第29話:『整えようとするもの』
“正しさ”が、
善意として入り込む。
資料は、揃っていた。
揃えた記憶はない。
けれど、揃っている方が落ち着く。
角度、順番、余白の幅。
どれもが、意識しなくても読める配置になっている。
(……いつの間に)
歪みは、消えていない。
ただ、見えにくくなった。
会議室のスクリーンに映るスライドは、
簡潔で、無駄がない。
入口から出口までが一本の線で結ばれている。
迷う場所がない。
戻る場所もない。
「ここを基準にしましょう」
穏やかな声。
異論の出ようがない言い方だ。
基準は、
散らばった視線を一つに集める。
それ自体は、良いことだ。
(基準……)
基準は、
歪みを“正す”。
同時に、
歪みが生まれた経緯も覆い隠す。
説明は通る。
作業は楽になる。
判断は速くなる。
誰も困らない。
むしろ、助かる。
それでも、
使い心地だけが、少し遠くなる。
配合表を見る。
数値はそのままだ。
規定値の範囲内。
どれも、
いまの配置から
一ミリも動いていない。
だが、
“見る順番”が一つに固定されている。
入口。
中間。
結論。
(選べない、わけじゃない。
選ばなくていい、になってる)
後輩が、
資料をめくりながら小さく息をつく。
「これなら、
迷わず進めますね」
迷わない。
それは正しい。
ただ、
迷いが必要だった場面も、
一緒に消えていく。
迷いは、
失敗の種でもあるが、
発見の入口でもある。
営業が頷く。
「説明、揃いますね。助かります」
揃う。
それも正しい。
揃うことで、
ズレは“例外”になる。
(例外は……
記録されない)
記録されないズレは、
存在しないことになる。
ホログラムはすでに起動している。
《稼働中》
アークの表示は、
整えられた流れの中心にはいない。
少し外側。
全体が見える位置だ。
「これ、どう見える?」
問いは短い。
評価を求めてはいない。
一行。
《整理、進行》
進行。
止まらない。
だが、解決でもない。
整理は、
歪みを壊さない。
包む。
包まれた歪みは、
静かになる。
だが、消えない。
会議は滞りなく終わる。
誰も反対しなかった。
誰も傷つかなかった。
誰も置いていかれなかった。
それでも、
席を立つとき、
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
(これは……
管理じゃない)
命令も、
規則も、
評価もない。
ただ、
善意の整頓。
だからこそ、
後戻りしにくい。
机に戻ると、
余白は見えなくなっている。
消えたのではない。
折り畳まれただけだ。
折り畳まれた余白は、
目立たない。
触れにくい。
(畳まれた余白は……
あとで、別の形で開く)
資料を閉じると、
配置はそのまま保たれる。
誰かが維持しているわけではない。
整った形の方が、楽だからだ。
アークの表示を見る。
「ここから先……」
言葉が続かない。
選択の話ではない。
判断の話でもない。
ただ、
世界の向きが
少し変わった。
一行。
《境界、接近》
境界。
創る側と、整える側。
揺れと、正しさ。
近づいている。
まだ触れてはいない。
窓の外を見る。
雲は整列している。
風は弱い。
空は安定している。
崩れる気配はない。
むしろ、穏やかだ。
だが、
どこかで、
次の動きが待っている。
整えられた世界は、
長くは保たない。
正しさが入ったからではない。
正しさが、
余白の行き先を変えたからだ。
余白は、
消えない。
ただ、
表に出られなくなる。
選択は、
もう避けられない場所に来ている。
だが、
まだ選ばない。
今日は、
整えられた世界を
そのまま観測する。
その観測自体が、
すでに
境界の内側に入っていると気づかないまま。




