第1話 雪の中のマニュアル
雪の町ルミネは、朝の鐘が鳴っても、明かりが起き上がらない。石畳の上に薄い灰色が敷かれ、店の看板も、窓の灯りも、息をひそめたままだ。
見回り役のヤスパーは、腰の鈴を鳴らしながら歩き、道端の街灯を見上げた。指でつついても、光は弱いまま揺れるだけ。
「気合で直すなら、いまごろ町じゅうが筋肉痛だ」
言い切った直後、彼は足元の雪に滑った。ちょうどそこに、誰かが作りかけで放置した雪だるまがあり、ヤスパーの頭は、ぴたりと胴体の上に刺さった。
雪だるまは、見回り役の帽子をかぶって完成し、ヤスパーだけが外に出せない。
「……見回りの交代、頼む」
雪の中から聞こえる声に、通りかかった氷菓子の配達人カーティスが、荷車を止めて笑った。
「交代って、いま二人一組みたいになってるよ。雪だるまと」
カーティスはそっと腕を引き、ヤスパーの頭を雪から救い出した。帽子には雪の粒が光らずに貼りついている。
そこへ、分厚いコートの背中を丸めて歩いてきたのが、言葉の短いリトビノフだ。彼はパン屋の紙袋を持ち、袋の中身が温かいと確かめるように手を当ててから、ヤスパーに紙袋を差し出した。
「朝。焦げてない」
それだけで、なぜか安心する。
四人目のクラグルは、町の広場にある大きな鏡灯を、黙って見上げていた。鏡でできた灯りの柱は、昔は夜ごとに雪を銀に染めたというのに、いまは曇ったまま、何も映さない。
ヤスパーは鼻の頭の雪をぬぐい、クラグルの視線の先を追った。
「中心が暗いと、端っこも気が抜ける。……だからって、俺の頭が雪だるまになるのは納得いかん」
クラグルはくすりともせず、鏡灯の縁に指を置いた。磨いたところで、光は戻らない。指先が少し冷えるだけだ。
そのとき、空から、白い紙の束がひらひらと落ちてきた。
雪のように舞うが、雪よりも重い。ぱさり、とヤスパーの胸に当たり、彼は反射で受け取った。
表紙に、見慣れない文字がある。
『きらきらの取扱説明書』
「……誰の?」
カーティスが表紙をのぞき込み、鼻先で紙の匂いを嗅いだ。
「紙なのに、冷たい匂いがしない。変だね。雪から落ちてきたのに」
リトビノフが、表紙の角を指で押さえた。紙は濡れていない。雪の町の空から落ちたのに、乾いたままだ。
クラグルは、そっと冊子を開いた。すると中の文字が、淡く光った。
「読める……」
見開きの最初のページに、太い文字で書いてある。
『手順1 だれかの良いところを3つ言う』
ヤスパーは眉を上げた。
「取扱説明書って、街灯の?」
カーティスが肩をすくめる。
「僕の氷菓子にも付いてきたらいいのに。『溶ける前に渡してください』とか」
リトビノフが短く言った。
「溶ける」
ヤスパーがうなずく。
「よし。手順どおりやってみる。こっちの町は手順に飢えている」
四人は、広場から少し下ったパン屋へ向かった。窓には、いつもなら甘い湯気が曇りの絵を描くのに、今日は薄い。
戸を開けると、店主が小さくため息をついていた。焼き上げたはずのパンが、なぜか膨らまず、しぼんだまま並んでいる。
ヤスパーは冊子を掲げた。
「三つ、良いところを言え、と書いてある」
店主は、戸惑って笑った。
「パンの良いところなら、いくらでも……」
リトビノフが一歩前へ出て、店主を見た。視線はまっすぐで、言葉は短い。
「手が早い。香りが残る。声が温い」
店主の顔が赤くなった。驚いて、手元の鉄板を落としそうになり、慌てて持ち直した。
「い、いきなり三つも……!」
カーティスが笑いながら、店先のベルを指で鳴らした。
「僕も言う。朝早いのに、店、開けた。あと、焦げても捨てない。……それ、むしろ僕の心が救われる」
ヤスパーは最後に、わざとらしく咳払いをした。
「店の前の雪かき、毎日丁寧だ。俺が転ぶ場所を減らしてくれ」
店主は、笑いと照れで顔を覆い、うっかりオーブンのタイマーを押し間違えた。中のパンが一気に焼け、端が少し焦げる。
「ごめん!」
ところが焦げた部分は、星の形になっていた。偶然の焦げ目が、雪の粒のようにきらりと光る。
店主が驚いて星形のパンを持ち上げると、店の天井の明かりが、ほんの少しだけ明るくなった。
外の街灯も、さっきより白い。
「……効いた?」
ヤスパーが冊子を見ると、余白に小さな光の粒が集まり、文字のそばに寄っていた。紙が、町の明かりを吸い取っているように見える。
次のページが、勝手にめくられた。
『手順2 目を合わせて、短い言葉』
その下に、見本のように一行だけ、光る文字がある。
『君だけを見つめてた』
カーティスが吹き出した。
「急に恋文だ」
リトビノフは真面目に首をかしげた。
「短い……?」
ヤスパーが腕を組む。
「短い、が、強い。……よし。練習するぞ」
四人は店を出て、通りで向かい合った。ヤスパーはクラグルの目を見ようとして、見つめすぎて瞬きを忘れ、目が乾いて痛くなった。
「君だけを……見つめ……っ、うわ、目が」
カーティスは笑いすぎて声が裏返った。
「君だけを見つめてた、って言いながら、君の眉毛を数えてる顔してるよ」
リトビノフは真顔のまま、ヤスパーの鼻先を見つめた。
「君だけを見つめてた」
ヤスパーは反射で後ずさりし、背中を街灯にぶつけた。街灯が、ほんの一瞬だけ、ぱっと光る。
通りの角で泣いていた子どもが、光に気づいて息を止め、泣き声がふっと小さくなった。母親がその頬をぬぐい、子どもは手のひらの小石を握りしめる。小石が、きらりと光った。
クラグルは、その光を見て、胸の奥がほどけるような感覚を覚えた。誰かの目が優しくなると、世界の色が戻る。
四人が広場へ戻ると、鏡灯が一瞬だけ白く輝いた。だがすぐに、曇りに呑まれて消える。
「中心だけ、嫌がってるみたいだな」
ヤスパーが言うと、冊子の最後のページが勝手に開いた。
そこには――何も書かれていなかった。
真っ白な紙が、雪明かりを受けて、冷たく光るだけ。
鏡灯の足元では、通りすがりの人たちが立ち止まっていた。靴底で雪をきゅっと鳴らし、互いに顔を見合わせる。さっきまで誰も目を合わせなかったのに、今は「光った?」と同じ言葉を小声で繰り返している。
パン屋の店主が星形のパンを抱えて広場へ来て、照れ隠しに大きく咳をした。
「べ、別に褒められたから焦がしたわけじゃないぞ」
言い訳が長くなるほど、周りの笑いが増え、笑い声が増えるほど、広場の空気がほんの少し温かくなる。雪の上に落ちた影が、さっきより濃い。
ヤスパーは冊子を胸に押さえた。紙が、温度を持っている気がした。握りしめると、手の中の冷えがほどける。
「白紙は、次の手順が出るまで黙ってろって意味かもしれん。……黙ってろと言われると、喋りたくなるのが人間だが」
カーティスは荷車の上に毛布を広げ、冊子をそっと包んだ。
「溶けるものは包む。壊れやすいものも包む。きらきらも、いったん包もう。朝になったら、また開いてみる」
リトビノフはうなずき、包みの上に自分の手袋を置いた。守ると決めたときの動きだけが、はっきりしている。
クラグルは鏡灯を見上げた。曇った鏡面の奥で、ほんの一瞬、自分の顔が映った気がした。映ったのは顔より先に、目だった。誰かの良いところを数えるときの目。
カーティスが、笑いを引っ込めた。
「最後が白いって、いちばん怖い」
リトビノフが低く言った。
「手順……足りない」
クラグルは、白紙に指を置いた。指先だけが冷え、鏡灯の曇りが、少しだけ濃く見えた。
その夜、町の空は雪を降らせながら、なぜか静かだった。白紙の余白に集まった光の粒だけが、かすかに呼吸している。




