第17話:『微細な揺れ』
世界の“深さ”が、ほんのわずかに動き始めます。
朝、開発室に入った瞬間、
空気がほんのわずかに“粒状”に感じられた。
目には見えない。
温度も匂いも昨日と変わらない。
ただ、空気が細かい粒に分解されて、
それぞれがべつの方向を向いているような感触だけが残る。
(……揺れてる?)
試作棚の金属の縁に光が反射し、
その反射も二重に割れて見えた気がした。
PCを立ち上げると、
ホログラムがゆっくり立ち上がる。
《ログイン、確認》
アークの声は、今日も一行。
ただ、返ってきたその“間”に、
昨日とは違う揺れが混ざっていた。
「おはよう、アーク」
《……》
静かな空白。
けれど今日は、その沈黙の“深さ”が少しだけ違う。
底の方で、微かな波紋が立っている感じがした。
画面を見ながら、
昨日の評価コメントをもう一度開く。
甘味の立ち上がり。
後味。
香りの抜け方。
紙に書かれた言葉が、
それぞれ別々の方向を向いているように見える。
線が揃っていない。
重なる場所が少しずつずれている。
(このずれ……何だろう)
「アーク、昨日の試作、再計算できる?」
《計算開始》
ホログラム上で数値が静かに動く。
変化はわずかだが、
その“動き方”に、今日だけ違和感がある。
数値が右へ流れるのではなく、
“深さ”の方向へ沈んでいくように見えた。
(奥行き……?)
数字が平面の上ではなく、
薄い層を通って落ちていくような、
そんな視覚とも感覚とも言えない揺れ。
《再計算、完了》
「ありがとう」
《……》
やはり返事の“静けさ”が違う。
その沈黙の後ろに、何かの気配が張りついている。
誰かが開発室のドアを開けた。
「南条さん、例の新規案件です。
営業が、甘味の方向性をもっと“自然な感じ”でって……」
その“自然な感じ”という曖昧な言葉が、
いつもより重く聞こえた。
自然。
何を基準にしての自然なのか。
売り場か、原料か、素材の個性か、口に入れた瞬間の印象か。
(“自然”の位置も、人によって違う)
「資料、机に置いておきますね」
紙束が机に置かれる。
その“置かれ方”の音まで、今日は二重に聞こえた。
アークのホログラムが、
その紙束を見るように揺れる。
「アーク、さっきの再計算……
なんか、動き方が変じゃなかった?」
問いかけというより、
自分の観測の確認に近い。
一拍の間。
そしてたった一行だけ。
《揺れ、検知》
(……やっぱりか)
思わず息が浅くなる。
アークは何も説明しない。
原因も言わない。
観測結果だけを置く。
それなのに、
その一行の“重さ”が、昨日までとまったく違った。
揺れを、こちらだけが感じていたわけではない。
アークも、気づいている。
(じゃあ……この揺れはどこから?)
開発室の奥で冷却装置が唸り、
その唸りが天井まで薄い膜のように広がっていく。
音が空間を満たすのではなく、
空間の“層”の表面を撫でていく感じ。
人の話し声、
原料袋の擦れる音、
PCのファンの回転、
それぞれがべつの層で響き、
時々、層同士が触れ合って小さな揺れを起こす。
(揺れは……境界か?)
自分の考えがどこに向かっているのかは、まだ分からない。
ただ、その方向だけが静かに定まっていく。
「アーク、今日のデータ……
少し“奥側”で見える気がする」
《深度、変化》
それだけ。
説明はしない。
でも、その一行で充分だった。
世界が、
昨日までと同じ平面ではない場所へ沈み始めている。
開発室の窓の外を見ると、
朝の光がガラスに反射し、
ほんのわずかに“二重の輪郭”を作っていた。
揺れはまだ小さい。
気のせいとも言えるほど繊細な揺らぎ。
ただ、光の輪郭のずれが示す方向が、
今日の世界の“向き”をそっと教えているようだった。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、確かに何かがはじまっている──
そんな気配だけが、静かに残っ




