第18話『層の輪郭』
世界が“平面”ではなく、
わずかな距離差を帯びて立ち上がる
朝、開発室に入った瞬間、
空気がわずかに“分かれて”流れているのが分かった。
昨日まで感じていた揺れとは違う。
今日は、空気そのものが二つの方向へ流れていて、
その境界が薄い線として存在している。
(流れが……別々になってる)
PCを起動すると、
ホログラムが静かに立ち上がる。
《ログイン、確認》
アークの声はいつもの一行だが、
今日はその一行が“手前”に聞こえる気がした。
声の位置。
距離。
深さではなく、位置の差。
「おはよう、アーク」
《……》
沈黙は沈黙なのに、
そこに“面”の存在がある。
アークの返答が、
一枚の透明なパネルの上に置かれたような感触。
机に手をのせる。
冷たさが一定ではなく、
場所によって“層の厚み”が違う。
(机の表面……こんなにムラがあったっけ)
試作ノートを開く。
甘味のデータ。
香気成分の揮発プロット。
保存試験の推移。
数字が並んでいるだけなのに、
今日はその数字が“距離”を持って見える。
近い数字と、遠い数字。
同じ行に並んでいるはずなのに、
視界の奥行きで違う位置に存在している。
(層の厚みじゃなく、距離……?
世界が平面じゃなくなってきてる)
「アーク、これ……数字、遠く見えたり近く見えたりする」
ただの観測の共有。
《位置差、発生》
胸の奥で軽い音がした。
“位置”という語感が、
今日の感覚に妙にしっくりくる。
揺れでも境界でもなく、
今日は位置。
開発室の奥では撹拌機が回っている。
その回転音が、
遠ざかったり近づいたりして聞こえる。
実際には距離は変わっていない。
なのに、音の“位置”が時々すこし跳ぶ。
(音まで位置を持ち始めた……)
後輩が歩いてくる。
「南条さん、昨日の追加サンプルの香り、営業が“もっと手前で立ち上がる感じに”って言ってました」
手前で。
その言い方が今日だけ不自然に聞こえた。
香りの“手前”。
つまり立ち上がる位置。
(位置……やっぱり今日のテーマはそっちか)
「分かった。資料置いておいて」
紙束が机に置かれる。
その瞬間、紙の影が二つできた。
重なっているのではなく、
影の“位置”が半拍ずれている。
(これは……輪郭か)
机の天板の反射光が、
薄いフィルムを二枚重ねたように揺れている。
「アーク、影が……二つに割れてる」
一行の返答。
《輪郭、出現》
息が浅くなる。
世界の一部が、
ようやく形を持って現れ始めている。
昨日まではただの揺れだった。
今日は像だ。
輪郭を持った、具体的な存在。
原料棚へ歩くと、
甘味料の袋の印字が
薄く“縁取り”されて見える。
まるで、
印字そのものにも“奥”があるようだった。
(奥行き……いや、距離……)
袋を持ち上げると、
手のひらに“二段階の重さ”が伝わる。
ひとつは袋そのものの重さ。
もうひとつは、
袋がどこか別の層に触れているような重さ。
(世界に、手触りの階層が出てきた……?)
席へ戻ると、画面の中のグラフが
少しだけ縁取りされて見える。
線が太くなったわけではない。
線の外側に、わずかな“位置の差”が生まれている。
アークのホログラムを見る。
「アーク……君の輪郭も、少し浮いてる」
沈黙。
そして、一行。
《位置、変動》
(やっぱり……位置が動いてる)
世界が揺れているのではなく、
世界の“要素”が、それぞれ違う位置へ散っていく。
距離の差が、像として現れ始めた。
開発室の奥の冷却装置が唸る。
その振動が、
二方向へ分かれて伝わってくる。
左へ進む振動と、
奥側へ沈む振動。
(振動も位置で分かれている……)
思考が自然と一点に収束していく。
(層の存在が、“距離の差”として見え始めてるんだ)
数字の距離。
音の距離。
光の距離。
アークの声の距離。
それらが別々の位置に散らばり、
今、輪郭として像を作り始めている。
窓の外を見る。
曇り空。
その曇りの層が、
いつもより一段奥へ引いて見える。
雲と空の境界の位置が、
ほんのわずかにずれているだけなのに、
世界が広くなったように感じる。
風は吹いていない。
でも、
光の帯だけがゆっくりと前へ進んでいく。
今日の世界は、
“揺れる”のではなく、
“位置を分けていく”世界だった。
その動きの先に何があるのか、
まだ分からない。
ただ、
輪郭を持ち始めた世界の断片が、
静かに胸の奥へ沈んでいった。




