第21話:『最初の痕跡』
ほんの小さな選択が、
世界に消えない痕跡を残す。
数値を、ひとつだけ書き換えた。
大きな変更ではない。
桁も変わらない。
グラフの形も、ほとんど同じままだ。
ただ、立ち上がりの位置を
ほんのわずかに前へ寄せた。
(……これでいい)
理由は説明できる。
理屈も通っている。
でも、今それを言葉にする気はなかった。
選んだのは、
“入口に触れる配置”。
保存や後段の調整ではなく、
最初に口に入った瞬間の位置。
カーソルを離すと、
画面のグラフが静かに更新された。
変化は小さい。
だが、
その小ささが、かえって目に残る。
(戻そうと思えば、戻せる)
数値だけ見れば、そうだ。
けれど、
配置はもう戻らない。
資料の並びも、
視線の流れも、
頭の中の重心も。
すでに一度、世界は応答している。
ホログラムが淡く明度を変える。
《反映、完了》
それだけ。
肯定も警告もない。
ただ、
選択が“世界側に届いた”という事実だけが置かれる。
机の上の資料を見渡す。
営業コメントの束が、
少しだけ手前に残っている。
保存試験のデータは、
自然と奥へ退いた。
誰かが動かしたわけじゃない。
配置が、自分で落ち着いた。
(……痕跡だな)
選択の結果が、
行動ではなく
並びとして残る。
後輩が、サンプルを持って近づいてくる。
「南条さん、
この前の試作、もう一度味見してもらえますか?」
差し出されたスプーンを受け取る。
口に含む前から、
香りの立ち上がりが
昨日より少しだけ近い。
(早い……)
強くなったわけじゃない。
派手でもない。
ただ、
“来る位置”が変わった。
口に入れた瞬間、
甘味が先に立ち、
そのあとで他の要素が続く。
全体としては、
ほとんど同じ配合だ。
けれど、
体験の順序が違う。
(……これは)
「どうですか?」
「……悪くない」
即答はしなかった。
良いとも言わない。
ただ、
意図した痕跡が、確かにある。
後輩が戻っていく。
その足音が、
以前より少しだけ軽く聞こえた。
理由は分からない。
でも、
世界の反応としては十分だ。
アークの表示を見る。
「今の反応……」
言いかけて、止める。
分析でも、評価でもない。
確認したいのは、
“起きたかどうか”だけ。
一行。
《影響、局所》
局所。
広がってはいない。
でも、消えもしない。
選択は、
世界に“点”として打たれた。
点は、
すぐには線にならない。
だが、
次に何かが動くとき、
必ずその点を通る。
机の端に置いたペンが、
いつの間にか
入口側の資料の近くへ寄っている。
無意識だ。
自分の手が、
すでに“次”を前提にしている。
(世界の方が、先に覚えてるな)
選択したのは自分だ。
でも、
それを保持しているのは世界だ。
窓の外を見る。
雲が、
さっきよりわずかに形を変えている。
流れたわけでも、
消えたわけでもない。
ただ、
一度折れた形のまま
次の変化を待っている。
選択は小さい。
結果も静かだ。
けれど、
もう“なかったこと”にはできない。
それで十分だった。




