変わらず曇っている。昨日一瞬だけ光ったのが、嘘みたいだ。
「よし。今日は、町のあちこちで“見つける”をやる。中心は、そのあとだ」
最初に向かったのは、川沿いの坂道だった。朝の雪かきが追いつかず、道の真ん中に雪の山が残っている。杖をついた老人が、何度も同じ場所を掘っては、息を吐いていた。
カーティスは荷車を止め、スコップを借りた。柄を握った手がすぐに赤くなる。
「一緒にやろう。粘りのコツ、あるんだ」
老人が顔を上げる。
「コツなんて、年寄りにあるかね」
カーティスは雪の山を見て、笑った。
「山に勝つコツは、山と喧嘩しないこと。角を落として、丸くする。丸くなると、雪は勝手に落ちる」
言いながら、スコップで雪の角を削っていく。老人も真似して、角を落とす。二人の手が同じ動きをすると、雪がぱらぱら舞い、その粒が星みたいにきらりと光った。
老人が笑い、笑った拍子に、雪の山が少し崩れた。
「お前さん、しゃべりながら手が止まらん。若いのに、よく続くな」
カーティスは息を切らしながら、冊子の手順1を思い出して言った。
「続くところが、いま光った。……あとね、目がやさしい。怒ってない」
老人が照れて咳をした瞬間、坂道の端の街灯が、ふっと明るくなる。雪面に光が丸く広がった。
次は市場の裏手。兄弟が、雪玉をぶつけ合っていた。怒鳴り声が空気を刺し、周りの人が避けて通る。
ヤスパーは二人の間に立ち、雪玉を両手で受け止めた。受け止めた雪玉は、なぜかきらりと光る。
「正しいのはどっちでもいい。いま、相手の良いところを言え」
兄が噛みつく。
「言えるわけない!」
ヤスパーは眉ひとつ動かさず、冊子を見せた。
「手順だ」
弟が嫌そうに兄を見る。兄も弟を見る。目が合った瞬間、二人とも、どこを見るか分からなくなって視線が泳いだ。
カーティスが横から小声で言う。
「眉毛じゃなくて、目。昨日それで柱にぶつかった人がいる」
ヤスパーが咳払いをする。
「まず、三つ。短く。長くなると逃げる」
兄がしぶしぶ言った。
「……投げるのがうまい。転んでも起きる。あと、母さんの手伝い、してる」
弟の耳が赤くなり、弟も返した。
「……兄ちゃんは、迷子になった子を帰した。寒い日にコート貸した。あと、俺の雪玉、避けない」
ヤスパーがうなずく。
「今ので、十分だ」
二人は、笑うタイミングを逃して変な顔になり、最後は同時に吹き出した。周りの人も、つられて笑い、凍っていた市場の空気がほぐれる。
その場の街灯が、じわっと明るくなった。
昼前、広場の端で、子どもたちが空を見上げていた。昨日泣いていた子もいる。目は、光に慣れようとしているみたいに、ぱちぱち瞬いていた。
リトビノフは、手袋を外し、雪の上に指で点を打った。
「冬の星。あれが、シリウス。あれが、カペラ。名前は、言うと残る」
子どもが身を乗り出し、同じように指で点を打つ。点の周りに、きらきらが集まるように見える。
「覚えた。シリウス」
言った瞬間、冊子の余白に光の粒が増えた。紙の端が、あたたかくなる。
クラグルはそれを見て、胸の中が少し軽くなった。昨日の白紙が、ただ怖いだけのものではない気がしてくる。
夕方、四人は鏡灯の前に集まった。冊子の余白には光がたまっている。パン屋の星形パンも、今日は焦げずにきれいな星の焼き色で並んでいた。
ヤスパーが腕まくりをする。
「中心へ戻す。……外側をこすっても増えない、と書いてあるが、俺は一回くらいこすって納得したい」
カーティスは氷菓子用の布を出し、リトビノフはなぜかメガネ拭きを出した。クラグルは、磨き布を持ってきていた。誰も言わないが、手に馴染んだ布だ。
四人で鏡面を拭いた。拭けば拭くほど、曇りは薄くなる……はずなのに、曇りは鏡の内側から湧くみたいに戻ってくる。
ヤスパーは手を止め、突然、鏡灯に向かって咳払いをした。
「……手順1だ。物だろうが、やってみる価値はある」
カーティスが目を丸くする。
「鏡灯を褒めるの?」
リトビノフが短く言う。
「試す」
ヤスパーは鏡灯を見上げ、真面目な顔で言った。
「背が高い。町の中心に立っている。昔は、よく光った」
最後が過去形になり、言った本人が少しだけ困った顔をする。
カーティスは笑いをこらえながら続けた。
「雪の日でも、倒れない。風が強くても、鳴き言を言わない。……あと、鏡だから、僕の寝ぐせを容赦なく教える」
リトビノフは鏡面をじっと見てから、短く言った。
「映す。黙る。待つ」
三つ目の言葉が落ちた瞬間、鏡灯が一瞬だけ、かすかな光を返した。だが光は、彼らの顔ではなく、クラグルの手元の布に吸い寄せられるように消える。
クラグルは、布を握り直した。握り直したとたん、指の間に、冷たい汗がにじむ。
鏡灯の台座には、古い刻印があった。雪を払うと、細い文字が出る。
『鏡は、磨かれるほど、誰かを貼りつけたがる』
誰かの冗談みたいな言い回しなのに、字の線は真剣だ。
カーティスが息を吐いた。
「ほら、腕が疲れる」
ヤスパーはうなずき、冊子を開いた。すると、今まで見えなかった小さな注意書きが、端に浮かんだ。
『※自分を磨きすぎた人は、鏡に貼りつきます』
リトビノフが短く言った。
「貼りつく」
ヤスパーが唇を噛む。
「冗談じゃない。町の中心が、そういうことをするのか」
クラグルの胸の奥が、ちくりと痛んだ。痛みは針の先みたいに小さいのに、気づいた瞬間、呼吸が浅くなる。
昨日、鏡面の奥で自分の目が映った気がした。あれは、呼ばれていたのだろうか。
「……私なら、上手にできる」
言葉が、口から出る前に喉で止まった。止まったぶんだけ、心の中で大きくなる。
夜。町の街灯は増えたのに、鏡灯だけは暗いままだった。広場の雪は静かで、足音が響くと、自分の心臓の音も聞こえてしまう。
クラグルはひとりで鏡灯へ向かった。誰にも見られないように、路地を選んだ。布を握る手に、汗がにじんで冷える。
鏡面は、近づくほど、彼女の顔を映さない。代わりに、布の白さだけを映す。
「外側じゃない。内側……」
言い聞かせたのに、鏡灯は“外側のきらきら”を欲しがるみたいに、彼女を引き寄せた。鏡面に手を置いた瞬間、冷たさが吸い付く。
離そうとしても、指が動かない。
息が詰まり、声が出ない。鏡の中に、曇りではない闇が広がる。
最後に、広場の街灯が、ひとつだけちかちかと揺れた。
鏡面の中に、クラグルの手だけが残って見えた。




