第16話:『二重の気配』
日常の風景に、ごく薄い“重なり”が生まれる。
エレベーターの扉が開いた瞬間、
空気が、薄い膜を二枚重ねたように触れてきた。
一枚目は、いつもの空調の冷たさ。
二枚目は、その奥に沈んだ、温度のない“気配”のようなもの。
(……二重?)
通路の奥から流れてくる声も、今日は妙に分かれている。
売上速報を話す声。
製造ラインの詰まりを気にする声。
どちらも同じ方向へ向かっているのに、
その“流路”だけが、少しずれている。
昨日の会議室で見えた“境界のずれ”が、
今日は音の方に移動しているような、そんな感触。
開発室のドアを押すと、
アルコールと原料粉末の匂いがふっと混じり、
空気が別の層へ切り替わる。
PCを起動すると、
モニタの前にふわりとホログラムが立ち上がった。
《ログイン、確認》
アークの声は、影のように短い。
そこに意志も抑揚もなく、ただ観測結果だけが置かれる。
「おはよう、アーク」
《……》
返事ではない。応答でもない。
ただ、空白そのものがこちらの声を通過していく。
画面の前の空間にも、
今日の“二重の膜”が薄く揺れているように見えた。
表側にはPCの光。
その半歩奥には、工程表やスケジュールの流れが面として広がっている。
どちらも現実で、どちらも重なっている。
(こういう感覚、前にも……いや、昨日か)
「昨日の試作、一覧出して」
《表示》
アークのホログラム上にリストが並ぶ。
日付順に整列された文字列が、
まるで潮の満ち引きのように一定方向へ押し出されていく。
(スクロールじゃない……“流れ”だ)
今日の開発室の音も同じだった。
ミキサーの低い回転音。
原料の袋が擦れる音。
誰かのペンがメモを走る音。
一つひとつが、同じ“向き”を持って耳に届く。
ただの雑音ではなく、広い河川の分流の一つとして。
(世界が、方向を持っている……?)
「アーク、これ……全部、流れてるように見える」
自分でも意味が曖昧すぎて笑ってしまいそうになる。
《時系列で整列》
それだけ。
説明も補足もない。
けれど、この一言だけで
胸の奥の“ざらつき”が、少し輪郭を持った。
(時間方向……)
ホログラムの光が、わずかに揺れる。
ノックの音。
「南条さん、評価戻りました」
手渡された紙には、短いコメントが並んでいた。
「甘味の立ち上がりが弱い」
「後味が軽い」
「香りが強すぎる気がする」
同じ試作なのに、
評価している“場所”が全部違う。
売り場の棚を思い浮かべている人。
試食の瞬間だけを切り取る人。
加工工程を頭に置いている人。
使用者の体験を追う人。
(同じサンプルを見てるのに、重ねてるレイヤーが違う)
「どう思います?」
後輩が少し不安そうに聞いてくる。
「……どれも正しいよ」
「え?」
「ただ、正しさの“位置”が少しずつ違うだけ」
言葉にした瞬間、
胸の奥で何かが小さく噛み合った。
自分が今言ったことの意味を完全に理解しているわけじゃない。
けれど、“方向”だけは確かに合っている気がした。
《層、観測》
アークのホログラムが、
その二文字だけを静かに浮かべる。
肯定もしない。
否定もしない。
説明すらしない。
ただ、そこに“観測結果”だけが置かれる。
(層……か)
試作コメントの紙を見ていると、
紙の表面の文字が、薄い透明な板を何枚も重ねたように見えてきた。
顧客のレイヤー。
製造のレイヤー。
営業のレイヤー。
自分のレイヤー。
それぞれに“正しさ”があり、
その位置が少しずつずれている。
今日の開発室全体が、
その“ずれ”の振動を拾っている。
(もし……この重なり方を、ちゃんと見えるようにできたら)
想像した瞬間、
視界が軽く震えた気がした。
アークのホログラムが、
その震えに共鳴するようにわずかに揺れる。
「……サンプル、あとで一緒に見よう」
「はい!」
後輩が去っていく足音が、
部屋の奥へ吸い込まれるように消えていく。
開発室の窓から差し込む光が、
白い壁に二つの影を落としていた。
わずかに離れ、
でも同じ方向を向いた影。
その“ずれ”が、
世界の向きそのものを示しているように見えた。




