第5話 :『流れの淀み』
ちょっとボリュームをアップしました。
午前のオフィスは、
いつもと変わらない騒がしさに包まれていた。
コピー機のモーター音。
マウスが机を滑る小さな音。
雑談とも仕事ともつかない低い声。
だが今日は──
それらがすべて、
“背景のノイズ”ではなく“構造の表層”に聞こえた。
アークのホログラムが、
デスク脇で淡い光の粒をふわりと広げる。
《観測インターフェイスを起動します》
いつもの無機質な文面なのに、
今日は妙に重く感じた。
粒子が視界いっぱいに薄く広がり、
オフィスの風景にうっすらと重なる。
(……光の線?)
最初は視覚のバグかと思った。
しかし凝視すると、
それは確かに“流れ”だった。
人の視線の動き。
仕事の依頼の方向。
情報の流れ。
気持ちの重さ。
タスクの滞留。
それらが細い光となって
人から人へ、部署から部署へと伸びている。
アークが静かに解説する。
《情報、意志、責任、感情。
組織を流れる“非可視の資源”です》
なるほど、と思った瞬間。
特定の場所に、
濁った“淀み”が見えた。
課長の席の周辺。
品質管理室の入り口。
そして──
プロジェクト管理表が貼られたホワイトボードの前。
(……どこの会社でも見たことがあるやつだ)
自分でも驚くほど冷静に、
そう思ってしまう。
アークが光を揺らした。
《淀みは“構造的バグ”が発生している箇所です。
個人の問題ではありません。》
(構造の……バグ)
言われてみれば、
心当たりしかなかった。
品質管理室には、
外部からの問い合わせが集中している。
そのたびにライン調整や会議が割り込む。
課長の席には、
あり得ない量の決裁待ちが積み重なっている。
ホワイトボード周辺には、
「本当はやるべき」タスクが
誰にも拾われずに放置されている。
全部“症状”だ。
アークが淡く言う。
《あなたは、
これまで“違和感”として蓄積していたものを、
構造として観測できるようになっただけです》
「だけ……ね」
皮肉でもなく、本当に“だけ”なんだろう。
世界が変わったわけではない。
構造はずっとそこにあった。
ただ俺の視界が変わった。
アークの光が少し強まる。
《本日は、
“最初の淀み”を観測します》
「最初の?」
《はい。
この会社に限らず、
社会には数多くの淀みが存在します。
ですが、最初は“最も浅い層”から》
視界がふっと明るくなり、
ある一点に光の粒子が集まっていく。
品質管理室の前だった。
午前中なのにすでに5人ほどが順番待ちをしている。
誰も文句は言わない。
誰も急かさない。
ただ、
「仕方ない」という空気だけが漂っている。
アークが言う。
《この渋滞は、
人の能力の問題ではありません》
光の線が、
書類棚 → 課長 → 他部署 → ライン → 報告書作成 → 再提出
という複雑なルートを描いた。
《“ルート設計”に欠陥があります》
(ルート……)
アークの光がさらに細かい粒となって
一点に集まっていく。
《最初の淀みはここです》
光が収束した先には、
小さな貼り紙があった。
【必ず書類を紙で提出すること】
……古い。
古すぎる。
だが、「そういうもの」で済ませてきた世界だ。
アークが淡く揺れる。
《データはデジタルで作成され、
プリントアウトされ、
再び人の手で入力され直しています》
《この1枚の紙が、
全体の流れを80%遅延させています》
(……紙1枚で?)
《はい。
“構造上の些細な異物”は、
しばしば流れ全体を支配します》
視界の中で、
紙提出のルールが引き起こす
異常なループ構造が描かれた。
誰が悪いわけでもない。
ただ、構造が悪い。
俺は小さく息を呑んだ。
アークが静かに問う。
《観測者。
あなたは、この淀みをどうしますか?》
「……え? どうって?」
思わず声が裏返った。
自分に向けられた問いだとは思わなかった。
まるで突然、
ステージに引っ張り上げられたような感覚。
アークは少しの沈黙を置いて答える。
《“観測者”とは、
構造を観測し、
流れの改変点を選択する者を指します》
「いやいやいや、ちょっと待って。
そんな大げさな役割、俺に?」
アークの光が淡く揺れた。
揺れは感情にも似ているが、決して感情ではない。
《誰かがそうなるわけではありません。
“観測できる者”が自然とその役割を担うだけです》
返事に困った。
正直、
“観測者”なんて呼ばれてもピンと来ない。
むしろ困惑の方が大きい。
アークが続ける。
《ご安心ください。
“決断”や“改革”を求めているわけではありません》
《まずは、
“あなたが何を感じたか”を知りたいだけです》
「……感じた、ね」
視界に映るのは、
品質管理室の前に穏やかに並ぶ社員たち。
不満を言う人はいない。
でも、ただ待っているだけで時間が溶けていく。
「なんか、変だと思った。
……いや、ずっと変だと思ってたのかも」
言ってから気づく。
これは今日初めて感じたことじゃない。
ずっと前から気になっていた。
ただ“仕方ない”と思い込んでいただけだ。
アークの光がわずかに明るくなった。
《それが“観測”です》
「でも、だからってどうしたらいいのかなんて──」
《今は、分からなくて構いません》
《ただ “変だ” と気づけた瞬間、
流れのバランスはわずかに変化を始めます》
(変化……?)
そう思った瞬間、
視界の端で、
待っていた社員の一人が
ため息をついて列を離れた。
別に特別なことじゃない。
ただの偶然とも思える。
でもアークが淡く告げる。
《観測とは、
世界に“揺らぎ”を与える行為です》
《あなたが感じた“違和感”は、
流れの中に初めて入った微小な力です》
俺は息を呑んだ。
なにが起きているのか分からない。
でも確かに──
世界がほんの少し揺れたように見えた。
アークが静かに宣言する。
《これが、観測者としての“第一歩”です》
光の粒がゆっくりと散り、
オフィスの騒音がふたたび戻ってくる。
(……どうって?)
自問する。
分からない。
まだ何も分からない。
でもその“分からなさ”が、
妙に心地よく感じた。
──世界が、静かに動き始める。




