第6話 :『微細な揺らぎ』
見える人、気づける人に光あれ。
翌朝、会社に着いたとき、
オフィスの空気がほんの少しだけ違って感じた。
昨日と同じようにPCを起動し、
いつものメールチェックを始める。
だが、
視界の端でアークが淡く揺れていた。
《観測インターフェイスを起動しますか?》
「……いや、今日は普通に仕事するよ。
あれはまだ、慣れてない」
《了解しました》
アークは素直に光を弱めた。
ホログラムの輪郭が消えかけ、
ただの“気配”だけが残る。
(今日は何も起きないはず……)
そう思いたかった。
だがすぐに、
昨日の“淀み”の前で待っていた社員たちが
妙に少ないことに気づいた。
昨日は5人並んでいた。
今日は1人だけ。
ただの偶然だ。
そう言い聞かせる。
が、その1人が小さくつぶやいた。
「……紙じゃなくて、データで提出できないかな……?」
その声に、
品質管理室の係の女性が顔を上げた。
「そうなんですよね。
私もずっと思ってたんですけど……」
いつも通りの、
穏やかなやり取りだった。
刺々しさも不満もない。
ただ、
“仕方ない”を共有しているだけの会話。
昨日までの自分なら、
何も引っかからずに通り過ぎていただろう。
だが今日は違った。
アークが声も出さず、
ただ光の粒子を揺らす。
《揺らぎです》
(揺らぎ……)
《あなたが“おかしい”と感じた地点は、
流れの中で“揺らぎやすい場所”になります》
「俺が感じたから?」
《はい。
観測によって、
その箇所は“可動性”が少しだけ増したのです》
言われても、理解が追いつかない。
「俺が何かしたわけじゃない。
ただ見ただけだよ?」
《観測とは“力の介入を伴わない影響”です》
アークは淡々と言う。
《人は目にしたものを語り、
感じたものを空気に流します。
あなたが明確に“変だ”と思ったことで、
その場に微細な変化の種が落ちました》
(そんなことで変わるのか……?)
《世界は、人の感情と認知の影響を常に受けています。
特に“構造のほころび”は、わずかな気配で揺れやすいのです》
昨日の観測は、
大したことじゃないと思っていた。
ただ、自分の中で整理しただけ。
会社にも何も言っていない。
行動もしていない。
それでも──
何かが変わり始めていた。
再びアークが静かに告げる。
《観測は、世界への“最も弱くて最も繊細な力”です》
その言葉の意味を考えていると、
デスクの後ろから声がした。
「課長、昨日の書類……電子で送っておきました。
紙じゃなくてもいいですよね?」
課長は少し驚きながらも、
特に強い否定はせず頷いた。
「……まぁ、いいよ。
あとで印刷してもらえれば」
昨日と違う。
確実に違う。
紙提出のルールが消えたわけじゃない。
改革が起こったわけでもない。
でも“揺らぎ”は確かに存在していた。
(本当に……俺が何かしたわけじゃないんだけどな)
アークが淡い光のまま答える。
《あなたが何かする必要はありません。
“気づくこと”が第一歩です》
「でも……なんで俺なんだ?」
アークは少し間を置いた。
《あなたが“気づける人”だからです》
気づける人。
その言葉は、
褒め言葉にも責任にも聞こえなかった。
ただ静かに、
自分の胸の奥に落ちていく。
視界に広がるオフィスは同じなのに、
もはや昨日まで見ていた世界ではなかった。
アークが最後にひとこと告げた。
《観測者は、意図せず世界を動かします》
胸が波打った。
だが不思議と恐怖はない。
ただ、
“何かが始まった”という感覚だけが確かにあった。
──世界は、静かに形を変えていく。




