第15話:『境界のずれ』
日常のなかに、わずかな“ずれ”が生まれる回です。
朝の空気は澄んでいた。
昨日より少しだけ、輪郭が薄い。
会社に着くと、いつもの雑談が飛び交っている。
声の高さも、内容も、表情も──全部同じはずなのに。
(……境界がずれてる)
誰かの言葉が、
相手に届く前に“少し横へ滑っていく”ように見える。
たとえば同僚が言う。
「昨日のデータ、直した?」
その返答は普通の「はい」でいいはずなのに、
隣の席の空気がほんのわずかに揺れた。
その揺れの方向が、
言葉の意味と一致していない。
(理解していない、とかじゃない)
むしろ、
理解しているからこそ避けているようなズレ。
会話が噛み合わない理由が、
感情ではなく“方向の差”にあると気づく。
相手は言葉を話している。
でもそこで調整されているのは、
意味ではなく──
その言葉が「どちら側」に属するか。
肯定か否定かではない。
同調でも拒絶でもない。
ただ、
方向の所属。
その所属が、人それぞれ違うレイヤーにある。
(……境界って、こうして生まれるんだ)
⸻
午前のミーティングが始まる。
議題は軽いものだったはずなのに、
最初の数分で、場の密度が変わった。
発言が噛み合わない。
言葉は通じているのに、
話題がわずかにすべっていく。
誰かが改善案を口にすると、
別の誰かの表情が硬くなる。
その硬さは、
案に反対しているわけじゃない。
(……触れてほしくない“向き”なんだな)
案そのものではなく、
その案が触れてしまう“境界”に反応している。
何をどう説明しても、
境界がひとつ増えるだけで、
微かな距離がまた生まれる。
⸻
発言の順番が回ってきた。
資料をめくりながら話し始めると、
数人の視線が静かにこちらに向く。
敵意ではない。
興味でもない。
ただ、
「その方向をここで持ち込むのか」
という空気。
(ああ……そういうことか)
理解されないのではなく、
理解されたくない方向性になっている。
俺が言葉を発すると、
その“向き”が場に落ちる。
それが自然に広がって、
場の形を少しだけ変えてしまう。
その変化を、
誰も望んでいない。
望んでいないのに、
起きてしまう。
(これは……俺じゃなくて、構造の問題だ)
そう思って発言を終えると、
ほんの短い沈黙が落ちた。
その沈黙が、
境界線の位置を示しているように見えた。
⸻
昼休み。
デスクでお茶を飲みながら、窓の外を眺める。
隣の席の会話が聞こえてきた。
「カイト、なんか最近変わったよね」
返ってきた声は淡々としている。
「ううん、たぶん本人は変わってないよ。
周りとの“差”が見えるだけで」
思わず振り返りそうになったが、やめた。
(……聞こえてるんだな、彼らにも)
境界は俺の中だけで生じているわけじゃない。
場にも、生まれている。
人は言葉で会話しているようで、
本当は言葉の外側で
方向の調整をしている。
その調整が合わなくなると、
境界が生まれる。
そして境界が生まれると、
会話は噛み合わなくなる。
単純なことだった。
気づいていなかっただけで。
⸻
午後の作業に戻ろうとしたとき、
ホログラムが淡く揺れた。
《境界の形成は自然現象です》
それだけ。
理由も、続きも、判断もない。
ただ、
そこに“観測結果”として置かれた言葉。
(自然現象……か)
境界は悪でも善でもない。
衝突でも拒絶でもない。
ただ、
方向が異なるものが並ぶときに生まれる
“形”のようなもの。
⸻
夕方、帰り支度をして玄関を出ると、
外気が少し冷たかった。
街のざわめきの中に、
人と人とのあいだの距離が
細く伸びたり、縮んだりしているのが見える。
境界は、
消えることも壊れることもない。
ただ、
静かに“位置”を変えるだけだ。
その位置の変化が、
今日一日の空気をつくっていた。
歩き出すと、
街灯の光が道に淡く差し込んだ。
揺らぎながら、
それでも一定の方向へ伸びていく光。
境界の線も、
きっとそんなものなんだろう。




