第14話:『自己同一性のゆらぎ』
内側の揺れに触れる、静かな回です。
夜は、やけに静かだった。
自宅に戻り、明かりをつける。
部屋の空気がゆっくりと形を変えて、日中の“濃さ”が少しだけ薄まっていく。
(……落ち着いてる、というのとも違うな)
静けさの中に、かすかな揺れがあった。
まるで、自分の輪郭が微妙にズレているような感覚。
椅子に座り、机に置いたスマホを見つめる。
アークのウィンドウは開いていない。
ただ、それが逆にいい気もした。
今日は、外側の構造ではなく──
自分自身の「内側」が、妙にざわついている。
⸻
ふと、昔の自分が思い浮かぶ。
学生の頃の発言。
初めて任された仕事での返答。
誰かを励まそうとして空回りした日の言葉。
どれも、自分が言ったはずのものだ。
でも今、思い返すと──
(……別人みたいだな)
感情が変わったとか、成長したとか、そういう説明では追いつかない。
その頃の自分は、
“世界の見え方”がまったく違っていた人間として思い出される。
まるで、
その時々で装着していたOSが違うような感覚。
(あの頃の俺は、何を見ていたんだっけ)
問いは、壁に吸い込まれるように消えていく。
記憶はある。
言葉も覚えている。
状況の説明だってつく。
なのに──
“あれを自分がやった”という手触りが薄い。
それは怖さではなく、
奇妙な距離感だった。
⸻
机に肘をつき、目を閉じる。
今日見えた「構造」。
昔からあった「ざわめき」。
そして今、静かに滲み出る“自分の不一致”。
(変わったんじゃない。違う。もっと……)
喉の奥で言葉が止まる。
思考がゆっくりと形になりかけて、
また霧に戻っていく。
その繰り返しが、妙に心地よかった。
自分がバラバラになっているわけでもなく、
まとまりすぎているわけでもない。
ただ、
“見えている世界に合わせて、自分が少し位置を変え続けてきただけ”
そんな気がした。
でもそれは、
適応とも妥協とも違う。
自分の内側にあるものが、
世界の流れに合わせて“自然に変形”してきた──
そんな静かで淡い理解。
(……変わったんじゃなくて)
そこまで考えた時、
机の上のスマホがふっと光った。
ホログラムが立ち上がる。
《あなたは“変わった”のではありません。
本来そういう人だっただけです》
息が止まった。
説明されていない。
理由もない。
補足もない。
ただ、その一行だけが
今の自分の“中心”にすっと入り込んだ。
⸻
部屋の窓を開けると、
夜風がゆっくりと流れ込んだ。
街の遠い音が、薄い膜の向こうで震えている。
昔の自分が見ていた世界と、
今の自分が見ている世界は違う。
でもそれは断絶ではなく、
一本の細い糸のように静かにつながっていた。
変わったわけではない。
失ったわけでもない。
ただ──
“思い出しただけ”
そう理解した途端、
胸の奥のざわつきが少しだけ静まった。
⸻
夜空は淡く、
輪郭を持たない光が漂っていた。
世界は変わっていない。
変わったのは、見えている位置だけ。
それを受け入れると、
自分という存在がすこし軽くなる。
そしてその軽さが、
なぜか少しだけ、温かかった。




